明智の旗の下に

 明智勢はその日の内に丹波亀山たんばかめやま城を出陣し、亀山の東、柴野しばのという地に兵を揃えた。その総数は一万三千。軍勢に待機を命じると秀満ひでみつ葱青そうせいとした野営地を離れ、調議のため急ぎ重臣達を集める。酉の刻をまわった頃、丹波亀山城での軍議と同じ顔ぶれが一堂に会した。

 水無月の傾いた陽光がかもす草いきれ、せるようなその熱を肺に送り込みながら秀満は床几しょうぎに腰掛け、主君の言葉を待つ。そんな秀満の表情に察するところがあるのか、行政ゆきまさは寂黙として厳めしい皺をその顔に刻み、僅かに俯く光忠みつただは青いかげを目元に落としているようだった。

 その皆々の間に利三としみつ気忙きぜわしく膝を揺する音が流れる。利三は時を無為に費やすことを嫌っているらしかった。対照的なのは茂朝しげとも。小揺るぎもせず微動だにもしない。しかし、それは従容しょうようとした態度ではなく、蘭丸らんまるの差し出口に従わざるを得ない憤懣ふんまんを身の内に抑え込むためであるようだった。この現状が蘭丸をかたった光秀みつひでの企てであるとまだ茂朝は気づいていないらしい。

 そうして主君を囲うように半円状の車座となった五人に光秀が語る。

「我らはこれより京へ上る」

 頷く一同。光秀の言葉は続く。

「だが、それは信長のぶながに我が軍の陣容を検分させるためではない」

 光秀は上様や殿とのとは言わず、ただ信長と呼んだ。光忠と行政が固唾を呑み、利三は虚を衝かれたように目を丸くしている。呼び捨てる。ただそれだけのことで既に主君の意を知る秀満を除いた四人も事の次第を悟ったようだった。

 真っ先に口を開いたのは茂朝。その拳は見るからに力強く握られている。

「何なりとお命じください。この溝尾みぞお庄兵衛しょうべえ茂朝しげとも、必ずや京の都に名を残してみせましょう!」

 そんな茂朝の感奮かんぷんを即座に遮る声が挙がった。

「待て待てぃ」

 利三が狼狽の色を隠すことも出来ぬ様子で茂朝と光秀を交互に見やる。

「早合点するでない、庄兵衛殿。十兵衛様は何も戦支度をせよと仰ったわけではあるまい。よもや、よもや京に攻め上るなどとは……」

 何かの間違いであろう、とでも言うように利三は語尾を曖昧に濁した。その歯切れの悪さに茂朝が反発する。

「何を言うか。先程のお言葉、その本意は明らかであろうが。何を躊躇うことがある」

 猛る茂朝の言葉に利三はなおも首を横に振る。

「誰を向こうに回すか、お主は本当に分かっておるのか?」

「分かっておるとも、それでこそだ。それでこそ武士の本懐。望むところというものよ」

 蘭丸への溜め込んだ怒りが茂朝を殺気立たせているようだった。そんな茂朝に向けて行政が重々しく口を開く。その顔には深い皺が刻まれていた。

「武士の本懐とはよくぞ申した。だが、覆水は決して盆には返らぬ。始めてしまえば後戻りは叶わぬぞ。我らにはまだ西国の羽柴の元へと向かう道も残されておる」

 助勢を得て利三が今度は光秀へ向けて懇願する。

「お考え直しくださいませ、十兵衛様。織田家を敵に回した者の末路を知らぬ我らでもありますまい」

 利三の言葉に光忠が青い顔をして小さく身震いを起こした。光忠の頭を過ったものを秀満は知り得ない。思い当たる節は数え切れないほどに多かった。

 右往左往する臣下を前にしても光秀は泰然自若の構えを見せている。見守るような光秀のその表情は秀満の目に全てを知る菩薩の如く映った。悠然と、それでいて充溢じゅういつする決意が光秀の全身には立ち上っているようだった。

 再び口を開いた光秀の声に秀満は耳を傾ける。

「恨みもあろう。怒りもあろう。恐れなど言うまでもない。それが信長。それが織田おだ前右府さきのうふ信長のぶながつくった世である。乱れること麻の如し。血と涙で覆われた世で誰が笑えよう。誰が束の間の生を謳歌できようか。この世に生きるは我ら武士だけではない。民草の喜びを蔑ろにして良いわけがない。――信長は討たねばならぬ」

