第5話 逃亡者
青黒く、すべてを
騎士たちの後方に迫る
「ねぇ、レムール。どこまで行くの?」
腕の中から弱々しい声が聞こえた。呼ばれた騎士は、馬の腹を蹴りながら答える。
「ルーナ姫様。もう少しの辛抱です。森を抜けて北のヴェド渓谷に入れば、地の利がない者たちは追ってこられません。あそこはとても複雑な地形ですから」
「……みんなも、そこに逃げたのかな」
ぼそりとつぶやかれたルーナの言葉に、レムールはどう返答すべきか一瞬迷い、「……そうですね」と努めて穏やかな声を出す。
ルーナのぱっちりとした灰色の瞳が騎士を見上げた。
「お父さまとお母さまも?」
「ええ、きっと」
今はそう答えるしかない。レムール自身そうであればどんなにいいかと思っている。だからこそ、十歳の誕生日を迎えたばかりの姫君が抱く
レムールは自身の目で、王城の見張り台から燃え盛る都の姿を見た。
瞬く間の出来事だった。今でもまだ、悪い夢を見ていたような心地でいる。
まず城下の町々が、火炎放射器を抱えた
駆けつけた王国兵は、王都の人口の倍に匹敵する数の人形兵に圧倒され、そのほとんどが抵抗も虚しく魔導弾の銃で蜂の巣にされたという。
人形たちが蹂躙した町を、我が物顔で踏み荒らしながら現れたのは、重武装の騎兵と歩兵だった。敵の本軍は人形たちに護られながら悠々と進み、王城の門へと迫る。
兵たちが掲げた軍旗には、三つの頭を持つ大蛇が描かれていた。テュフォンを囲む森林地帯よりさらに西側にある大国、ラウスペル帝国の紋章である。
伝令兵からその報せを受け、軍議の間は騒然となった。
「なぜ帝国が突然攻め入ってくるのだ!」
「テュフォンはラウスペルと国交をもったことすらないというのに。敵対する理由が思い当たらん」
「なにを腑抜けたことを。これはただの侵略戦争だ! 現に民が虐殺されておるではないか!」
ひとまずは城の兵力を総動員し、籠城戦に持ち込むしかないという結論に至った。城門と城壁は、この地方でのみ採掘できるメデン鉱石で造られており、耐火と耐衝撃にすぐれている。
方針が決まった後、国王ディルクルム三世が数名の近衛騎士を呼び寄せて命じた。
「おまえたちはルーナを護れ。いざというときに備えて、先に地下通路へ避難させるのだ」
城の地下には、臣下でも一部の人間しか知らない隠し通路がある。万が一、城内で危険があった場合に王族を外へ逃がすための道だ。王の前に跪いた近衛騎士たちは「はっ!」と緊張感をもって答える。レムールもその中にいた。
「陛下と王妃殿下も、どうかお早めに地下へ」
「……我が残ると決めれば、アウローラも頑としてここを動かぬだろう。説得しておくが、期待はするな」
国王はそう言って苦い笑みを浮かべた。
二十年前、この国が飢饉により甚大な害を被ったとき、当時まだ王太子と王太子妃だった二人はともに王国領内を奔走し、大勢の民を救ったという。強固な戦友の絆で結ばれた国王夫妻は「どんな困難にも必ず二人で立ち向かう」と女神に誓った。その逸話は王国の民なら誰でも知るところである。
指示に従い、レムールたちはルーナを連れて地下通路に身をひそめた。地下階段の見張り役、城内との連絡役、城外の様子を見に行く偵察役、そしてルーナを守護する役の四手に分かれる。レムールはルーナ本人の要望で彼女の傍に残った。
しかし、状況は悪化の一途を辿る。帝国軍の王城に対する攻撃は激しさを増し、反撃を恐れぬ
「……内側から門を破られるのは時間の問題だろう、とのことだ」
暗雲立ち込める現状を聞き、騎士たちは歯噛みした。敵の勢いが止まらなければ、いずれ城内も戦場になる。地下通路の場所を知る者は少ないが、もはや安全とは言い切れない。
「私は陛下と王妃殿下をどうにか説得してここへお連れする。城が完全に包囲される前に森へ逃げた方がいいだろう」
