第10話 幽霊姫の鎮魂歌
レムールの俊足は風のように夜の帝都を駆け抜ける。闇に溶け込む黒の鎧のおかげで、途中何度か鉢合わせそうになった
あっという間に貧民街の入口近くまで辿り着き、周囲にひとけがないことを確認してから、ルーナとセウェルは地面に下ろされた。しっかりレムールに掴まっていたルーナはまだ平気だが、ひたすら揺さぶられ続けていたセウェルは青白い顔でぐったりとしている。
「セウェルさん」
ルーナは帽子を被り直し、座り込んでいる少年に歩み寄った。
「巻き込んでしまってごめんなさい。でも、あなたはしばらく住宅街に近づかないほうがいいわ。朝になれば妹さんは解放されるから、もう少しだけ待っていてちょうだい」
「……なんだよ、やっぱりあんたのせいなのか」
忌々しそうな目でセウェルが見上げてくる。不遜な態度を咎めるようにレムールが睨みをきかせて詰め寄ろうとしたが、ルーナをそれを阻止して少年を見つめ返した。
「そうね。幽鬼の所業を止めるにはこうするしかなかったから」
今夜の幽鬼が力を増したのは、ルーナが歌わなかったせいだ。
これまでずっと、ルーナはテュフォン王国の亡き人々の魂を鎮めるために、
それでも、ルーナが歌うことで、ある程度は〝呪い〟を抑えられていたのだろう。それゆえに今、祈りの歌による枷を失った幽鬼はここぞとばかりに力を振るっている。
こうなることを予想しながら、ルーナは歌わずに幽鬼をおびき出すことを選んだ。その選択によって誰かが害を被ることも理解していた。
「でも、攫われた子どもたちは全員無事に帰すと約束するわ。だから妹さんが帰ってくるまで、あなたも無茶はしないで」
真摯な眼差しと言葉でそう告げられ、セウェルはぎゅっと眉根を寄せた複雑そうな表情で黙り込んだ。文句は山ほどあるだろうが、詳しく説明している余裕はない。
ややあって、巻き毛の少年は溜息をつきながら口を開く。
「化け物同士、せいぜいやり合えばいいさ。けど、妹に怪我でもさせたら絶対に許さないから」
「貴様……よくもそんな口をきけるな」
「こら、レムール。……信じろとは言わないけれど、約束は必ず果たすわ。もう二度と、あなたにも妹さんにも、こんな怖い思いはさせないから」
セウェルは一瞬だけ目を見開き、すぐに下を向いてしまった。もう噛みついてくる気力はなさそうだ。ルーナはレムールに視線で促し、少年に背を向けてその場を立ち去ろうとした。
「なぁ、あんたさ」
後ろから声が投げかけられる。二人は無言で足を止めた。
「あの幽鬼のこと、〝母様〟って呼んでたよな」
ルーナは答えなかった。その沈黙を是と捉えたのか、セウェルはどこか納得したような声音で続ける。
「あんたって、本当に〈幽霊姫〉だったんだ」
その一言に嫌悪や蔑みの感情は含まれていなかった。やっと諦めがついたとでも言いたげな、少しホッとした響きをしている。
ルーナは彼のほうをわずかに振り向き、帽子を取って微笑んでみせた。
「ええ、そうよ」
短い返事を残して、ルーナは歩き出す。今後、彼に会うことはないだろうという確かな予感だけが、貧民街の静寂に漂っていた。
*
果てしない闇の色をしていた夜空は、小さな星々と細く頼りない月を残して、深い群青色へと変わりつつある。早春の帝都を撫でていくような風は微かな草木と土の匂いをはらみ、石畳を
休まず巡視を続ける人形たちの気配を遠くに感じながら、レムールは三階建てのレンガ屋敷の屋根から近くの噴水広場を見下ろしていた。幽鬼の被害を恐れて引っ越したのか、この屋敷に人はいないようだ。
幽鬼アウローラは、怒りが鎮まったのか大人しくヴァイオリンを弾いている。レムールにその音色は聞こえないが、子どもたちは相変わらず虚ろな目をしてその演奏に聞き入っていた。彼らが自分の子どもではないと分かっても大切に扱うところが彼女らしい。
(王妃殿下は、とても寛大でお優しい方だった)
今でもはっきりと思い出せる。勇敢な国王ディルクルムと並び立つ誇り高き姿、舞台の上で楽器を奏でるしなやかな仕草。そして、家族とともにいるときの幸せそうな笑顔。民に慕われ、王の寵愛と敬愛を受ける美しき王妃。
そんな彼女の幸福を、帝国は無情に踏みにじった。大罪人のように捕らえて連れ去り、見せしめとして首を落とした。
敵地で一人死んでいったアウローラは、いったいどれほど孤独だったか。その無念を思うほど、帝国への憎悪がレムールの中で業火となり燃え上がる。
