第4話 灰色の嵐
黒き騎士の絞り出すような声音には、計り知れぬほど深い感慨が滲んでいた。
〝テュフォーネ〟。女神を信仰する古き森の王国において、
しかし、それはすでに失われてしまったもの。口にできる人間は誰一人いなくなったと、少女はずっとそう思ってきた。
「……生きて、いたのね。レムール」
〈歌うたいの幽霊姫〉――生来の名を、ルーナ。
灰色の髪と目をもつ少女は、万感の思いを込めて、八年ぶりの懐かしい響きを紡いだ。
八年前と比べて、レムールの姿は変わり果てて見えた。夏の太陽のごとく溌剌としていた顔に表情はなく、短く刈りそろえていたはずの髪は伸ばしっぱなしになっている。はりがあって明るかった声は、地を這うように低くざらついて抑揚がない。それでも間違いなくレムールだとルーナは確信していた。
ルーナの言葉に騎士は答えない。その沈黙を破った
「おい〈幽霊〉、これはいったい何の騒ぎだ!」
舞台袖で怒鳴り散らしているのは劇場の支配人だった。普段は滅多に表には出てこない彼だが、演者たちに引っ張り出されてきたらしい。どかどかと荒い足音を立てて舞台に上がってくると、客席の様子を見て苦々しい顔をし、次いでルーナを睨みながらレムールを指さす。
「誰だ、その怪しい男は。そいつが天井のステンドグラスを割った犯人か!」
「それは……」
おそらく支配人の言うとおりだが、安易にうなずくことは
「おまえがそいつを連れ込んだんだな!」
困惑する客たちもそっちのけで、支配人は唾を飛ばして叫んだ。彼の中ではルーナが主犯だと決まっているらしい。しかし本意ではないにしろ、この事態を招いたのは自分自身だとルーナは理解しつつあった。
「聞いているのか、〈幽霊〉!」
答えに窮している少女へ支配人は大股でさらに近づく。すると、その前に黒い鎧が立ちふさがった。色めきたっていた支配人は、己より頭二つ分は大きい巨躯に見下ろされ、「ひっ」と青くなって身体をびくつかせる。
レムールは静かだった。だが同時に、厳冬の夜を思わせる凍てついた殺気を全身から放っている。乱れた長い黒髪と、鉄錆の匂いを纏う鎧の
「いったい何なんだ貴様は……! け、警吏を呼んで――」
「おまえだな」
わめく中年男の言葉を低い声が遮る。次の瞬間には、レムールの左手が支配人の腕をつかんでいた。
嫌な予感がしたルーナは「待って」と言いかけたが、時すでに遅し。肉付きのいい大人の腕がまるで赤子の手のごとく簡単に捻りあげられ、ごきりと耳障りな鈍い音がした。
「ぎゃああっ!」
支配人がつばを散らしながら叫んで暴れ、その悲鳴を聞いた客たちは我先にと劇場の外へ逃げていく。混乱は恐慌へと様変わりしていた。
レムールは人とは思えないほどの力で獲物の腕を潰し続け、そのまま軽々と太った身体を持ち上げてみせる。
「姫様を傷つけ、利用し、私腹を肥やす愚者め。おまえには相応の罰を下さねばならない」
怒りの滲んだ声音が無情に告げた。支配人は蒼白な顔から脂汗を流し、釣られた魚のように口をぱくぱくさせている。
「やめなさい、レムール!」
ルーナはすくんでいた足を動かし、騎士のもとへ駆け寄った。支配人を拘束する手を引きはがそうと試みたが、少女の力ではびくともしない。それどころかレムールにはルーナの声がまともに聞こえていない様子だ。
「姫を害することは、王国に仇なすことと同じだ。王国に歯向かう罪人は粛清する。一人残らず殺し尽くす」
淡々と言い、レムールは右手で腰の大剣を引き抜いた。白銀の諸刃と、
左胸に大剣の切っ先を差し向けられた支配人は震えあがる。
「ひぃ、や、やめてくれ、殺さないでくれ! こいつに暴力を振るっていたことは謝る! 給料も未払いのぶん全額渡すから」
地に足がついていたら平伏していただろう勢いで命乞いをされても、剣先が逸れることはない。
