第3話 月と亡霊

 翌日の昼下がり、いつもの時間に劇場を訪れた歌姫を待っていたのは、あからさまに不機嫌そうな顔をした支配人だった。

 劇場〈アシナス〉の長である中年の小太り男は、変わり映えのない男装姿で裏口から入ってきた少女を見るなり、肩を怒らせてずかずかと歩み寄ってきた。


「おい、おまえ! またあの道楽卿どうらくきょうに色目を使いおったな!」

 開口一番、酒と煙草の匂いをまき散らしながら支配人は言った。周囲にいる従業員たちは、またやってるよと言わんばかりに肩をすくめ、自分に飛び火しないようにそそくさと離れていく。


 こちらを気にせず掃除や荷運びといった雑務に励んでいるのは、五体の自律式人形アウトノムたちだけだった。支配人が安く買い付けたという軍用仕様の旧型だ。

 赤銅色の塗装が剥げて、その下の鈍銀がところどころ見えている無骨な身体。平均的な成人男性ほどの身長で、頭はつるりとしており、どれも寸分たがわず無個性な顔をしている。まるで人間のように関節を動かして、物を持ち上げたり床を箒で掃いたりしているが、古いせいかその所作は少しぎこちない。


 ギシギシと軋む音を立てながら働く自律式人形アウトノムたちに、支配人は「うるさいぞ、一旦止まれ!」と八つ当たり気味に命令してから、鼻息荒く歌姫に向き直った。


「もう何度目だ。昨夜もわざわざ執務室まで押しかけきて、散々に嫌味を言われたぞ。やれ『こんな場末の劇場で演者を飼い殺すな』だの、『見る目がない』だの……おまえが何か余計なことを吹き込んだんだろう!」

 つばを飛ばす赤ら顔が歌姫の眼前に迫る。


(やっぱりこうなった……)

 少女は嘆息をこらえて胸の中でつぶやいた。

 彼の言う道楽卿とは、昨夜、歌姫をスカウトしていた常連客のことだ。気に入った芸人を引き抜いて養成する趣味があるロヴラン卿のことを、支配人は以前から目の敵にしている。歌姫がロヴラン卿に声をかけられ始めてから、権力を盾にして舞台裏に上がり込まれるようになり、輪をかけて苛立っていた。


「毎度毎度、こっちは迷惑しとるんだ。少し耳障りのいいことを言われた程度で図に乗りおって。おまえを雇ってやった恩を仇で返すつもりか?」

「私は何も……」

「口ごたえするな、孤児ふぜいが!」


 どん、と強い力で左肩を突き押された歌姫は、汚れた廊下の床に倒れた。打ちつけた肘に痛みが走る。被っていた帽子がはずみで落ち、少女の顔と髪が明り取り窓から射し込む陽光の下にさらされた。


 うなじにかからないほど短く切りそろえられた髪は少年のようだが、その色を一見した者のほとんどは、まるで老婆だと口にした。艶もなく乾いた灰色の髪だけを見て、齢十八の女だとは誰も思わないだろう。

 髪と同じ灰色の瞳も、帝国においては異質だ。ラウスペル帝国には大陸の他国からも多くの人々が流入しているが、茶や緑や青の眼が大半を占める。歌姫の双眸に宿る無彩色は、周囲から忌み嫌われるものだった。


「いっそのこと、その髪と眼を道楽卿に見せてやればいい。のぼせあがった奴の頭も一瞬で冷めるだろうさ。金づるが一人いなくなるのは惜しいがな」

 支配人は侮蔑をこめて歌姫を見下ろすと、「さっさと稽古場と客席の掃除に行け、愚図ぐずめ」と吐き捨てて執務室のほうに行ってしまった。

 遠巻きに傍観していた従業員たちは、嵐が去るやいなや、くすくすと小さな笑いを漏らす。セウェルもその中に混ざっているかと思ったが、姿は見当たらない。今日は休みだろうか。


 少女は黙って帽子を被り直し、服についた塵を払いながら立ち上がった。突かれた左肩とぶつけた肘が鈍く痛む。ドレスで隠せる範囲には限度があるので、傷やあざあざができていたら少し面倒だ。そんなことを考えながら、自分の出番までに終わらせるべき雑務へと向かう。


 そのとき、歌姫は背に視線を感じて思わず振り返った。周囲から向けられる刺々しい気配には慣れているが、それとは違う。小さな焼きごてを当てられるような熱を確かに覚えた。しかし、後ろには長く磨かれず曇った明り取り窓があるだけだ。


 昨夜の路地裏での出来事が、ふいに思い返される。久々に胸がざわめく錯覚を抱きつつも、歌姫は窓から顔を背けた。


 *

 

 舞台のまばゆい光が、今宵も歌姫を出迎える。

 満員の客席から向けられる好奇と期待のまなざし。前座にしか現れない〈幽霊姫〉の歌を待ちわびる者たちは少なからずいる。その事実が自分に相応とも不相応とも歌姫は思わなかった。どれほど客が多かろうと、少女の胸が高鳴ることはない。平坦にリズムを刻み、酷使すれば軋むだけの心臓コア


 それでも、歌うことには誰よりも真摯しんしでいるつもりだ。自分の身体のみで紡ぐ旋律。祈りが込められた先人たちの言葉。たった一回きりの舞台。そのすべてが特別で、同じ夜は二度とないからこそ大切にしている。


 息を深く吸い込む。少し負荷の大きな呼吸をしただけで胸の奥に痛みが走ったが、とうに慣れてしまった感覚だ。この痛みさえも舞台の上では愛すべきものだと思える。


 今夜歌うのは、とある王国に伝わっていた古い宗教曲だ。人々に光と文明を与えた、炎の女神フラーマに捧げる歌。

 本来は複数人の男女で奏でる合唱曲だが、この歌を知り尽くしている者は現在、歌姫をおいて他にいない。


 いつもと同じく、一切の楽器を伴わずに少女は歌い始めた。

 劇場に朗々と響きわたる旋律に、ほう、と観客たちは感嘆の息を吐く。男声を欠かしていながら、少女が広い音域を駆使することで不思議と調和ハーモニーが生まれて聞こえるのだ。しかし一方、「これはどこの言葉だ?」と首をかしげる客もいる。


 分かるはずがない。この曲の歌詞はすべて古代語で構成されているのだから。発音は独特で、文法も現代語とは大きく異なる。だが歌姫は寸分の狂いなく歌いこなしていた。


「ほう、うつくしい曲じゃないか」

「あえて異国語の歌を選ぶとは酔狂なことだ」

「聞いたことのないメロディだけど、わたしは結構好きよ」


 そんなささやきが客席で交わされる。この舞台において何を歌うかは歌姫に一任されており、基本的に自由だ。豊富なレパートリーから一曲、特に客の興味を引きやすく印象に残りやすいものを適当に選ぶ。それが許されるあたり、劇場の支配人が歌姫の仕事を買っている証拠だ。


 舞台上で細いスポットライトに照らされ、ぼんやりとした光を纏う少女は、朔の夜空にたたずむ寂しい月のようでもあった。顔は見えず、歌声以外をけっして発さない、純白の〈幽霊姫〉。今宵の夢と幻に客たちをいざなう案内人。


(今日は心臓の調子がいい)

 少女は頭の隅で思う。かなり気管を酷使しているが痛みは少ない。女神フラーマにまつわる歌は歌い慣れているからだろう。

(けれど、なんだろう……この違和感)


 歌に問題はない。客席の雰囲気も普段どおりだ。しかしなぜか、空気が張り詰めているような感覚がある。その原因も正体も判然としない。一抹の不安を抱えたまま、歌は最後の節にさしかかる。