(あなたの憤怒も憎悪も、
レムールは剣の柄を握りしめ、深呼吸をしながら目を閉じた。
(それでも
意を決し、黒き騎士は音もなく屋根から飛び降りる。本来、隠密行動には不向きな装いだが、〝呪い〟から生じた魔力で編まれているこの鎧は質量を感じさせない。もはやレムールにとっては身体の一部だ。
演奏に集中していたらしいアウローラは、レムールが子どもたちのすぐ近くに来るまで気がつかなかった。レムールは隙を突いて五人の子どもを一気に抱え上げ、一足で大きく後方に飛び退く。
楽器を下ろした幽鬼はぶるぶると肩を震わせ、斬られた首の上に火の渦を作り出した。しかし、レムールが子どもたちを抱えていると分かるのか、すぐには攻撃してこない。
(姫様が予想したとおりか。王妃殿下は絶対に子どもを傷つけない)
たとえ、憎き帝国の人間だとしても。
もう三十年近くも昔、テュフォン王国の
レムールは子どもたちを丈夫な建物の陰に避難させ、また広場に戻った。そこへすぐさま火の塊が飛んできたがマントで防ぎ、押し切られる前に受け流す。軌道をずらされた炎が石畳を黒く焦がした。
立ち止まらずにレムールは広場を駆け、アウローラの意識を
縦横無尽に動き回るレムールの早業に、アウローラは戸惑っている様子だった。常に子どもが近くにいる状態では攻撃する隙がないのだ。彼女の善意につけ込んでいるようで心苦しいが、ルーナの狙いどおりに事を運ぶにはこうするしかない。
レムールは広場の外と三往復し、最後に残った三人の子どもを拾い上げて両腕に抱えてその場を離れた。これでやっと全員かと安堵し、ふとアウローラのほうを振り向いたとき、思いがけない光景を目にした。
まだ子どもが一人、それもアウローラの後ろに隠れている。亜麻色の巻き毛にそばかす顔の、襤褸切れじみた服を着ている痩せた少女だ。
(あれはもしや……セウェルとかいう輩の妹か)
よりにもよって回収しづらい場所にいる。アウローラはその子だけでも守ろうと庇っているのか、自分のほうに引き寄せて敵を威嚇していた。
(仕方あるまい)
レムールは抱えていた三人を、退避させた子どもたちの近くに下ろしてから引き返した。敵が一人になったと分かれば、幽鬼は容赦なく攻撃を仕掛けてくるだろう。
(子どもの避難が最優先、と姫様に命じられたからな。それに……)
レムールは鞘から大剣をすらりと抜いて前方に構え、アウローラと対峙した。途端に襲い来る、熱気だけで肌を焼くような炎。その光に呼応するかのごとく、レムールの剣に埋め込まれたフラーマの紋章石が赤く輝いた。
――すべてを焼き尽くす女神の
フラーマ教の経典に記された、〈厄災〉の項の一文である。レムールだけでなく王妃アウローラも、女神の怒りを代弁する〝呪いの器〟となったのだ。敬虔な女神の信徒だった彼女だからこそ、これほど強い力を得たのかもしれない。
「――はぁっ!」
アウローラが放った炎をレムールの剣が切り裂いた。かつての鋭さを失った諸刃もまた、煉獄よりもたらされた火炎を纏っている。同じ〝呪い〟の魔力を感じ取ったのか、幽鬼が動揺したように一歩後退った。
二発目、三発目と続けざまに降りかかる炎にも、レムールは
八年前の、あの日。帝国軍の放った火に生きたまま焼かれた者たちのことを思う。その魂に刻まれた苦痛の記憶は、今なおレムールの中に息づいている。
『ああ、憎い』
剣を振るうたび、頭の中で無数の声が折り重なっていく。
『憎い。憎い。奴らが憎い。すべて燃やし尽くさねば気が済まない』
レムールの口を借りて
『燃やせ、燃やせ、燃やせ、燃やせ!』
この
自分から、大切な人から、幸福を奪い去った者たちを。
何もかも失った我らは、もう後戻りなどできないのだから。
「――それでも、俺は!」
炎を叩き斬り、大きく一歩を踏み出して、はっきりとレムールは告げた。腹の底から声を張り上げ、噛みしめるように口を動かす。自分の意思を、自分の声で伝えるために。
「俺は、姫様のためだけに
切なる願いだ。しかし、復讐という人々の悲願を背負って蘇った自分が、こんなことを想っていいはずがない。それは痛いほど理解している。
「俺も帝国が憎い。どれほど燃やしても、何人斬り捨てても、きっとこの無念が晴れることはない。だが――愛する者の祈りに応えずして、何が騎士か!」
