第3話 あたし、アイドルになりたいんです

 東京の喧騒が静まる深夜、イリアは自宅のベッドで飛び起きた。窓から差し込む月明かりが、彼女の顔を柔らかく照らしている。


「決めた」


 イリアは小さく呟いた。昨日の出来事が、彼女の心に大きな変化をもたらしていた。


 *


 翌朝、イリアは早々に広告代理店クリエイティブ・ビジョンに向かった。オフィスに入るなり、彼女は上司の村上遙のデスクへ足を向ける。


「村上さん、お話があります」


 イリアの声に、村上は顔を上げた。


「どうしたの、イリア? 珍しく真剣な顔ね」


「はい。実は……退職したいんです」


 イリアの言葉に、村上の目が丸くなる。


「え? どうして急に?」


「あたし、アイドルになりたいんです」


 イリアは決意を込めて言い切った。しかし、その瞬間、頭に鈍い痛みが走る。


(おかしい……退職の手続きってどうするんだっけ?)


 イリアは突如として、退職に関する記憶があいまいになっていることに気づいた。しかし、それ以上考える間もなく、村上の声が響く。


「アイドル? イリア、君にそんな夢があったなんて知らなかったわ」


「あたしも……最近気づいたんです」


 イリアは言葉を選びながら答えた。確かに、この決意は突然のものだった。しかし、彼女はそれ以上に強い衝動を感じていた。


 *


 退職の手続きを終えたイリアが自宅に戻ると、玄関先で見知らぬ男性が待っていた。


「綾瀬イリアさんですね。お待ちしていました」


 スーツ姿の男性が、深々と頭を下げる。


「あの、どちらさま……?」


「申し訳ありません。私は佐々木ささきと申します。ネオジェン株式会社の者です」


 イリアは困惑の表情を浮かべる。ネオジェン株式会社? 聞いたことのない会社名だった。


「実は、あなたに謝罪しなければならないことがあって……」


 佐々木の言葉に、イリアの困惑は深まる。


「謝罪? あたしに? どういうことですか?」


「それは……」


 佐々木は言葉を濁した。イリアは何か重要なことを聞き逃しているような、奇妙な感覚に襲われる。しかし、その違和感は瞬く間に霧散してしまった。


 *


 数日後、イリアはスターライト・プロダクションのオーディション会場に立っていた。緊張した面持ちの参加者たちの中で、彼女だけが不思議な冷静さを保っている。


「次、綾瀬イリアさん」


 呼ばれて部屋に入ると、審査員たちの鋭い視線が彼女に注がれた。


「では、歌ってください」


 イリアは深呼吸をし、歌い始めた。その瞬間、会場の空気が一変する。


 透き通るような歌声が室内に響き渡る。イリア自身、自分がこれほどの歌唱力を持っていたことに驚いていた。歌い終わると、審査員たちは驚嘆の表情を浮かべていた。


「素晴らしい! こんな逸材がいたなんて」

「表現力も抜群です。是非うちのグループに……」


 審査員たちの興奮した声が飛び交う。イリアは呆然としながらも、なぜか自分の中に湧き上がる喜びを感じていた。


 *


 夜、合格の通知を受け取ったイリアは、興奮冷めやらぬまま自宅に戻った。しかし、ベッドに横たわっても、一向に眠気が訪れない。


(興奮しすぎかな?)


 イリアは天井を見つめながら、今日一日の出来事を反芻する。退職、謎の男性の訪問、そして予想外の才能の開花。全てが不思議なほどスムーズに進んでいた。


「これが本当のあたしなのかしら……」


 呟きながら、イリアは再び違和感を覚える。しかし、その思考はすぐに押し流され、デビューへの期待で胸が高鳴る。


 夜が更けていく。東京の街は眠りにつくが、イリアの目は冴えたままだった。彼女の新しい人生は、まだ見ぬ驚きに満ちていた。

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