連絡役の騎士がそう進言し、レムールたちは重々しくうなずいた。逃げ場の限られた地下で敵に挟まれたら、ルーナを護って戦うのは困難だ。
見張り役と連絡役を残し、レムールともう一人の騎士とルーナは通路の出口に向かう。幼い姫は不安そうにレムールにくっついていたが、泣き出したり騒いだりはしなかった。
(外へ逃げるのはいいが、偵察役がまだ戻ってきていない)
レムールは仲間と目線だけで互いの気がかりを確認し合った。神妙な面持ちで、レムールより五年先輩の精悍な騎士が首肯する。
地下通路の出口は、城の裏手の雑木林に隠された古い小屋と通じている。はしごを登り、床板をずらして地上に出ると、砂埃が溜まった小屋の床板には偵察役の足跡が残されていた。先行して外の様子を確かめに行った先輩騎士が、小屋のドアをわずかに押し開き、そして息を飲んだ。
「……まだ遠いが、松明の火が見える。あれは王国兵じゃない」
レムールの背にも冷や汗が伝った。まさか、もう敵が侵入しつつあるのか。
「正門への攻撃は陽動だったのかもしれん。王族が城の裏から脱出することを見越して、防御の手薄になった隙を突いてきたな」
先輩騎士は冷静だった。「地下に戻っても危険だ。馬で森に逃げ込もう」と言われ、彼の先導で物陰と暗闇に潜みながら三人は厩舎へと向かった。レムールが愛馬トニトにルーナを乗せた後、先輩騎士は腰に帯びた剣を抜き、二人に背を向けた。
「レムール。おまえは姫を連れて先に行け。敵は俺が引きつけておく」
引き留める暇は与えられなかった。人の気配を嗅ぎとったらしい帝国兵の足音と松明の火が、すぐ近くまで迫っている。
「必ず、姫をお護りしろ」
そう告げて、勇敢な騎士は敵兵のほうへ猛然と駆けていった。彼の覚悟に背を押され、レムールは迷いを捨てて馬の腹を蹴った。
年若く、騎士となって日も浅いレムールと比べ、彼は精鋭中の精鋭だ。たとえ人形兵が相手でも後れを取ることはない。きっとまた生きて会える。そう自分に言い聞かせながら、レムールはただひたすらに馬を走らせた。遠くで上がる悲鳴も、軍靴と剣戟の音も、ルーナに聞かせたくない一心で振り切るように逃げた。
しかし、時間が経つごとに最悪の現実は身に迫ってくる。
敵は早くも森に大勢の追手を放ち、しらみつぶしに探し始めていた。城攻めに
――城は、敵の手に堕ちた。
(ああ……国王陛下、王妃殿下……!)
最初に王命を受けたとき、首をはねられる覚悟で無理にでも連れ出し、共に脱出すればよかった。後悔がレムールの胸を締めつける。
それでもルーナの前で嘆きを声にすることは叶わない。彼女はまだ、人の死を直に見たことすらないのだ。その純粋な目と心に事実を突きつけるのは、あまりに残酷な所業といえよう。
(姫は、俺が護らなくては)
王に託された使命だけは、何としても果たさなくてはならない。
「ルーナはテュフォン王国の宝だ」
王は常日頃からそう口にしていた。親の
ルーナは、王国で古くから信奉されている火の女神フラーマと同じ、艶めく銀灰の髪と、磨きあげた月長石のごとき瞳をもって生まれた。
そのためか、彼女こそは女神の生まれ変わりであると信じてやまない者たちも多い。王妃に似た愛らしくも気品のある顔立ちと、少しお転婆だが無邪気で人好きのする性格もあいまって、誰からも愛され大切に育てられてきた。
特別なのは見た目や立場だけではない。ルーナは
楽器をたしなむ王妃と物心つく前から一緒に歌っていて、自然と身に着いたらしい。母がいないときも暇さえあれば歌を口ずさんでいた。城に仕える者なら誰しも彼女の歌声を聞いたことがあるだろう。
レムールも、その澄んだ歌声に何度も耳を傾けてきた。中庭や彼女の自室、湯浴み部屋、王の執務室……城のどこからでも歌が聞こえてきて、そのたびに心を惹かれた。胸の内側をすっと吹き抜けていく風、あるいは暗がりに射し込む光。思わず手を伸ばして触れたくなるような歌声なのだ。
