番外編/ネームメーカー編『I'm still praying.』
仕事がうまくいかなくなってから、父さんはおかしくなってしまった。病院にかかって、心の病だとわかった。その夜、父さんはすごく具合が悪くて、おれと弟のノアを指さして大声で喚いた。あれはなんだ、どうしておれをみる、悪魔の子だ、お前が悪魔とセックスして生んだ子供だ!、散らかった部屋のなか、手近な瓶で母さんを殴ろうとするのをみて、おれは慌てて止めに入った。幸い、母さんには当たらなかったけれど、父さんの握る瓶の軌道は大きく逸れて、食卓の角に当たった。飛び散った破片のひとつが、おれの左目にぐっさりと突き刺さる。母さんは悲鳴をあげておれを抱きあげ、急いで病院に連れて行ったけれど、結局、おれの左目はつぶれてしまった。
耐えかねた母さんは、おれとノアを連れて家を出た。どこへ行くのかもわからなかった。途中、母さんはしゃがんで、おれたちふたりと目を合わせて言った。お母さん、お金をおろしてくるね、すぐに戻るから、ここで待っていてね。おれたちは頷いた。ふたりで、手を繋いで、冬の終わりぎわ、まだ冷えこむ夜の公園で、夜空の星をかぞえていた。なかなか帰ってこないね、うん、そうだねぇ、なんて言いながら、自販機でココアを買った。朝になっても、母さんは戻ってこなかった。
おれとノアは母さんを待つのをやめて、ふたりで街を歩いていくことにした。なんとなく、家にはもう、帰れない気がした、ううん、……帰りたくなかったのかな。だから、すれ違う大人のひとたちに聞いてみた。「あの、おれたち、どこへいけばいいんですか。」ぎょっとする人、面倒くさそうにする人、イヤホンをしていて気づかない人、イヤホンをしていないけど無視する人。色んな人がいた。何度もそうやって、やっとひとり、言葉を返してくれた人がいた。大丈夫?おうちは?と聞くそのひとに、家に帰りたくないことを告げると、そっか、と頷いて、知り合いがいるからとホゴシセツに連絡して、一緒に行ってくれた。道中、おれたちのことを置いて行ったことで、母さんが責められたり、罪になったりするのかな、それはいやなんだ、と言うおれに、そっか、うん、心配だね、やさしいんだね、とそのひとは返した。その言葉になんとなく返事ができなくて、ふとノアの様子をうかがうと、なんだかもう、どうでもよさそうにしていた。大変だ、とおれは思った。ノアは疲れてくると、全部どうでもよさそうにするからね。
施設につくと(そう大きくはない施設だ、白い建物に緑のツタが這っていた)、エプロンをした職員の人が出てきて、おれたちを連れてきてくれた人から事情を聴く。おれたちのほうにも質問がきた。おれは、多分もう、元には戻れないこと、たくさん歩いてすごくお腹がすいていること、とにかく弟を休ませてほしいことのみっつを伝えた。職員の人は、その場では深く聴かずに、ひとまずおれたちを中に入れてくれた。おれたちはお風呂にはいって、あったかいゴハンを食べて、ふかふかしたお布団で休むことができた。そうしておれたちふたりは、しばらく、ここで過ごすことになった。
穏やかな日々が続いていた。施設で友達もできた。こんなふうに暮らせるなら、もう元に戻れないことも、そんなに悲しいことじゃないや。そう思い始めていたころ、ノアが体調を崩した。医者に診てもらっても、原因はわからなかった。施設の人は考えて、ノアをネームメーカーのところへ連れて行った。"神様の代理人”、命そのものである名前を操るひとたち。かれらの診察によって、ノアのバースネームが、"消えかけている"のだとわかった。
ノアは言う。「なんかさぁ、今ねぇ。俺、もう全部、どうでもいいんだぁ。」おれは首を振った。そんなことないよ、と言った。ノアは、疲れてくると、全部どうでもよさそうにする。いやなことは、すぐに忘れてしまう。ネームメーカーが言うには、ノアのそのクセが、ノア自身に作用して、名前を消してしまおうとしているんだそうだ。――つまるところ、それが、素質だった。
その作用をコントロールできるようになれば、「イレーサー」としてネームメーカーの仕事ができる。貴重な人材、みたいだ。ノアは、「イレーサー」として育てるために、ミス・エヴァーのところへ連れて行かれてしまった。おれは、おれの弟を、大事な弟を連れて行かないで、と何度も叫んだ。大人たちは、そうだね、寂しいね、とおれを慰めようとした。寂しいなんてものじゃない。心臓が潰れて、からだを引き裂かれるような気持ちだ。おれは、ノアのいなくなった部屋で、一晩中泣いて過ごした。