 清廉な理想とともに信長の死を望む。そんな光秀の言葉に抗弁することの出来る者などいなかった。その高潔さこそが光秀に仕える何よりの理由である。その場の誰もがそう考えているようだった。

 しかし、それでもまだ心を決めかねたように光忠が視線を彷徨わせている。身に刻まれた織田信長という輪郭を持った恐怖は光忠にとってそれほど拭い去りがたいものであるらしい。その怖々こわごわとした視線が秀満のものとぶつかった。光忠はすがるような目を秀満に向けてくる。

左馬之助さまのすけ殿は如何いかにお考えでしょう?」

 この無謀を止められるのは秀満だけ、と光忠は考えているようだった。しかし、誰より先に光秀からその意を受けた秀満に引き下がる気は毛頭ない。むしろ、この場での自身の務めは蜂起を促すことにこそあると秀満は自任していた。

「――討つしかあるまい」

 雲の落とした影の内で秀満は光秀を背にして宿老達にのたまう。

「恨みは、怒りは、恐れはどこへ行く。……その憂いはどこへも行かぬ。患難かんなんは決しておのずから消えたりはせぬ。それらは心に根を張り、やがては世に蔓延はびこってゆく。誰かがその根を断たねばならぬ。つまりは我らが――」

 しかし、と反駁はんばくする光忠を秀満は一瞥いちべつのみで黙らせる。

「我らは十兵衛様よりその心の内を明かしていただいた。我らの胸は既に十兵衛様の心を知っておる。それが何より肝要なこと。全てはそれに尽きる。なぜなら、信長は暴君であれど暗愚ではない。あの第六天魔王を称する男にとって我らの胸の内を洞見どうけんすることなど容易たやすかろう。そして、一度ひとたび抱いた猜疑さいぎを看過するなど織田前右府信長にあっては万に一つもない。それは皆も知るところであろう」

 秀満の言い様に光忠、利三は不承不承ながらに頷くようだった。行政も最早もはや、語るべきことはないとでも言うように固く目を閉じた。一方、血気を逸らせていたはずの茂朝が賛同するでもなく顔をしかめてみせる。

「左馬之助殿、一つ確かめておかねばならぬ。我らが織田を討つは匹夫ひっぷの如く、事の露見を恐れるためか? 下郎げろうの如く、胸に秘めた叛意はんいを悟られぬためか? もし、そうであるならば卑劣のそしりは免れぬ。それは十兵衛じゅうべえ様の志を我ら自ら地に落とすこととなる行いぞ」

 秀満はその声音に茂朝の忠義を聞いた。茂朝は同じ道を行く者であると認めて秀満は導くようにしるべを立てる。願わくば他の者も続かんことを、と心に念じながら。

「馬鹿を申すな、庄兵衛。十兵衛様のお言葉を取り違えてなどおらぬ。そも我らの決起は大逆にあらず、謀叛にあらず、我らは世のために立つのだ。即ち、義は我らにある。我らの旗には一片の曇りもありはしない」

 野を渡る青嵐が雲の影を吹き払っていく。陽を浴びて茂朝は愉快とばかりに大笑した。その茂朝の背の向こう。そこには冴え冴えとした水明の如き明智の桔梗紋が翻っている。秀満はつい先刻の行政の言葉をその旗に結びつけた。

「覆水盆に返らずとはよく言ったもの。流れた水は二度と元の場所には戻らぬ。我らに最早、退路はない。なればこそ、我らは怒濤となって織田の造った世をことごとく押し流そう。空いた盆には信長めの首を据えればよい」

 秀満の檄に残る宿老達もようやく腹を括ったようだった。そして、秀満の言葉を引き取るように満を持して光秀が立ち上がる。

「織田信長を討ち果たし、この明智十兵衛光秀が天下を本来あるべき正道へと戻す。平らかな世を築くため、我ら明智が救世の担い手とならん。――者ども、我に続け!」

 光秀の気高き宣言に明智は一丸となり、京への進軍が密かに開始された。

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