『神は天より我らに光を与え、塵芥ちりあくたと化した世界さえもおこす。弱き者には御手みてをさしのべ、炎をもって悪しき闇を払わん。灰の嵐よ――』


 我らを救いたまえ。そう続いて締めくくられるはずの歌は、突如として響き渡った鋭くけたたましい音に打ち切られた。


 それはステンドグラスの割れ砕けた音だった。歌姫が咄嗟に見上げた客席の天井から、色とりどりのきらめく破片がバラバラと雨のように降りそそいでくる。

 一拍遅れて、ステンドグラスの真下の客席から悲鳴が上がった。引けた腰で立ち上がる老人、頭を庇う女性、他の客を押しのけて避けようとする男。突然のことに驚いた客たちが暗い劇場の中でもつれ合う。思いのほか分厚いガラス片はその上に容赦なく散り、叫び声が次々と連鎖していく。


 劇場はにわかに騒然となった。それを聞きつけた次の演目の楽器奏者たちが、困惑した顔で舞台袖に集まってくる。彼らに向かって歌姫は呼びかけた。

 「支配人を呼んでください! 怪我人がいます!」

 舞台上では歌以外の言葉を発しない少女の、いつになく切羽詰まって張り上げた声に、楽器奏者たちは目を真ん丸にした。普段は歌姫の言うことなど歯牙にもかけない者たちだが、これはまずいと察したようで、指揮者の男が慌てて奥へ引っ込んでいく。


「うっ……」

 歌姫は小さく呻いて胸を押さえた。急に大声を出した反動か、身体の内側がずきずきと痛みを訴える。動きの鈍った歯車が耳障りな音を立てているような不快感。それでも歌姫を顔を上げ、ガラスの破片で傷ついた客たちのほうへ駆け寄ろうとする。


 歌姫の足は止まった。視界が突然、夜の色に覆われたのだ。

 目の前に立ちふさがったのは、空気をはらんではためくマントと黒光りする鎧、腰に佩いた大剣の鞘、そして濡れ羽色の長い髪だった。質量をもった深い闇。とつてもない圧迫感だ。しかし、歌姫は驚きに小さく息を飲んだだけで恐怖は抱かなかった。宵の明星を探すような仕草で、ゆっくりと黒き巨躯を仰ぎ見る。


 二つの金色がそこにあった。今にも燃え尽きんとして輝く星を思わせる、熱くて哀しい光の双眸。

(……まぶしい瞳)

 教会に飾られている聖人の彫刻じみた、精悍で恐ろしいほど整った男の顔が、じっと歌姫を見下ろしていた。影が差してもはっきり分かるほど肌は青白く、薄い唇も紫がかって、こけた頬はすすけている。血の気を感じさせない面差しには表情すら無いが、金の瞳だけは別の生き物のようにぎらぎらとしていた。

(私は、この眼をよく知っている)


 男が籠手を着けた手をおもむろに伸ばし、少女の白いヴェールに触れる。歌姫は身じろぎ一つせず、薄く柔らかな障壁が剝がされていくさまを見つめた。


 脳裏をよぎったのは、朝の深い霧が風に流され晴れていく光景。幼い頃の記憶である。露草つゆくさを摘みに行きたいと護衛の騎士にわがままを言って、こっそり栗毛の馬に乗せてもらったのだ。夢のようにうつくしい川霧の舞に興奮し、馬上で自分を抱える騎士の顔を見上げていた。


「……レムール」


 その名をつぶやいた途端、少女の胸の内が引き絞られるように強く痛む。

 ヴェールを挟まずに交わる視線。男の目は大きく見開かれ、乾いた唇がわずかに動いた。


「姫様……」


 低く掠れた声で男は告げる。その途端、生気の欠けた顔に、記憶の中で微笑んでいた騎士の面影が重なった。


 時が止まったかのように思えた。客席から聞こえていた悲鳴や怒号が遠ざかる。細い脚光に照らされた舞台の上で、少女と男――の現在が、過去という奔流と交わっていく。


 これがオペラや演劇の一場面なら、脚本には〝運命の再会〟などと陳腐なタイトルがつけられたことだろう。

 男が音もなくひざまづいたのは、もちろん演技などではない。身に染みついたごく自然な動作だ。長い黒髪を床に垂らし、大きな体躯を低くしてかしずく。

 

「ずっと、探しておりました。ルーナ・ノワ・テュフォーネ様――

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