ノアは、手のかかる弟だった。とにかく面倒くさがりで、放っておくと宿題は山になるし、着替えも途中で飽きるし、食べることより眠ることを優先するし……、両親は共働きで、疲れた母さんの代わりにおれがノアの世話をすることが多かった。そもそも、ノアは母さんの言うことも、父さんの言うことも、あんまり聞かない。母さんはときどきヒステリックになるし、父さんもよく怒鳴るからかもしれない。ノアは感情が読めないところがあって、だからおれのことも、そんなに好きだったりはしないのかな、と思っていた。(おれは手のかかるぶん情が移って、彼を大事な弟だ、と思っていたけれど。)でも、ある日、おれがテレビゲームをしていたとき、ふらっと隣にノアがやってきたことがあった。一緒にやる?と声をかけたら、首を振る。おれはちょっと残念に思った。でも、ノアはこう言ったんだ。「俺はねぇ、アンリと一緒にいたいだけぇ。」そっか、とだけ返したけれど、おれはすごく幸せな気持ちになった。だからそれからは、どんなときでも、出来るだけ、おれはノアと一緒にいることにしたんだ、……そう、したっていうのに。
翌日のことだ。おれは職員の目を盗んで施設を抜け出し、一目散にミス・エヴァーの家へ向かった。広い庭には白薔薇が咲いている、立派なお屋敷だ。大きな門がおれの前に立ち塞がっていた。おれはインターホンのボタンを押す。用件を聞かれたから、おれは言った、おれの弟をかえしてください。なんのことかわからないといった具合で、「どちら様で?」と返ってくる。おれは大きな声でもう一度言う。おれの弟を、かえして!、うーん、と悩むような声が聞こえる。「小さい子かな?事情がちょっとよくわからないなぁ。」ちくしょう!いよいよ怒りたくなって、おれはマイクに向かって思い切り叫んだ。おれの、弟を、かえせったら!
「あのねえ、きみ、どこから来たのかしらないけれど……」
「アンタじゃ話にならないよ。ミス・エヴァーを呼んで。いますぐに!」
「……、あの方に会いたがる人はたくさんいるけれど、あの方にもご自分の時間がありますからね。よほどのことじゃない限り、面会はお断りしているんですよ」
……よほどのことじゃない限り?これが「よほど」じゃないなら、なにが「よほど」だっていうんだ!おれは全然許せなかった。門を開けてくれないなら、ミス・エヴァーは子供から大事なモノを奪っておいて顔も見せないサイアクな大人だって、街中に言いふらしてやる!とおれはさけぶ。使用人か誰かわからないその相手がため息をついて、ややあってから門が開く。最初からそうしろ!、おれは走ってお屋敷のドアまで向かった。
両開きの、背の高いドアの前までつくと、誰かがでてくる。さっきの使用人らしい、枯れ木みたいに貧相な見てくれの男の隣(おれは普段、人の容姿をわるく言ったりしないけれど、この人は別だったってこと!)、水色の長いふわふわの髪に、フリルのたっぷりとしたシャツ、チョコレート色のドレススカートを着た女の人。この街に住んでる人なら、それが誰だってみんな知ってる、ミッドナイトグレイヴタウンの母なる淑女……彼女がミス・エヴァー、その人だ。
「あらまあ。こんにちは、ノアのお兄さんね?」
彼女がほほえむと、ふんわりいいにおいがした。母さんが好きだったポプリみたいなにおいだ。おれは寂しいような、悔しいような気持ちになって、歯を食いしばった。視界が滲んだ。彼女は、かがんで、おれと目線を合わせて、ほほえんだまま言う。
「ノアは、あなたのところへは戻れないの。ここで私のしもべとして過ごして、いつか、りっぱなネームメーカーにならなくちゃ。そうして大人になったら、きっとまた会える日が来るわ」
「そんなに離れたままでいたら、ノアが、おれの知らないノアになっちゃうよ!」
ぼろぼろ涙が出てくるのを、こらえるのもできない。彼女はしゃくりあげるおれを見て、すこし考えるような仕草をすると、そばにいた使用人に何かを命じた。やがて、使用人が重そうななにかを台車に乗せて、おれの前まで運んでくる。……埃っぽくて、分厚い本の山だ。ミス・エヴァーはおれの頭を撫でた。
「1年あげる。1年で、これを全部覚えることができたら、このお屋敷でノアと一緒に、あなたをネームメーカーとして育ててもいいわ」
