第11話 祈りの朝
『さあ、夜明けを歌おう。我らの新たなる朝に、女神の祝福があらんことを』
最後のフレーズが淡い光の中にほどけていく。無我夢中で歌い続けていたルーナは、いつの間にか背後で朝陽が昇り始めていることに気がついた。
日光を浴びる背中の熱さも、いつもより魔力を消耗した心臓の苦しさも、今はまったく気にならない。ルーナは肩で息をしながら、目の前で微笑んでいる母の姿を凝視していた。
「……母、さま」
呼吸を整えながら、懐かしい笑顔に向かって呼びかける。自分が噴水の縁に立っていることを忘れ、無意識に足を踏み出したルーナは足場を失って前につんのめった。そこへすかさず駆け寄ってきたレムールが空いた右腕で受け止める。
ありがとうと礼を言いかけたルーナに、騎士は無言でかぶりを振った。そして、切なげな眼差しで王妃のほうを見やる。
アウローラの姿は、光に透けて消え始めていた。
「母様!」
ルーナは弾かれたように身体を起こし、ドレスの裾を踏んづけそうになりながら母のもとへと駆け寄った。にっこりと破顔して大きく腕を広げるアウローラへと近づくほど、心は〝ただの幼いルーナ〟に戻っていく。
あの温かな腕に抱擁されるのが好きだった。哀しいことや辛いことがあったとき、めいっぱい褒めてほしいとき、何度も抱きしめてくれた母の腕。
しかし、触れることは叶わなかった。ルーナが伸ばした手は空気を掻いただけで、指の隙間を光の粒がすり抜ける。
朝陽に、風に、アウローラの魂が攫われていく。顔の輪郭が崩れていく間際、慈愛の笑みをたたえた唇がわずかに動いた。
『――幸せになって、ルーナ』
八年ぶりに聞く母の声。幻聴だったのかもしれない。だが、確かに彼女はそう告げた。
母様、とルーナがもう一度呼んだときには、もう何も残されていなかった。陽射しのぬくもりだけが、まるで母がそこにいた名残のようにルーナを包む。
両の目から涙が零れ、堪えきれずに漏れた
深い青から透きとおるオレンジ色へと移ろいゆく空には、糸のように細く白い月が浮かんでいた。
*
アウローラが消えた後、引き寄せられて集まった子どもたちは皆、魔法が解けたように目を覚ました。なぜ自分たちが住宅街の片隅で眠っていたのか、誰も経緯は覚えていない。
ルーナは子どもたちに「もう〝幽鬼〟は現れないから安心して」とだけ言い残し、レムールに抱えられて住宅街を離れた。彼らの親や警吏が駆けつけ、必死に探している声と足音が聞こえてきたからだ。
レムールは屋根の上を飛ぶように駆け抜けていく。冷たさの和らいだ風が頬を撫でて気持ちがいい。
道中、明るくなった高級住宅街を見下ろしたルーナたちは、とある異変に気がついた。噴水広場から離れた場所のあちこちに、
「王妃殿下の〝呪い〟は、その気になれば容易く帝都を滅ぼせたでしょう」
人形たちの凄惨な最期を横目に見て、レムールが言う。
「……私のせいね」
ルーナは朝陽に目を細めながら、ぽつりとつぶやいた。
「〝祈りの力〟が弱くなったせいで、この世に〝呪い〟が放たれてしまった。私には〈灰色の嵐〉に対抗する力があったのに、役目を果たせなかった……」
「それは違います、姫様」
石造りの平らな屋上にひらりと降り立ち、レムールは足を止めた。
「あなたの責任ではありません。むしろ、そんなものを姫様に背負わせた我々こそ罪深い。亡者が生者に救いを乞うなど、あってはならないことです」
「でも……」
「俺は、あなたにそんな悲しい顔をさせるくらいなら、死んだままでよかった」
騎士は感情を飲み込むような声音で言い、目を瞠った主人を優しく見つめる。ルーナは少し間を置いて「はぁ」とため息をつき、身じろぎしてレムールの腕から降りた。背を向けて一歩、二歩と進み、困惑している男のほうをくるりと振り向く。
「相変わらず嘘が下手ね。レムール」
「えっ?」
「私と離れたくないって目をしてる。昔っからそう」
