救済の在処

清泪(せいな)

雨に紛れて

 私がその人に出逢ったのは、お腹に赤ちゃんが出来たことを喜んでくれた男が音信不通になって二週間経った、ある雨の降りしきる夜のことでした。


 閉店時間をとっくに過ぎて明かりを失った居酒屋の壁に、持たれかかる傷だらけの男性。

 視界を遮る雨粒と夜の闇にあるのに、その男性がただ酔っぱらいの喧嘩に巻き込まれただけの人物ではないとすぐに見て取れました。

 男性のことに気づいてしまった私は恐る恐る近寄ると──


「こんな雨の中、傘を差さずにいるなんて、風邪引いちまうぞ」


 と、その人は私の心配を余所に、見知らぬ私の身を案じてくれました。

 私は、この夜の雨に打たれてお腹の子ごと病んでしまおうと考えていました。


 病んで。

 お腹の子がこの世に生まれないように。

 そう願っていました。


 死を望んでいた私は、しかしながら、目の前にいる傷だらけの男性を助けなければならないと思ったのです。


「き、傷の手当てをしなければ」


「構わなくていい。何、このぐらいの傷、雨が流してくれるさ」


 男性は落ち着いた声で冷静に努めるも呼吸は荒く、見るからに強がりであることは明白でした。

 傷口は上着で隠したつもりだったのでしょうが、腹部から流れる血が雨と混じりアスファルトに滲んでいました。


「ウチ、ここから直ぐの近所なんです。とにかく応急処置をしないと」


 救わなければと意気込む私をその人は手で制止して、拒みました。


「構わなくていいと言ってるんだ。せっかくの申し出だが、君を巻き込みたくはない」


 じっと見つめてくる瞳に、懇願するような強い拒絶が映りました。

 だけど。

 だけど、その時の私は普通ではなかったので──冷静ではなかったので、その人の言うことを素直に聞く気など、一つもありませんでした。


 この人を助けることが、この身と我が子の死を望んだ愚かな私への救済なのだと、日頃拝みもしない神から得たお告げのように感じたのです。


「肩、担ぎます。歩けますか?」


 質問はしかし是非を問わぬもので、歩けよと言わんばかりに側へと近寄る私に、その人はわかったよと諦めたようにぼやきました。


─────


 医療関係の仕事に就きたくて、少し勉強していた知識が役に立つ日が来るとは。

 ただ憧れよりも軽薄な単なる興味は就職に必要な根気を上回ることなく、私は別の仕事に就いたのですけど。


「痛みますか?」


 私の部屋へと連れ込まれた男性は、大人しくカーペットの上に座りました。

 雨の汚れ、血の汚れ、そんなものは捨ててしまえば気にもとまりません。

 簡易の応急処置──止血、消毒、その際にも男性は表情を歪ませます。


 声こそ漏らしませんが、痛さを我慢してるのでしょう。

 我慢などしなくても構わないのに、私はそう思ってわかりきったことを問いました。


「大したことないさ。よくある、かすり傷さ」


 額に滲む汗が雨粒と共に顎にまで流れていきます。

 渡したタオルで顔を拭く余裕もないのに、何故強がりを言うのでしょうか?