ノアと一緒に。その言葉を聞いた瞬間、ぴたりと涙がとまった。おれは頷いた。この量の内容をまるまる全部と言われたって、できると思ったからだ。だってノアと一緒にいるためだから。じゃあまた1年後にね。とミス・エヴァーはにっこりして、お屋敷のなかへ戻っていった。
施設に帰ると、勝手に抜け出したことについてずいぶん怒られた。おれは素直にごめんなさいと謝った。悪いことだって、わかっていてしたことだからね。持ち帰った本の山についても色々聞かれたけれど、事情を話せば、職員の人も勉強を手伝うよと言ってくれた。嬉しかった。おれはもう、泣いたりしなかった。
1年後。お屋敷で行われた試験に、おれは合格した。満点以外は不合格だ。ミス・エヴァーは関心したようすで、拍手を贈ってくれた。そのうしろから、誰かがひょっこりと顔を出した、……ノアだ!久しぶりぃ、とゆるく笑うノアは、おれより背が高くなっていてびっくりした。でも変わらない、おれの知ってる、おれの弟のノアだった。見るからにはしゃいだおれをみて、ノアはおかしそうにした。アンリがいなくてさぁ、つまんなかったよぉ。
それからは勉強漬けの毎日で(元々、体質的に適正があるノアはこんなに勉強しなくてもいいんだって、いいなぁ、とおれは思ってた)、1年かけて覚えた量を今度は3日で、なんて言われたりもした。できなければお屋敷を追い出されてしまう。死に物狂いでもなんとかこなしていくおれを見て、ミス・エヴァーは驚いていた。ノアはおれの頭に手を置いて、ぽん、ぽんとした。「アンリはさぁ、やるっていったら、ホントーにやるもんねぇ。」――つまるところ、それがおれの素質だった。
おれは「ライター」として「イレーサー」のノアとペアを組むことが決まった。その名の通り、名前を”書く”役と、名前を"消す”役ってことだ。そうやってミス・エヴァーの、魔女である彼女のそばでしもべとして過ごして、魔法の気配に日々触れながら育つことで、おれたちふたりはネームメーカーとしての力を得て、その仕事を継ぐことになった。
呼び名を増やして新たな繋がりを、その逆に減らして嫌な縁を断ち切りたい、仕事用と私事用で別の顔を、はたまたまるきり違う名前に変えて新たなる人生を……。命そのものであると言ったとおり、この街において「名前」はその人のすべてを担っていると言っていい。それを操るというのだから、成程「神様の代理人」、重ねた努力のおかげで荷が重いとは思わなかったけれど、責任重大ではあるな、なんて思うわけだ。
「ノア、そろそろ起きな」
「んェ~。イマ何時ぃ?」
「お昼過ぎ。サンドイッチを買って、コーヒーを淹れたよ。一緒に食べようよ」
「いいよぉ~。タバコだけ吸わせてぇ……」
「うん、待ってるね」
仕事をひと段落させて、タブレットを閉じノアの部屋を覗くと、カーテンの隙間から差し込む白い陽の光から逃げるように、彼はベッドの中でもぞもぞと身を丸めていた。――現在。おれたちの仕事ぶりは先代のネームメーカーたちに負けず劣らずの優秀さであると評判になっているらしい。そうかな?とおれは思うけれど、ノアが評価されるのは鼻が高い。けれど、イレーサーになるような人間は当然、短命と言われている。ライターが1代つとめるあいだに、3代イレーサーが交代したこともあったそうだ。”貴重な人材”と云われる、その理由のひとつだね。ノアはどうかというと、ぐったりしていることが多くなった気がする。表には出さないけれど、おれは少しつらかった。だからなるべく、仕事の時以外にも、一緒に過ごす時間をとるようにした。……幼い時、そうするんだと決めたように。テーブルにサンドイッチを用意して、マグを選んでいる間にノアがやってくる。まだ眠そうに大きなあくびをふたつぐらいするのを見て、おれはくすりとした。
「おはよぉ、アンリぃ」
「おはよう、ノア」
神様の代理人と呼ばれていたって、おれは未だに祈る側の人間でいる。
――ねえ、どうか、おれの大事な弟を、連れて行かないでほしいよ。
リビングデッドメモリーズ! 千穂 @3ippo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。リビングデッドメモリーズ!の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます