偽られた文
秀満の背後には主君の命を受けて秀満自ら招集を掛けた四名の姿が続く。
「
左馬之助、と自分を呼ぶ光忠の声に秀満は先刻の主君の横顔を思い出す。その目に宿った強い光を。その光に秀満は予期するものがあった。しかし、秀満はそれを語らない。
「いや、十兵衛様は皆が揃ってからだと仰せであった」
そんな秀満の返答に光忠は小さく頷いて、昼日中の日射しを
「
光忠のその言は西国にある敵将、毛利のみを指すものではない。その毛利をこれからともに攻める羽柴への疑念がその響きには含まれている。居流れる面々が胸に浮かべた思いは同じもののようだった。羽柴は油断ならぬ。秀満はそれを察した上で、ただ黙って日が照り返す廊下の先に歩を進めていく。
西国討伐。
主君の目に宿った強い光。それは戦を前にした武人のものではなかったか。羽柴が攻略に取り掛かっている
秀満は城中を進みながら光秀の見据える先に思いを馳せる。
本丸の
「
光秀の言葉に茂朝が苦虫を噛んだような表情を浮かべる。
「森、成利っ……!」
信長の近習。
「あのような
茂朝の言葉を手で制して穏やかに光秀は言う。
「そうもいかぬ。森殿は信長様の手足にも等しい御方。礼を失することは出来ぬ。……それにあれは森殿の温情であった」
秀満は小さく頷く。信長が怒りのままに光秀に手を上げていれば、あの程度では済まなかったに違いない。蘭丸の行動は光秀を庇ったようでもあった。しかし、秀満には茂朝の気持ちも痛いほどによく分かる。どのような理由であれ、主君に与えられた恥辱を忘れることなど出来るはずもない。
「――して、文には何と」
そう尋ねたのは利三だった。束ねたままの文に目をやって光秀は告げる。
「信長様が直々に陣容の検分をなさるとのこと、それゆえ出陣を急げとの達しであった」
告げられた文の内容に茂朝がまた気に食わぬ様子で鼻を鳴らす。それには構わず利三が確かめるように光秀へ伺いを立てた。
「とすると、我らはこれより京へ向かうということでしょうか」
京よりの文。信長は京にいる。しかし、丹波国から京へ向かうとなれば進む方角は東。羽柴の待つ西国からは離れることとなる。そして、行って戻る分だけ進軍に要する
「――そうなる」
光秀のその答えに秀満は自らの心積もりが的外れではないことを知った。念頭にあったのは主君の目に宿ったあのただならぬ光。それは信長の
秀満と同じ疑問を光忠や行政も抱いたようだった。しかし、その内の誰も口を開くことはしない。口を開けば最後、何かが始まってしまう。その何かを恐れるように光忠と行政は黙っていた。残る二人、茂朝は蘭丸への怒りに震え、利三は兵糧や行軍に掛かる勘定に頭を働かせているらしい。
結局、五人は異を唱えることなく京へ向かうことを承服した。
散会に従って利三、茂朝、光忠は御殿を離れていく。そこに続くように立ち上がった行政が秀満を見ていた。秀満は行政と互いの視線を見交わす。光秀の思惑を質し、事によってはお
そして、行政の去った表御殿には秀満と光秀だけが残された。秀満は自ら口を開くことはせず光秀の前に黙って座り続ける。長い静寂。先に音を上げたのは光秀の方だった。諦めたように口の端には自嘲めいた笑みが浮かんでいる。
「言いたいことがあるのなら遠慮なく申せ、左馬之助」
柔らかな主君の言葉に甘えて秀満は忌憚なく自らの考えを発する。
「十兵衛様は偽りが不得手でいらっしゃる」
光秀は小さく息を吐いて、
「その通りだ。
言って、光秀は手にしていた文を秀満へと投げて寄越した。その紙の束を秀満はおもむろに開く。全くの白紙。そこには秀満の予想通りに何も書かれてはいなかった。その文に見せかけられた紙を秀満は丁寧に畳み直して光秀へと返す。
「森殿には悪いことをした。……惜しいものだ」
光秀は蘭丸を惜しむらしい。そこには皮肉も
記憶に新しい蘭丸の
その策の意味するところ。それは秀満にとって自明なように思われた。光秀は旗を掲げんとしている。信長に背き逆らう反旗の旗を。秀満は光秀に視線を据えたまま、問う。
「――
苛烈な信長の仕打ちのためか、恥を
光秀の目に宿る光に秀満は目を凝らす。光秀は普段と何一つ変わらぬ
「無論、天下泰平のため」
強く清澄な
光秀の奉ずる理想の道に秀満の
光り秀でる自らの主君へと秀満は改めて忠誠を誓う。
「どこまでも、お
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