突然、剣の放つ熱が強さを増す。燃え上がったのではない。その炎は赤々とした色から、静かに輝く青色へと姿を変えていた。
まばゆい
「俺は
金の目を見開き、咆哮し、幽鬼アウローラのもとへ猛然と駆ける。そして彼女もまた、何発目か分からない炎の塊を生み出し、立ち向かってくるレムールに放った。これまでで最も高い威力を誇るだろうそれを、レムールの青き剣はものともせずに斬り払う。
「王妃殿下、ご覚悟!」
ためらいはなかった。どうか迷わないでほしいと、ルーナが請うたからだ。
彼女はただ、王妃の苦しみを長引かせたくなかったのだろう。だがレムールの意思は少し違う。
ルーナに悲壮な決意をさせた王妃のことが許せない。一人だけ生き残ったことを罪と思い、命を削って贖罪に尽くしてきた少女に、なぜまた負い目を感じさせるような真似をするのか。
(姫様の祈りを
それは自分とて同じだ。レムールたちは静かに眠り続けるべきだった。ルーナを悲しませるくらいなら蘇ってはいけなかった。
この剣は、レムール自身への怒りでもある。
青き炎がアウローラの胸を貫く。王妃に二度目の死を与えるために。
幽鬼の動きは止まった。噴水広場に静寂が訪れ、流れ落ちる水音だけが響く。
レムールはゆっくりと剣を引き抜き、血の一滴も流さない亡霊の身体に空いた穴を見やってから、傍に佇んでいた巻き毛の娘を腕に抱き上げた。未だにぼんやりとしているが、怪我はしていないようだ。
「――ごめんなさい、レムール。あなたに辛い役目を負わせてしまった」
涼やかだが沈痛な声。レムールが顔を上げると、茫然と立ち尽くしているアウローラの背後で、噴水の縁に立つ白いドレス姿の少女が目に入る。
〈歌うたいの幽霊姫〉がそこにいた。劇場という鳥籠の中で一人歌い続けてきた少女は、広い空の下に解き放たれ、ありのまま美しい灰色の髪と瞳をさらけ出している。
少女は凛と背筋を伸ばし、力強い眼差しで変わり果てた母親を見つめた。その視線を感じてか、戦意を失ったアウローラがぎこちない動きで後ろを振り向く。
「……母様」
ルーナは哀しげに微笑んでいた。届かないとしても、そう呼ばずにはいられないのだろう。
「私、母様のヴァイオリンと一緒に歌いたいな」
ルーナの瞳に薄らと涙が浮かぶ。それを堪えるように瞼を閉じて、すうっと息を吸い込んだ。
次の瞬間、旋律が風となって吹き抜けた。
早春の冴えた夜気に暖かな光が射し込む。炎の激しさを和らげ、凍てつく暗闇を溶かしていく。
紡がれるは祈りの言葉。奏でられるは浄化の調べ。
(これは……〈夜明けの歌〉か)
ルーナが幼い頃から親しんできた曲の一つだ。女神フラーマがもたらした聖なる炎をたずさえ、恐ろしい夜を乗り越えた者たちの
すると、そのとき。
アウローラがゆっくりと腕を上げ、左手のヴァイオリンを肩に構えた。右手に持ち替えた弓をそっと弦の上に乗せ、迷いのない運びで滑らせる。
何の合図も、計り合う間すらもなかった。ルーナの声とヴァイオリンの音色はぶつかることなく、最初から一本の旋律であったかのように交わり、溶け込み、淀みのない流れを作り出す。
心地よい春風だ。永遠に思えた夜も、ひたすらに耐え忍んだ淘汰の冬も、彼女たちの音楽がさらっていく。
ルーナは笑っていた。軋んで痛み続けているだろう心臓の前でぎゅっと両指を組み、顔には欠片ほどの苦しみも表に出さず、万感の歓びを込めて歌っている。
(ああ、姫様……)
幼い頃の、ただ無邪気に歌っていた彼女とは違う。だが、穢れや濁りを飲まされ、悪意に踏みつけられてなお、けっして失われぬ純粋がある。
胸の奥から湧き上がる熱い情動をレムールはぐっと押し留め、剣を腰の鞘に納めた。八年の時を経て再現された母娘の演奏風景を、少し離れて見つめる。
一瞬、東から射した光に目が眩んだ。
帝都に朝が訪れたのだ。そう気づいて瞼を開いたレムールは、そのまま大きく瞠目した。
未だ儚い朝陽に照らされながら、アウローラが穏やかな笑みを浮かべてヴァイオリンを奏でている。温かみのある赤毛の髪をきっちりと結い上げ、青いビロードのドレスに身を包んだその出で立ちも。利発さと愛らしさをあわせ持つ面差しも。
八年前と変わらぬ〝王妃アウローラ〟の姿がそこにあった。
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