第2話 視線

 劇場の裏口から外に出た歌姫は、型崩れした焦げ茶色のソフトハットを目深に被り直した。帽子のつばで髪と目元が隠れる。着古してよれたシャツと黒いジャケットにズボンという質素な身なりは、少女というより痩せぎすの少年じみていた。


 帝国はからりと乾いた気候で、冬季は雪こそ少ないものの厳しい寒さにみまわれる。年が明けてもう三月みつきほど過ぎたが、春の気配はいまだに足踏みしていた。劇場から貧民街にある歌姫の住処まで凍えず歩けるようになるのは、あと一月ひとつきほど先の話だろう。


「……うっ」

 寒さに身を震わせた瞬間、歌姫は息を詰めて胸を押さえた。肋骨の奥にある内臓がキリキリと微かな音を立てている。比喩ではなく、実際にそのような響きがあるのだ。

 心臓が鈍い軋轢あつれきの音を鳴らすたび、歌姫の拍動は一時的に弱くなる。しばし深呼吸をして耐えていれば治まるが、歌の仕事を終えた後は時折この苦しみに襲われた。


(この時期は特に回数が多い……今度また先生に診てもらわないと)

 歌姫は裏口の横の壁に寄りかかって呼吸を落ち着かせながら、路地裏の狭い夜空を見上げた。今宵の月は糸のように細く、晴れ空の主役気取りで瞬く星々だけでは貧民街の夜道を照らせない。


 掃き溜めの街で生きる以上、女という性は不利の極みだ。まして身寄りもなく非力な子どもなど、すぐ食いものにされてしまう。男物の服を着て、うつむきがちに大股で歩き、常に周囲の気配へ注意を払わなくては身を守れない。そんな日々に歌姫はすっかり慣れてしまっていた。


 息を整えた歌姫が、ジャケットの柔らかい襟を立てて帰路につこうとしたときだった。背後で裏口の錆びたドアが開く。

「あっ……歌姫さん」

 こちらに気づいて声を上げたのは、ぼさぼさした亜麻色の巻き毛が特徴的な少年だった。今年から劇場に雇われた新人の雑用係だ。年の頃は歌姫とそう変わらないが、小柄な体躯とたどたどしい喋り方のせいで幼く見える。


 夜気に触れたせいか、そばかすの浮いた少年の頬がわずかに赤らむ。歌姫は反射的にソフトハットのつばを引いて、彼の視線から自分の顔を隠した。少年は歌姫の反応に焦りを見せる。

「ご、ごめんなさい。驚かせてしまって……その、えっと。今日のお仕事は終わりですか?」

 小動物を思わせる目が、ちらちらと歌姫をうかがった。誰に対しても怯えた態度をとる彼は、この劇場で歌姫の次には周囲から叱責や罵声を浴びせられている。下の兄妹たちを養うために日夜働いているらしいが、その境遇に同情するような心優しい上司はいない。

 そのせいか、似た立ち位置の先輩である歌姫に対し、妙に親近感を抱いているらしかった。


「はい。また明日、よろしくお願いします。セウェルさん」

 男の格好、それも薄汚い路地裏で、歌姫は舞台の上と同じく恭しい会釈をする。相手が自分より年下だろうと礼を欠く理由にはならない。

 セウェル少年の頬がますます赤くなり、口ごもって目を泳がせる。何か言いたげな態度に歌姫は首をかしげ、「私にご用でしたか」と訊ねた。セウェルは大げさに肩をびくつかせる。

「用……というか、ええっと……」

 少年は荒れた指を腹の前で組みながらもじもじさせた。歌姫は黙って続きを待つ。


「じ、実は、前から歌姫さんに聞きたかったことがあって……」

「聞きたいこと、ですか?」

「はい、その……貴女の、お名前を」

 意を決した様子で発せられた言葉に、歌姫は帽子の影で目を丸くした。セウェルからは薄く開いた唇しか見えていないだろう。少しの沈黙の後、少女の口が動く。

「〈幽霊姫〉、皆からはそう呼ばれています」

「で、でも、それは渾名あだなというか、芸名みたいなものですよね?」

 答えに納得いかないらしい巻き毛の少年は、普段の内気さが嘘のように詰め寄ってきた。歌姫は退かず、帽子越しに相手を見据える。

「渾名で、芸名ですが、この劇場における私の名前に違いはありません」

「そうは言っても、ちゃんと本名があるでしょ」

 なおも食い下がる少年に、男装の少女は小さく息をついた。


「私はこの劇場に拾われた際、生来の名を捨てました。今さら名乗ることはできないのです」

 申し訳ありません、と歌姫は淡々とした調子で告げる。

 