去年の冬、レムールは剣術の訓練中に折れて飛んだ木剣が腕に当たり、数日は自由に剣を振るえない程度の怪我を負った。軽傷とはいえ、木剣を避けきれなかった己の不甲斐なさを恥じ、もし有事が起きても仲間の足を引っ張ってしまいかねないと気を揉んだ。
そんなとき、ルーナが近衛騎士の詰所で一人待機していたレムールをこっそり訪ねてきた。
「レムールに〈癒しの歌〉を歌ってあげるね」
驚く騎士をよそに、彼女は小鳥のさえずりのような声で歌を奏でた。音楽に疎いレムールでも、それが〈女神生誕の祝祭〉で歌われる〈十三の聖歌〉の一曲だと知っていた。
その歌を聞いているうちに、レムールは心と身体がふわりと軽くなっていくのを感じた。春風にさらわれ運ばれていく木の葉は、こんな心地であるに違いない。そして歌が終わる頃には、腕の傷の痛みがほとんど引いていた。
「どうか、女神さまのご加護がありますように」
ルーナは指を組み、少し舌足らずな祈りで締めくくった。高位の聖職者や敬虔なフラーマ教信徒も、この姿と言葉の神々しさには
彼女が自覚のないまま発揮する神聖な力に、誰も確かな理由をつけられなかった。それでもよかったのだ。ルーナという王国の宝を護り、いずれ女王として頂く日をレムールは待ち望んでいた。
(それなのに、なぜ。奪われなくてはならなかった)
舌を噛まないよう食いしばった歯を、砕けそうなほど強くかみしめる。
偉大な両親も、忠実な臣下たちも、慎ましやかな民たちも。彼女から奪われていい理由などありはしなかった。これほどの残虐にルーナが晒されていいはずがない。
走る。ただ、ひた走る。吹き荒ぶ血風から少しでも遠ざかるために。
森は広大で、そのうえ今夜は無風だ。敵が松明と火炎放射器で一掃しようとしても、燃え広がるには時間がかかる。このまま逃げ続ければ、火にまかれる前には渓谷へたどり着ける――そう思った直後だった。
レムールは視界の端で、きらりと光るものを捉えた。風切り音が三回ほど馬の近くを掠め、通り過ぎた木の幹や地面に細いものが突き立つ。側方から矢で射られていると気づき、レムールは咄嗟にルーナを伏せさせた。
(伏兵に先回りされていたのか)
駆ける速さは緩めず、矢の射線を切る障害物に隠れながら進む。矢の攻勢は止むどころか激しくなり、引き離そうとしてもしつこく追従してくる。
レムールは内心で舌打ちした。相手側にも、森の地形や馬が通りそうな場所を把握している者がいるらしい。もしや、王国の中に敵の
(今は考えている場合じゃない。どうにか振り切らなければ)
トニトは優秀だ。悪路でも器用に駆けてみせる。この馬に乗ってルーナと二人で森を訪れたこともあった。あのときのように、渓谷の近くは深夜から朝にかけて霧が深くなる。そこまで逃げれば敵も追いつけまい。
だが、そんな希望的観測は打ち砕かれた。馬が突然、高くいなないて体勢を崩したのだ。見れば後ろ脚に一本の矢が深く突き刺さっている。
「落ち着け、まだ止まるな」
動揺する馬をなだめてやりながら進もうとするも、速さはがくんと落ちた。障害物を飛び越えながら走り続けるのも厳しい。かといって開けた道へ出れば矢に狙われやすくなる。馬を捨て、どこかに隠れてやり過ごすべきか。
(だめだ。敵に捕捉されているなら、隠れてもすぐに見つかってしまう)
慎重に道を選びながら、限界までトニトに走ってもらうしかない。渓谷の霧に紛れてしまえばあとは人の足でも逃げられる。
「頼む、もう少しだけ持ってくれ……!」
レムールの必死の祈りを受けて馬は駆け続ける。その背にしがみついているルーナも、涙声で「がんばって、トニト」と何度も唱えていた。
