第6話 魔導機構の心臓
――歌が、聞こえる。
それは風であり、光だった。どれほど掴もうとしても、指の隙間をすり抜けてゆく温かなもの。触れられないと分かっていても、レムールはどうしようもなく求め続けていた。
(ああ……懐かしい)
知っている。これは〈癒しの歌〉だ。かつて、少女が騎士のために歌ってくれた。
その旋律は
手を伸ばす。もう二度と見えない、届くことはないと思っていた光に、やはり諦め悪く
触れたい。届きたい。離れたくない。
(あなたという光さえあれば、俺は……)
そう思った直後、伸ばした右手が何かにそっと包み込まれた。柔らかくて、仄かに温かい。それが人間の体温であるとレムールは気づく。どことなく覚えのある感触だった。
――レムール。
呼び声がした。歌ではなく、記憶にあるより少し大人びている、それでいて変わらず透きとおった声。
「レムール……」
すぐ傍で己の名を呼んでいる。紡がれる音が、汚泥の闇に溶けていた男の意識を引き揚げ、人としての輪郭を思い出させてくれる。
重い瞼を持ち上げると、眼前に月のごとき双眸があった。青白い肌に、血の気の薄い唇。まばらに切りそろえられた灰色の髪。いたずらにつつけば壊れてしまうガラス細工のような風貌だが、レムールを見つめる瞳には確かな生命力を宿していた。
「レムール。私がわかる?」
少女は問いかけながら、籠手のない男の右手を握る。触れ合った素肌の間に生まれる微かな熱を感じて、レムールは夢から現実へと引き戻された。
レムールの身体は、
隣に座っている白いドレスの少女を、男は改めてまじまじと見る。
「……姫、さま……」
「まだ、その呼び方をするのね」
少女――ルーナ・ノワ・テュフォーネは、眉尻を下げて微笑み、呆れ混じりに言った。レムールの手を藁のベッドにゆっくりと下ろし、また静かに問うてくる。
「昨日の夜、何があったか覚えてるかしら」
「昨日……?」
「あなたがいきなり劇場に現れて、
ルーナは淡々と語りながら、傍に置いていた桶の中で水にひたした布をしぼって畳み、レムールの額を優しく拭った。自分の全身が汗まみれになっていることに気づき、思わず身じろぎする。
「姫様、お手を汚してしまいますから」
「そんなこと気にしないで。あなた、ここに着いた途端に倒れて、鎧も消えてしまって……それからずっとうなされていたわ。悪い夢でも見ていたのね」
まるで幼子をなぐさめるような手つきと声色だった。しっとりとした布の冷たさが頬を撫で、首筋を辿り、留め具のないシャツの緩んだ襟ぐりから鎖骨へと降りていく。ルーナの手は胸の上で止まった。
「……鼓動がとても弱いから、このまま目を覚まさないかもしれないって、心配だった」
細く息を吐いて、たどたどしい口調でつぶやく。伏せた灰色の睫毛の下で微かに涙が光った。ルーナが目元を隠すように拭ったとき、その手のひらを縦一筋に通る赤い傷跡が見えて、レムールは思わず上体を起こた。全身に纏わりつく痛みと怠さを振り払い、八年ぶりの再会を果たした少女へと向き直る。
ルーナは少し驚いた顔をして、「まだ無理に動かないほうがいいわ」と背中を支えようとした。それを阻むようにレムールは少女の手を受け止め、深く頭を垂れる。
「姫様……申し訳ございません。俺は、あなたを……」
昨夜の記憶が急速によみがえってきて、レムールの心を強く苛んだ。己の愚かな行いが仔細に思い出されるほど、呼吸が詰まり、どっと嫌な汗が噴き出してくる。
(俺の剣で、姫様を傷つけてしまった)
舞台の床に滴った血の色。ルーナは暴走するレムールを必死に止めようとしていた。それでも歯止めが利かず、その手に怪我を負わせ、あまつさえ危険に晒した。
するとルーナは小さくかぶりを振って、「大丈夫、ほら」と開いた手のひらをレムールに見せた。跡は残っているが出血はなく、傷自体は綺麗にふさがっている。かさぶたができている様子もない。
「傷は浅かったから、もう治りかけよ。明日にはすっかり消えていると思う。あなたが気に病む必要はないわ」
そう言いながら、彼女の表情にはなぜか自嘲が滲んでいた。
(たとえ本当に軽傷だったとしても、剣で切った怪我がたった一晩でここまで治癒するだろうか?)
