裏切りは朝日を連れて

 浅い眠りから蘭丸らんまるは目を覚ました。

 しとねの中で目を開くとまだ残る夜の気配と外に漂う薄明の淡く朧気おぼろげな光が見える。視界の内には眠りを妨げるようなものはない。けれど、一抹の妙な胸騒ぎを覚えて、ふと蘭丸は床に手を当てた。指の先に微かな震えを感じる。次いで蘭丸は床板に耳を押し当てた。

 ――遠い。だが、何かが近づいてくる。

 異変の出処でどころを探ろうと蘭丸は起き上がった。遠い喧噪は詰まるところ、百姓か田舎侍の小競り合いででもあろうと自らに言い聞かせる。心を静めて蘭丸は障子戸を引き開けた。寺内を囲む塀の向こうに広がる京の街、その彼方に土埃が見える。それはどうやら地煙じけむりらしい。その煙塵えんじんの合間に旗が見え隠れしている。その旗に蘭丸はじっと目を凝らす。そして、そこに描かれた家紋を認めて、独り呟いた。

「――水色桔梗みずいろききょう

 見慣れた旗印が翩翻へんぽんと揺れている。蘭丸はひとまず胸を撫で下ろした。

 未だ恭順きょうじゅんせぬ毛利や上杉の旗ではない。民草の起こす喧噪ですらなかった。蘭丸は自らの早合点をやれやれと笑う。本願寺や叡山えいざんの僧兵でなかったことは幸いではないか、と。そうして先走りがちな神経をなだめるも、胸に湧いた不安がどういうわけか一向に晴れない。騒ぐその胸の鼓動は確かに変事を告げている。蘭丸は再び揺れる旗印に目を向けた。

 水色桔梗。

 明智の桔梗紋が白く染め抜かれたその旗印を蘭丸は幾度も戦場いくさばで目にしてきた。美しく清廉な旗。その旗を掲げるのは他ならない明智十兵衛光秀であると蘭丸は知っている。いや、蘭丸だけではなく家中かちゅうの誰もがその旗が示す人物を知っているはずだった。

 明智あけち十兵衛じゅうべえ光秀みつひでの人となりを。

 頼もしく誠実で公明正大なその人柄。知略と武勇を兼ね備えた稀代きだいの武将。戦国の世にあって同じ主君をいただく者として、これ以上ない傑物だと蘭丸は光秀を見ている。その明智の桔梗紋に疑念を向ける自分が信じられない。

 蘭丸はかぶりを振る。

 ありえない。明智殿に限って、万に一つも。

 しかし、心情とは裏腹に胸の内に巣食った不安は広がっていく。

 何故、ここに明智殿の旗がひるがえっているのか。何用で明智殿はこの寺へ向かってくるのか。答えを持たない蘭丸は考えを巡らせる。

 火急の用が起こったのであれば伝令を遣わせればよい。そこに敢えて旗を掲げる必要はない。また、既にこの京とその民に名を知られた織田家中に連なる明智一党が殊更ことさらに市中で威を示す謂われもない。他に考えうるとすれば凱旋であろうか。しかし、明智殿に上様が下された命は西国討伐の只中にある羽柴殿の援護であった。それが早、叶ったなどということはあるまい。本来であれば明智勢は丹波国から西国へ抜ける道中にあり、三草みくさ山を越えている頃合いではないのか。

 沈思ちんしむなしく蘭丸の心中はいたずらに掻き乱れ、疑念が渦巻くばかり。答えの出ぬままに蘭丸は傍らの刀をその手に握った。

 何はともあれ上様のもとへ。

 駆け出した蘭丸の胸に一つの考えが浮かぶ。旗を掲げるに足る理由が。それは蘭丸にとって分かりきっているはずの答えだった。

 いくさ

 これに勝る理由などないではないか。刀を握るまで思い及ばなかったことが蘭丸は不思議でならなかった。けれど、その結論に至った蘭丸は自らにさらなる問いを重ねる。

 敵は何処いずこに――。

 天下布武を半ば果たしたとはいえ、上様の首を狙う輩は数知れずいる。いつ何時なんどき、戦が始まっても家中の誰も驚くことはない。だが、戦ならば敵は何処に。天下泰平に仇なす不届き者はどこにおるというのか。

 上様の号令に従わず上洛を拒んだ者どもであろうか。それとも生き残りの悪僧どもか。何処に。我らの敵はどこにおるのだ明智殿。何故なにゆえ、水色桔梗の旗だけがこの寺を取り囲むのか。敵の旗印はどこにある。そも我らの敵とは誰だ。――教えてくれ明智殿。

 自問によって育まれた疑心の芽から蘭丸は目を背けることが出来なかった。

 今や耳を澄ませずとも隔てた塀の先から隠しようもなく具足ぐそくから生じる小札こざねの擦れ音が届く。蘭丸は渇きを覚えて舌で唇を湿らせ、次いでその紅い唇に小さく歯を立てた。

 確証はない。それでも一刻も早く、上様の許へ。

 床板が軋むごとに胸の早鐘は拍子をいや増していく。その鼓動を掻き消す鯨波ときの声が駆ける蘭丸の耳朶じだを震わせた。

「敵は本能寺に在り!」

 廊下を渡る蘭丸の白小袖しろこそでが風になびく。戦雲の到来は蘭丸の秀眉しゅうびを歪ませた。

 敵。

 その言葉を聞き違えるはずもない。それは最早、後戻りの叶わぬ言葉。

 我らの道はいつ違ったのだ、明智殿。

 心中で蘭丸はほぞを噛む。そして、胸に溢れる無念を押し殺し、蘭丸は自らの主君の許へと急ぐ。織田おだ前右府さきのうふ信長のぶながの許へと。


 ――天正てんしょう十年六月二日。朝まだき京の都は本能寺にて火蓋は切って落とされた。

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