 セウェルは一瞬ぽかんとして、それから突然、胡乱うろんな目つきになって少女を見た。口元がどこか悔しげに歪み、あからさまな舌打ちの音が鳴る。

「……なんだよ。お綺麗なふりして、やっぱりあんたにも後ろ暗いところがあるんだ」


 幼さの残る声色とは裏腹に、れた口調で少年が言う。黙した歌姫を睨む瞳に侮蔑の色が浮かんだ。

「あんたはまだ他の連中よりまともだと思ってたのに。どうせ金持ち客の同情を引いて取り入ろうって魂胆なんだろ。薄汚い奴め。見損なったよ」

 セウェルは嫌悪感をあらわに吐き捨て、煙草の灰が散らばった地面を靴裏で乱暴に踏みにじる。


(……たいした豹変ひょうへんぶりね)

 歌姫は一定のリズムで脈打つ胸の中で思った。彼にどんな目で見られていたのか、おおよそ察しはつく。誰からも蔑まれ罵倒され都合よく利用される、憐れで純朴なだけの女。彼にとって同情心と仲間意識を持つにふさわしい人間であってほしかったのだろう。

 気弱で口下手の少年、という印象を裏切られても、少女の中に動揺は起こらない。


「そうですか」

 と、ただ一言。名無しの歌姫は是とも否とも答えない。彼の認識に上書きされた悪評を塗り替えたいとは思わなかった。他者からそう見られる自分を少女は客観的に理解している。

 ぶつけた悪意に手ごたえを得られなかったセウェルは、羞恥のためか気色ばんだ。


「はっ、幽霊っていうより自律式人形アウトノムだな」

 ぎりりと食いしばっていた歯を少し開けて、強がりの混じった嘲笑を漏らす。


「ここの奴らもよく言ってる。《幽霊姫》は感情のない機械なんじゃないかってさ。でも本当に魔導機構マギクスの人形だったら、『歌う以外に取り柄のない木偶でくの坊』なんて呼ばれたりしないか。劇場うちや繁華街で奴隷みたいに働いてる型落ち品のほうが、あんたよりよっぽど優秀だよ」


 日頃の鬱憤うっぷんを晴らすかのごとく、セウェルは饒舌にまくしたてた。負の感情の奔流を正面から受ける歌姫は、それでも表情を変えることはない。


 幽霊という渾名と同じくらい、人形やら機械やらと揶揄やゆされることにも慣れている。

 (

 そう思うからこそ、何を言われても否定しなかった。


 彼が言い終わるのを待って、歌姫は「そうですか」とやはり一言で返す。

 重ねた罵倒さえも容易くいなされてしまった少年は、息を荒くしたまま目を怒らせた。握りしめた拳が震えている。

「あんたも底辺にいるゴミクズのくせに、ぼくを馬鹿にするのかよ!」

 激昂したセウェルが食ってかかってきた。拳を開き、少女の薄い肩をつかもうと手を伸ばしてくる。歌姫は咄嗟に後退ったが、避けきれそうになく息を飲んだ。


 しかし、覚悟していた痛みや衝撃は襲ってこない。少年の手のひらは歌姫の眼前で止まっていた。帽子の影からうかがった彼の顔が、みるみるうちに青ざめていく。目は見開かれ、口角と頬が引きつり、唇は開いたり閉じたりを繰り返す。その顔に浮かんでいるのは驚きと恐怖だった。彼の目は歌姫を通り越して背後に向けられている。


 どうしたのかと歌姫が問うより早く、セウェルは二、三歩後ろに下がった。ひぃ、と喉の奥から絞りだすような悲鳴を漏らしてすくみあがると、震える指で路地の奥を指し示す。

「ばっ、化け物!」

 セウェルは一声そう叫んで、足をもつれさせながら走り去っていった。


 呆然として彼を見送った歌姫は、少しの逡巡の後、背中に感じる視線を辿って振り返った。弱々しい月と星の光が届かない路地は、ひっそりと深い闇をたたえているだけだ。その中に動くものなど見当たらず、先ほどまで感じていた何者かの気配も消えている。


 劇場から漏れ聞こえる舞台の喧騒だけが、遠い世界の音のように夜の静寂をさざ波立たせていた。

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