しかし、今にも胸を貫かんとしていた凶刃は寸でのところで止まった。
「お願い、やめて。レムール」
ルーナの手が、刃をつかんで阻止していた。剣を強く握った手のひらから血が滲み出て、ぽたぽたと舞台の床板に滴る。
「……姫、様?」
レムールは信じられないものを見るように呆然と目を
ルーナが手を離すと、レムールも剣を下ろす。咄嗟のことで刃を直接握ってしまったものの、傷はそこまで深くない。長く手入れされていなかったのか、剣がなまくらだったおかげだ。
「なぜ、止めたのですか。姫様」
レムールが平坦な口調で言う。その目は相変わらず淀んだ光を宿していた。ルーナは傷口を押さえながら騎士に向き直る。
「貴方こそ、どうしてしまったの。昔の貴方は平気でこんなことをするような人じゃなかった」
「……昔?」
ルーナが眉をひそめて咎めると、レムールはわずかに口角を上げ、静かに歩み寄ってきた。
「何をおっしゃいます。王族たる姫様を貶めた者を誅するのは、騎士として当然のことではございませんか」
「……今の私に、そこまでする意味はないわ」
一度きゅっと閉じたルーナの口から零れたつぶやきに、レムールの足が止まる。ルーナは目を伏せて言葉を続けた。
「王国は、八年前に滅びた。そして私は王族どころか、普通の人間ですらなくなったの」
少女の右手が胸の前で握り込まれる。レムールの顔から薄い笑みが消えた。
二人の間に沈黙が降りる。それを無遠慮に破ったのは支配人の怒号だった。
「行けっ、
はっとしてルーナは舞台袖を見た。劇場で働いている五体の
彼らは支配人の忠実な
「いいぞ! そのまま串刺しにしても、ズタズタに切り刻んでしまってもかまわん!」
客の前で屈辱的な痛めつけられ方をした怒りが骨折の痛みを上回っているのか、支配人は興奮気味に命令を下す。
ブリキの人形は右腕を前に突き出し、左腕を今にも振り下ろさんと掲げてルーナたちに襲いかかった。眼前に刃が迫り、ルーナは咄嗟に身をすくめて目を閉じる。しかし、予期していた痛みはやってこなかった。
鋭い金属音が連続した後、鈍く重い打撃音が空気を震わせる。それが剣戟の音だとルーナは気づき、おそるおそる目を開けた。
『――ガラクタが』
レムールのつぶやきは、高い声、低い声、老若男女いくつもの声が重なり合うような響きをしている。彼一人の言葉ではないとルーナは直感した。
『我らが王国に仇なす者どもよ。
途端、レムールの剣から熱波が噴きあがり、ルーナはハッと息を詰める。剣が赤々とした炎を纏っているのだ。騎士がそれを
(フラーマの紋章石が……!)
剣の鍔に嵌っている赤い宝石が、渦巻く炎を凝縮したかのように不可思議な光を放ち、女神フラーマの紋章をはっきりと浮かび上がらせている。ルーナは嫌な予感がした。
炎の大剣は次々とブリキ人形の刃を弾き、胴を歪ませ、脚を砕いていく。軍用仕様の
物言わぬ人形は床に崩れ落ち、動きを止める。熱で融解しかけている断面を見たルーナの顔から、さぁっと血の気が引いた。
(これが、
大小無数の歯車を複雑に繋ぐ部品。隙間に光る紫色の小さな魔力結晶。それらがぎっしりと詰まった、人形の臓器。人間でいえば心臓にあたる部位が露出している。
――
レムールは練熟した剣技で、動きが鈍った他の人形たちの
『失せろ』
気づけばルーナはレムールの腕に抱き寄せられ、背後で虚しく響く機械の断末魔を聞いていた。振り向いた少女の目に、大剣で胸をえぐられた
レムールが無造作に片手で剣を振ると、ただの金属塊と化した人形が焼け焦げた床板に落ちた。それでもまだ、怒り冷めやらない様子で剣は燃え続けている。
『足りない』
ルーナを抱きしめたまま、レムールは言った。
『足りませぬ、姫様。まだ、終われませぬ』
「何が足りないというの。もうやめて、レムール!」
力強い