呆れ混じりの微笑を浮かべたルーナに、レムールは意表を突かれた様子で瞬きする。
「あなたはいつだって私のわがままを聞いてくれた。でも、あなた自身の望みは一度も聞いたことがない。本当はそれがずっと心残りだった」
ルーナはレムールに歩み寄り、背伸びをして彼の頬にそっと触れた。血の気が薄く、かさついた肌。だが確かに命のぬくもりがある。もう二度と感じることはできないと思っていた温度だ。
「私に伝えたいことがあるから、ここまで来てくれたのでしょう?」
そう問えば、今度はレムールが目を見開いた。金の瞳がわずかに揺れる。
束ねた黒髪が春風になびく。しばしの沈黙の後、頬を撫でるルーナの指先を温かな雫が伝い落ちた。
「姫様、……俺は……」
「うん」
「あなたに、会いたかった。俺がどんな醜い姿になっても……あなたの傍にいたかった。俺だけは死んでも姫様の騎士であり続けたい。姫様の隣を、他の生者などに奪われたくはないのです」
レムールの大きな手が、すがるようにルーナの両肩を抱いた。広い背中を丸めて項垂れ、溜め込んできた積年の想いを苦しそうに吐き出す。ルーナは目の前にある頭を抱きしめ、小さな子どもを慰めるように撫でた。
「姫様だけが、本当の俺を受け入れてくれた。それにどれほど救われてきたか。あなたに報いるためなら……あなたの幸福のためなら、俺は……」
レムールは言葉に詰まって涙を流す。ルーナは「うん」と小さくうなずいて続きを待った。
「……申し訳、ございません。姫様のためと言いながら、俺は結局、あなたの幸福を独占したいだけなのです……」
魂を削るような告白だった。手も声も震えている。
己の内側で吹き荒ぶ、欲求という嵐を前にして立ちすくんでいた彼に、ルーナは一歩を踏み込ませた。自ずと認めて告げるのは、きっと痛みをともなうだろう。分かっていたが、ルーナはレムールに本心を言わせたかった。
「やっと聞けた。あなたのわがまま」
声を殺して泣きじゃくるレムールに顔を上げさせ、視線の高さを合わせる。濡れた金の瞳が朝陽のきらめきを映していて、ただただ綺麗だとルーナは思う。
「レムール。王女でも何でもない、いつまで生きられるかも分からない、ただのルーナの騎士でいてくれる?」
そう言って笑いかければ、レムールはまぶしそうに瞬きをし、口角を緩めてうなずいた。少し恥ずかしそうに涙を拭った彼と、改めて向かい合う。
レムールは心を決めたように唇を引き結び、鞘から剣を引き抜くと、ルーナの前に右ひざをついて捧げ持った。
そして、告げる。
「――我が名はレムール・ハヴィウス。騎士としてあなたの剣となり、盾となり、二度目の命に代えてもお護りすると誓います」
ルーナは、差し出された大剣にすっと指先を滑らせてから受け取った。重たい剣の柄を両手で持ち、刃の平らな部分を軽くレムールの肩に乗せる。
テュフォン王国において、国王が騎士の資格を与える際に行う通過儀礼だ。女神フラーマの紋章石を施した剣は、本来こうして王から騎士へと授与される。
「聞き届けました、レムール。忠義の騎士たるあなたに、女神フラーマの――」
決まった口上を述べようとして、ルーナは言い淀んだ。
ここには自分たちしかいない。儀式に立ち会う証人はなく、遠くの太陽と消えかけの月が静かに見守っている。
今この瞬間に、何人たりとも介入させたくはなかった。たとえ神であってもだ。二人の誓いは二人だけのものにしておきたい。
(私の願いは、彼よりずっとわがままだ)
自嘲を微笑みの下に隠し、ルーナは言葉を続けた。
「……あなたに、私は祈りを捧げ続けます」
ハッとしてレムールが見上げてくる。驚きの表情はすぐに柔らかくほころんだ。
世界に朝の光が満ちる。冬の終わりを
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