ふっと、冷たく湿った感触が頬を撫でる。闇夜に慣れたレムールの視界に、薄く白い靄が立ち込め始めていた。一瞬、煙かとも思ったが、吸い込んだ空気には嗅ぎ慣れた川の水の匂いが混じっている。
ヴェド渓谷が近い。そう感じ取ったレムールは安堵の息を吐いて顔を上げる。
――どっ、と鈍い音がした。
胸と鎖骨の間に強い衝撃が走り、「がはっ」と濁った呻き声が上がる。それが自分の口から発せられたもので、チェインメイルの上から射抜かれたのだとレムールは一拍遅れて気がついた。
貫通はしていない。しかし、その一矢の威力はレムールの回避行動を封じるには十分すぎた。
続いて二射目、三射目と四方八方から矢が放たれる。それらは馬の脚や腹だけでなく、ルーナを庇うレムールにも容赦なく降りかかった。
待ち伏せされていたのだ。帝国軍は、城から逃げた王族が向かうとすれば渓谷だと踏んで、初めから兵を置いていた。
間を置かず強力な矢がレムールたちを打ち続ける。そのうちの数本が鎧の繋ぎ目からレムールを刺し、トニトの急所を的確に貫いた。耐えきれずトニトが脚をもつれさせて倒れ、レムールはルーナを抱え込む姿勢で地面に転がる。
すぐさま起き上がろうとしたが、矢傷の激痛と全身を苛む痺れのせいで思うように動けない。
「姫様……早く、お逃げください」
すぐ傍で震えているルーナに、レムールは息も絶え絶えに告げる。しかし彼女はぼろぼろと涙を流しながらかぶりを振った。
「いや……いやよ、あなたも一緒じゃなきゃ……」
掠れた声で言い、小さな両手でレムールの右手を包み込む。清らかな雫が籠手に落ち、腕を伝っていく。
「だめです、姫様……もう敵が……ぐあっ!」
敵が来ると言う暇もなく、レムールは背中から強く殴られ、湿った土の上に叩き伏せられた。口から血の混じった唾が飛ぶ。
闇の中から現れた敵兵たちが、すでに二人を取り囲んでいた。騎兵は槍や両手剣を、歩兵はクロスボウやメイスを手にじりじりと迫りくる。するとそこへ、若い男の声が降りかかった。
「おい、ガキは殺すなよ。帝国への大事な手土産だからな」
声の主は樹の枝の上に立ち、レムールたちを見下ろしていた。顔はよく見えないが細身で、他の兵よりも軽装だ。クロスボウを持っているなら弓兵なのだろう。
その男の指示にレムールはさっと青ざめた。気力を振り絞って上体を起こそうとしたが、後ろから振り下ろされたメイスによって再び地面に倒れ込む。
「レムール!」
ルーナの悲痛な声が聞こえたとき、二人の手は離れてしまっていた。数人の兵たちがレムールから少女を引き剥がし、懸命に抵抗する小さな身体を押さえ込んで、どこかへ連れていこうとする。
「やめろ! その子を、離せ……っ! ぐ、ぅっ、姫様……!」
繰り返し鈍器がレムールに打ち付けられる。それでも騎士は地を這いずり、痛みも痺れも忘れて、まだ握りしめていた剣を無我夢中で振るった。しかし、レムールが抗うほどに敵兵は嬉々として彼を袋叩きにし、矢で射られた上から剣と槍を突き刺した。おびただしい量の血が鎧の下から溢れ出し、地面を赤く染めていく。
「やめて! レムールをころさないで!」
ルーナの懇願する声がした。
強かに頭を殴打されたレムールの視界は流血で塞がれ、だんだんと狭まっていく。露わになったルーナの灰色の髪。涙に濡れた月の瞳。こちらへ伸ばされている幼い手が無情にも遠ざかる。
(護る、護らなければ、俺の、たった一人の――)
レムールも手を伸ばし、力の限り彼女を呼び続けた。血を吐き、喉を裂き、森の木々を震わせるほどの叫びに、兵たちも気圧されてたじろぐ。
だが、二人の手が再び触れ合うことはなかった。
ルーナの声が完全に途絶えた瞬間、レムールの視界は赤から黒へと塗りつぶされた。
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