『焼き尽くさなくては。灰にしてしまわなくては。貴女様を縛り続け、我らの故郷を滅ぼした、忌まわしき帝国のすべてを』
唐突にレムールはルーナを解放し、踵を返して背を向けた。そして燃える大剣を引きずりながら舞台袖へと歩いていく。向かう先には、腰を抜かした支配人を助け起こそうとしている演者たちがいた。
ルーナは動けなかった。彼女だけではなく、新たな標的として狙いを定められた劇場の人々も、迫りくる暴虐の嵐を前にして立ち尽くし、身をすくませている。騎士を取り巻くどす黒い魔力に気圧され、逃げることすらままならない。
あれは〝呪い〟だ。
彼はもう正気ではない。あらゆる怒りと憎悪と哀しみを内包した呪いの塊となり、目の前の敵を
おそらくは――
(彼を、止めなきゃ。でも……どうすれば……)
ルーナは考えた。こんなときでも心臓は静かで、混乱していた頭も少し冷える。
彼がこの劇場に現れた直後は、まだ昔の面影があった。〝呪い〟ではなく〝レムール〟の自我を残していたのだ。何をきっかけに彼は変化したのだろう。支配人の所業を知っていたということは、以前からルーナの周辺を見ていたに違いない。それでも再会したときに怒りで我を忘れていなかったのは、なぜか。
(……まさか)
ルーナの頭の中でひらめくものがあった。この推測が正しければ、彼を正気に戻す方法はある。
そうこうしているうちに、レムールは獲物のすぐ近くまで迫っていた。今にも泡を吹いて倒れそうな支配人と、生まれたての小鹿より弱々しい姿で震えている演者たち。その中には〈幽霊姫〉を特に邪険にしていたオペラ歌手の女もいる。いつも意地悪く睨んできていた目が、すがるようにルーナを見た。
助けて、と。真っ赤のルージュの唇が動く。その瞬間にルーナの心は決まった。
『全員、骨も残さず焼いてやる』
レムールが炎の剣を振りかぶる。誰もが己の死を覚悟した、そのとき。
――歌が響いた。
恐れも迷いもない、どこまでもまっすぐに澄み渡る歌声だ。
その旋律は、したたかに海を目指す大河のようでいて、慎ましい清流のせせらぎも思わせる。伸びやかに力強く、繊細に儚く、ルーナは〈
くり返す栄華と退廃。数限りない生命の流転。天より地上を見守る神は、嘆きながらも愚かな人々の定めと営みを赦し、
突然歌い出したルーナを、支配人たちは呆然として見つめていた。いたって当然の反応である。だが、オペラ歌手の女が目を丸くしてつぶやいた。
「動きが、止まった……?」
黒き騎士は剣を掲げたまま固まっていた。すると、諸刃を覆っていた炎と紋章石の光が徐々に弱まっていき、ついに力が抜けたように剣を下ろす。
「ぐ……っ、う……」
レムールはこめかみを押さえて
(お願い、レムール。どうか元の貴方に戻って)
祈りを込めてルーナは歌う。静かだったはずの心臓が軋んで痛んだが気にならなかった。
ここでもし心臓が壊れても、喉がつぶれたとしても構わない。自分はきっと、今このときのために歌い続けてきたのだ。
ふいに、レムールがルーナのほうを振り向いた。乱れた黒髪の隙から金の瞳がのぞく。そこに先ほどまでの憤怒や憎悪のぎらつきは無い。永らく道に迷っていた子どものように涙を浮かべ、恐れと寂しさの入り混じったまなざしでルーナを見る。
歌は最後の節をしめやかに結んだ。訪れた静寂の中、レムールがよろよろとした足取りでルーナに歩み寄ってくる。
「……姫、さま……?」
驚愕と怯え、そして確かな懐古の響き。ルーナは深呼吸し、微笑みを浮かべてうなずいた。
「ええ、私よ」
今度はルーナほうから近づいて騎士の左手を取る。そしてレムールの手の甲へ額を寄せ、涙と安堵の混じった吐息を零した。
「おかえりなさい。レムール」
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