偽られた文

 天正てんしょう十年六月一日。

 丹波亀山たんばかめやま城の城中を明智あけち秀満ひでみつは本丸に向かって進んでいた。

 秀満の背後には主君の命を受けて秀満自ら招集を掛けた四名の姿が続く。明智光忠みつただ斎藤さいとう利三としみつ藤田ふじた行政ゆきまさ溝尾みぞお茂朝しげとも、それぞれが秀満と同じく明智十兵衛じゅうべえ光秀みつひでという主君に忠を誓った重臣達であった。その内の一人、すぐ後ろを歩く光忠が秀満へと問いかける。

此度こたびの御用命、左馬之助さまのすけ殿はお聞き及びでしょうか?」

 左馬之助、と自分を呼ぶ光忠の声に秀満は先刻の主君の横顔を思い出す。その目に宿った強い光を。その光に秀満は予期するものがあった。しかし、秀満はそれを語らない。

「いや、十兵衛様は皆が揃ってからだと仰せであった」

 そんな秀満の返答に光忠は小さく頷いて、昼日中の日射しをいとうように独りごちる。

西国さいごくは遠きところゆえ、憂いが多くて敵いませぬな」

 光忠のその言は西国にある敵将、毛利のみを指すものではない。その毛利をこれからともに攻める羽柴への疑念がその響きには含まれている。居流れる面々が胸に浮かべた思いは同じもののようだった。羽柴は油断ならぬ。秀満はそれを察した上で、ただ黙って日が照り返す廊下の先に歩を進めていく。

 西国討伐。織田おだ信長のぶながから下された命により、光秀率いる明智勢は毛利を攻める羽柴の援軍としてここ丹波亀山城で陣容を整えている。自然に考えれば、この招集は出陣に向けての軍議に過ぎない。しかし、と秀満は心中でいぶかる。

 主君の目に宿った強い光。それは戦を前にした武人のものではなかったか。羽柴が攻略に取り掛かっている備中高松びっちゅうたかまつ城までの距離は五十里を優に越える。意気軒昂いきけんこうが望ましいとはいえ、彼方の戦場いくさばに対して先走りの度を越しているように秀満には思えた。だが光秀の思い描く戦場が別にあるとすれば、あの目の光にも得心がいく。

 秀満は城中を進みながら光秀の見据える先に思いを馳せる。

 本丸のおもて御殿ごてんに秀満を始めとした五人が列座すると、待ち受けていたように光秀が姿を現した。上座に腰を下ろし、一同を見回すように視線を走らせてから光秀は口を開く。

もり成利なりとし殿より京から文が届いた」

 光秀の言葉に茂朝が苦虫を噛んだような表情を浮かべる。

「森、成利っ……!」

 信長の近習。蘭丸らんまるの名でも知られる絶世の美少年。その名を茂朝は親の恨みででもあるかのように吐き捨てた。否、それは恨みには違いなかった。徳川への饗応きょうおうにおいて不始末を起したとして蘭丸が光秀をなじり、打ち据えたのはつい先日のこと。その姿は秀満の記憶にもまざまざと残っている。

「あのような小童こわっぱの文など破り捨ててしまえば――」

 茂朝の言葉を手で制して穏やかに光秀は言う。

「そうもいかぬ。森殿は信長様の手足にも等しい御方。礼を失することは出来ぬ。……それにあれは森殿の温情であった」

 秀満は小さく頷く。信長が怒りのままに光秀に手を上げていれば、あの程度では済まなかったに違いない。蘭丸の行動は光秀を庇ったようでもあった。しかし、秀満には茂朝の気持ちも痛いほどによく分かる。どのような理由であれ、主君に与えられた恥辱を忘れることなど出来るはずもない。

「――して、文には何と」

 そう尋ねたのは利三だった。束ねたままの文に目をやって光秀は告げる。

「信長様が直々に陣容の検分をなさるとのこと、それゆえ出陣を急げとの達しであった」

 告げられた文の内容に茂朝がまた気に食わぬ様子で鼻を鳴らす。それには構わず利三が確かめるように光秀へ伺いを立てた。

「とすると、我らはこれより京へ向かうということでしょうか」

 京よりの文。信長は京にいる。しかし、丹波国から京へ向かうとなれば進む方角は東。羽柴の待つ西国からは離れることとなる。そして、行って戻る分だけ進軍に要する日数ひかずもまた余計に掛かってしまう。利三の懸念は当然のものであった。