ルーナの歌声――いや、〝祈り〟を込めた歌には、怪我の痛みや病の苦しみを和らげる力がある。だが、傷自体を治癒したり、病を治すほどの効能があったわけではなかった。
今いる場所は彼女の住処のようだが、ボロボロのバラックらしき狭い部屋に、藁のベッドと丸テーブル、汲み置きの水樽を置いただけの質素な家だ。薬や清潔な包帯といった道具があるようには見えない。自力で治療するのも難しいだろう。
そのとき、レムールは劇場でルーナに告げられた言葉を思い出した。
『私は王族どころか、普通の人間ですらなくなったの』
ハッとして目を瞠り、うつむくルーナを凝視する。正体の分からない嫌な予感と、明確な違和感がレムールの胸をざわつかせた。
「……姫様。いったい、あなたに何があったのですか」
沈黙に耐えきれずレムールは問うた。疑念を口にした途端、己の内側にどろどろとしたどす黒い感情が押し寄せてくる。ざわめきが徐々に大きくなり頭の芯をぐらつかせる。
「八年前、あなたは俺の目の前で帝国兵に連れ去られた。あの後、奴らに何をされたのですか!」
我知らず声を荒げ、両手でルーナの肩を掴んでいた。振り乱した長い黒髪が視界で揺れる。しかしルーナはうなだれたまま、唇を引き結んで押し黙った。答えのないことが何よりの答えだった。
「姫様……!」
レムールは腹の底から湧き上がる激情に任せ、ぐっと身を乗り出す。かつての自分なら、護衛以外で自ら彼女に触れることなど絶対にしなかった。
そこまでしてやっと、ルーナの目がこちらを見る。レムールは思わず息を飲んだ。あんなにも輝いていた月の瞳が、今は深く暗い哀しみと絶望の色に染まっている。
紫がかって震えるルーナの唇が、短く息を吸い、小さく動いた。
「……テュフォン王国の王女は、死んだわ」
「え……?」
「ここにいるのは抜け殻よ。ただの人形みたいなもの。あなたが騎士として護ろうとした姫は、もういないの」
何を、言っているのか。レムールには一つも理解できなかった。
雨の音だけがしめやかに、ランプの灯りすらない薄闇の部屋を包む。彼方で雷鳴が低く
ルーナはドレスの胸元にある小さな前ボタンを外し始めた。陶器のようになめらかな素肌が露わになっていく。細い鎖骨、痩せて浮いた
繊細な白いレース地を取り払われた少女の上半身。その中心にレムールの視線は固定された。彼女の肩を掴んでいた手が宙に浮き、行き場を失う。
肉づきの薄い少女の身体に不釣り合いなものが、二つのなだらかな膨らみの間に鎮座している。おそらくは金属でできた――肋骨の隆起に沿って埋め込まれている、小さな蓋か扉のような四角い何か。
ルーナは無言のまま、その金属板に指をかける。板が外れ、その中身が見えた。
信じがたいものを目にして、レムールはただ絶句する。帝国兵たちに頭を強く殴られたとき以上の衝撃が彼を襲う。
少女の胸の内側もまた、ほとんどが無機質な鋼色だった。本来もっと生々しい色をしているはずの肉と臓器と骨が、冷たく乾いた物質と化している。ぽかりと空いた穴の中にあるのは、くるくると回る大小さまざまな歯車と、それらを繋ぐ部品の数々。複雑に噛み合って駆動する
――
なぜ、そんなものが彼女の身体にあるのか。
「……八年前の、あの日」
しばしの間を置いて、ルーナが口を開く。
「森であなたと引き離され、私はいつの間にか帝国の軍部研究所に連行されていた。〝古代魔法〟発祥の地であるテュフォン王国――その王族の末裔である私を、
感情のうかがえない声と口調で少女は語る。レムールは凍りついたように動けなかった。
古代魔法に用いられていた自然の魔力結晶は、長年の採掘により数を減らしてしまったが、今は人工的に小粒の結晶を精製する技術が確立し、ほぼ無尽蔵に
だが、
「そ、んな……」
レムールは己の髪を搔き上げ、呻くように声を漏らした。思考は千々に乱れ、何と彼女に言えばいいのか分からない。
(人体実験? 奴らは、姫様の身体を切り開いて、こんなものを?)
愕然として、息ができなかった。想像することすら恐ろしい、外道の所業。これが同じ人間のすることなのか。
「でも、私はこの心臓に上手く適合できなかった。移植された後、仮死状態に陥ったみたいで……気づいたときには国はずれの森に捨てられていたわ。この印をつけられてね」
そう言って、ルーナは真っ白な背中をレムールに向ける。右半身のゆるやかにくびれた腰骨の上あたりに、引き攣れた薄い赤色の印が刻まれていた。やや歪な円を鳥の
正面に向き直ったルーナは、慣れた仕草で金属板を胸に取り付ける。絡繰が収められたそこを撫で、生気のない笑みを浮かべた。
「私、悪運が強かったの。なんとか貧民街に辿り着いて、劇場に拾われて……それからずっと歌手として働きながら、この心臓とだましだまし付き合ってきた。……けど、それももうすぐ限界」
目を見開いたまま微動だにしないレムールから、ルーナは視線を逸らした。陰りを帯びた月の瞳が瞼の下に隠れる。
「魔力結晶の寿命が近づいていると、お医者様に言われたわ。もってあと半年程度だって。魔力を使い切って心臓が止まったら、そこでおしまい」
澄んだ声で少女は残酷な真実を告げる。その言葉に死の恐怖や、己の人生を破壊した者たちへの怒りはなく、八年という歳月で降り積もった諦念だけがあった。
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