 その男性の様が可笑しくて吹き出してしまいそうでしたが、私はぐっと我慢しました。


「可笑しいかい、男の意地ってヤツは」


「意地なんですね、やっぱり。痛いなら痛いって言えばいいのに」


「そういう君も辛さを誰にも打ち明けなかったんだろう?」


 雨の中、傘も差さず徘徊する女。

 訳ありなのは明白ですね、嫌味な返しでした。


「死ぬ気、だったんですか?」


「いや、俺は・・・・・・死ぬのは恐いと思ってる」


「私も恐いです。でも・・・・・・」


 でも、死のうとした。

 死にたかった。

 死んで終わりにしたかった。

 もう、考えるのがしんどかった。


 お腹の中の子と生きてやる!、なんてとてもじゃないが思えませんでした。

 産んだところで不幸にしかならない。

 誰かに預けたところで不幸にしかならない。


 今の私には、そうとしか思えなかった。


「・・・・・・俺は、伊達っていうんだ。刑事をやってる」


「え?」


「自己紹介もまだだったなと思ってな。名前も知らない男を連れ込むなんて、不用心だよ、君は」


「ええ。本当に──」


「だけど、助かった。俺は君に助けられた、感謝してる」


 まだ拙い応急処置をしただけなのに、大袈裟でした。

 このぐらいだったら、それこそ伊達さんが言っていたように、雨が流してしまったぐらいかもしれない。


「君は人を助けたんだ、誇りに思っていい。誰しもが出来ることじゃない」


「・・・・・・慰め、ですか?」


 誇りを抱けたからといって、今さら考え方が変わるわけじゃない。


「事実さ。捉え方は君の自由だ」


 選択肢があることは、時に残酷だと思う。

 責任の所在を押しつけられているような、救いを何処に求めるかを決めさせられてるような気分になる。


 応急処置。

 私に出来る範囲のことは終わりました。


「刑事さんなら病院じゃなく、警察署に連絡しましょうか?」


 刑事だと言うならば、この傷は何らかの事件よって負ったものでしょう。

 巻き込みたくない、という配慮から凶悪事件の可能性も考えられる。


「すまないが、その連絡はよしてくれないか?」


「・・・・・・刑事だと言うのは、嘘?」


「いや、それは本当さ。疑うなら警察手帳を見せようか?」


「なら、どうして?」


 私の問いに言葉を詰まらせる伊達さん。

 巻き込みたくない、というのも本当なのだろう。


 少しの間を置いて、伊達さんは意を決したように口を開いた。


「刑事なのは本当だ。だが、真っ当な刑事じゃないんだ」


「犯罪を犯してる?」


 私の問いに、伊達さんは痛みを堪えるように表情を歪めました。


「・・・・・・ああ」


 溜め息のように告白は呟かれ、重苦しくなる空気の中、けれど私は何処か”ワケあり”を最初から理解していました。


「押収した銃器や麻薬の横流しとかですか?」


「やけに具体的だな」


「ドラマで観ました」


「・・・・・・違うよ、そうじゃない」


 少しでも動けば痛みが走るというのに、伊達さんは首を横に振った。


 余程誤解されたくないようでした。

 でもそれは、弁明という感じではなかった。

 同一視されることを拒む感じ?


「俺は、そういうルールの外にいるヤツらが刑事という立場なのに捕まえられない事に腹が立って──」


 伊達さんはまた痛みを堪えるように表情を歪め、何かを決心するように小さく息を吸いました。


「──私刑、をしてるんだ」


 そして吐かれる、告白。


 法の手で裁けない者。

 そもそも法の手が届かない者。

 警察の手すら届かない者。

 届いても何かしらの力で逃れる者。


 その罪を咎める機会すら生まれることなく、その罪は平然とのさばっている。


 それを伊達さんは許せなかったのだと言う。

 許せないことがあったのだと言う。

 赦す理由を失うほどの喪失。


「家族を奪われた。娘も妻も、俺の半身のような存在だった」


 まだ形を成していない、半身足り得る存在を殺そうとしていた私に、その言葉は痛々しかった。


「取り戻せるなんて思っちゃいないさ。奪った原因を作ったヤツはとっくに始末した・・・・・・だけど、何も変わらなかったし──何も救われなかった」


「それでも、私刑を続けてる?」


「・・・・・・ああ、そうだ。ただ、終わりどころを見失ってるんだ。この怒りの矛先、ぽっかり空いた穴の埋め方。長く生きてるのに、ちっともわかっちゃいない」


 目に見える傷口に私の拙い応急処置はほんの少しの意味を残せたけれど、伊達さんが抱いた穴を埋める方法は私にもわかりませんでした。

 その穴に対しての応急処置なんて、世の中にしたり顔で溢れかえってはいるのだけれど、役に立ったことなんてこれまでありませんでした。


「”彼”を、殺しましたか?」


 応急処置なんて出来なくて、応急処置なんて望まれてなくて、その中で私は一つの答えを求めました。


「どうして・・・・・・そう、思ったんだ?」


「なんとなく、です。なんとなく伊達さんは彼のことを知っていて、私を待つためにあそこに立っていたんじゃないかって」


 それは推理だとか推測だなんてものではなくて、ただの願望でした。

 捨てられた私を、誰かが待ってくれていた。

 そういう事実を、私は望みました。


 伊達さんはゆっくりと息を吸い込みました。

 まるで、痛みを受け入れるように。


「半分正解で半分外れ、といったとこかな」


「”彼”、死んでるのは確か、なんですね」


「残念だが、それは確かだ・・・・・・殺された」


 私はその言葉を聞き──少しホッとしました。

 ホッとしたのです、浅ましくも。


 最愛の人が死んだと言われたのに、最愛の人に捨てられたわけではないと、そう胸を撫で下ろしたのです。


「”彼”が極道だったのは、君ももちろん知っているだろう?」


 私は問いに頷きだけで返しました。

 極道者だからいつ死んでもおかしく無いと、覚悟しておけ。

 たまに”彼”は冗談混じりにそうやって私に忠告してきました。

 お前の愛した男はいつでも居なくなるのだと、予防線を張ってくれていたのです。


「事は警察の暗部だった。それを極道者に擦り付けて処理しようと、彼を含め復数名の組員が消された。極道同士の抗争に見せかけるためにな」


「伊達さんはそれを止めようとした?」


「いや、とっくに後手だった。後始末を邪魔しにいっただけさ」


 伊達さんは傷口に一瞬視線を落とすと、自嘲するように苦笑いを浮かべました。

 

「君が彼の関係者なんだって気づいたのは、正直この部屋に来てからなんだ。写真立て、二人いい笑顔だ」


 伊達さんが指差すのは棚の上に置いた、捨てられない写真。

 捨てられない未練。

 手離したくなくて、手離されたくなくて。


─────


 出血は止まった、ただそれだけの事で伊達さんは痛みを無視するように立ち上がり、再び雨降る夜の街へと出ていこうとしていました。


「・・・・・・話は戻るんだが──君は人を助けたことを誇りに思っていい」


 偶然の出逢い。

 雨の日の、出逢い。

 ぼっかりと穴の空いた二人。


「この助けられた恩は、君の代わりに復讐を果たすことで返そう」


 その宣言は、きっと救いで。

 その宣言は、きっと別れで。

 私の代わりに成すということは、私自身は成せないということで。


 それは──


 私の望むものでは無いのだと、雨に打たれながら私は思っていました。

 気づけば夜の街を歩いていく伊達さんの姿を追いかけていました。


 私が望むのは、このぽっかりと空いた穴を埋めれるだけの、”誰か”の喪失。

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救済の在処 清泪(せいな) @seina35

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