「――そうなる」

 光秀のその答えに秀満は自らの心積もりが的外れではないことを知った。念頭にあったのは主君の目に宿ったあのただならぬ光。それは信長のとぶらいを考慮に入れたとしても、陣容の検分に臨む者の目などでは決してなかった。しかし、光秀はただ京に向かうのだとしか言わない。軍勢を伴って京に上ることが何を意味するのか知らぬわけでもなしに。

 秀満と同じ疑問を光忠や行政も抱いたようだった。しかし、その内の誰も口を開くことはしない。口を開けば最後、何かが始まってしまう。その何かを恐れるように光忠と行政は黙っていた。残る二人、茂朝は蘭丸への怒りに震え、利三は兵糧や行軍に掛かる勘定に頭を働かせているらしい。

 結局、五人は異を唱えることなく京へ向かうことを承服した。

 散会に従って利三、茂朝、光忠は御殿を離れていく。そこに続くように立ち上がった行政が秀満を見ていた。秀満は行政と互いの視線を見交わす。光秀の思惑を質し、事によってはおいさめせよ、と行政の目が雄弁に語っている。明智に仕える五宿老の中で最も年長の行政の意を汲んで秀満はひとまず頷いてみせた。

 そして、行政の去った表御殿には秀満と光秀だけが残された。秀満は自ら口を開くことはせず光秀の前に黙って座り続ける。長い静寂。先に音を上げたのは光秀の方だった。諦めたように口の端には自嘲めいた笑みが浮かんでいる。

「言いたいことがあるのなら遠慮なく申せ、左馬之助」

 柔らかな主君の言葉に甘えて秀満は忌憚なく自らの考えを発する。

「十兵衛様は偽りが不得手でいらっしゃる」

 光秀は小さく息を吐いて、

「その通りだ。はかりごとには向いておらぬ」

 言って、光秀は手にしていた文を秀満へと投げて寄越した。その紙の束を秀満はおもむろに開く。全くの白紙。そこには秀満の予想通りに何も書かれてはいなかった。その文に見せかけられた紙を秀満は丁寧に畳み直して光秀へと返す。

「森殿には悪いことをした。……惜しいものだ」

 光秀は蘭丸を惜しむらしい。そこには皮肉も諧謔かいぎゃくもない。それは光秀の本心のようだった。秀満は主君をただ見つめる。慣れぬ偽りをろうしてまで光秀が何を始めようとしているのか見定めるために。

 記憶に新しい蘭丸の乱行らんぎょうを敢えて思い出させるような文の捏造。それは家臣達の怒りを煽るためのものであった。主君を侮られたままではいられない武士というさがを焚きつける詐術。明智に仕える者どもの怒りの矛先は確かに蘭丸へと向かうことだろう。さらに蘭丸の仕える信長への憤りもまた助長されるに違いない。そして、同時に本来の目的地を離れる口実としてもその偽りは作用する。向かぬと言いつつ、光秀のいつわごとはなかなかどうして見事な手管てくだであった。

 その策の意味するところ。それは秀満にとって自明なように思われた。光秀は旗を掲げんとしている。信長に背き逆らう反旗の旗を。秀満は光秀に視線を据えたまま、問う。

「――何故なにゆえにございましょうや」

 苛烈な信長の仕打ちのためか、恥をそそぐためか、将軍義昭よしあきへの義理立てか、比叡山を始めとする寺を相手取り仏敵ぶってきとなるが忍びなかったか、それとも――野心ゆえか。 

 光秀の目に宿る光に秀満は目を凝らす。光秀は普段と何一つ変わらぬ恬淡てんたんとした態度でもって秀満の問いに答えた。

「無論、天下泰平のため」

 強く清澄なまばゆい眼光に射貫いぬかれて秀満は居住まいを正した。そこに私欲はない。おごりもない。無私の心でただ平らかな世を求める主君の姿がそこにはあった。

 光秀の奉ずる理想の道に秀満の諫言かんげんが入り込む余地などどこにもない。秀満は光秀の臣である。臣であるならば、主君の示す道をともに行くのみ。その道連れに信長への恐れなど必要ない。要るのは身一つと忠義の他にありはしなかった。

 光り秀でる自らの主君へと秀満は改めて忠誠を誓う。

「どこまでも、おとも致しまする」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る