マギクス・コアの歌姫は亡霊騎士に祈りを捧ぐ

木立ゆえ

第1話 歌うたいの幽霊姫

 男は、鬱蒼うっそうとした暗い森の中で目を覚ました。

 泥と血と、むせかえるようなすすの匂いが鼻をつく。それは夜露で濡れる森に漂うものではなく、男の体内にわだかまっている戦火の名残だった。呼吸の仕方を思い出すより前に大きく咳き込み、反動で吸い入れた新鮮な空気の冷たさに頭が冴える。


 ぎらつく金の瞳で周囲を見回し、永らく凍りついていたかのような身体を指先から徐々に動かしていく。全身にまとわりつく蔓草つるくさを引きちぎり、黒光りする鎧ごと起き上がった男は、夜色の長い乱れ髪の隙間から息を吐いた。


 静かな夜だ。しかし、男の頭の中では無数のが響いている。

 地を這うがごとく低い音。金属を引っ掻くかのように高い音。さめざめと泣き、怒鳴り散らし、慟哭する、果てしなき悲哀と怨嗟えんさの声。

 誰のものかは分からない。だが、がなぜ叫び続けているのか、男には自然と理解できた。


「これが……〈灰色の嵐〉、か」

 男は、久方ぶりに己の声を聴いた気がした。その音もまた、頭の中でとどろくく大合唱に混じり、一つに溶けていく。


 男の内側で、ごうごうと嵐が吹き荒れる。すべてを焼き尽くした炎が去った後、残るのは憎しみに塗れた灰の嵐だ。の声に呼び起こされ、男は亡霊となって煉獄の底よりよみがえった。


「……滅ぼさねば」

 亡霊はつぶやく。

「奴らを、帝国を、滅ぼさねば」

 繰り返し聞こえてくる声をなぞるように、つぶやく。


 その言葉を紡ぐほどに、亡霊は己の輪郭を知り、己を失っていった。かつての記憶も自身に与えられた名前も、煉獄から響く呪いの絶叫に掻き消されていく。


 そのとき、ふと、亡霊は頭上を仰いだ。密集する木々の隙から月の光が細く射し込んでいる。夜の森を照らす白く清廉な輝きに、男は目を見開き、泥で汚れた手を伸ばしていた。


 ――レムール。


 ささやきが聞こえた。春の陽射しに歌う小鳥が、大切な秘密をそっと打ち明けるような、少女の声だ。


 ――ねぇ、レムール。また私と一緒に遊んでくれる?


 月光が、亡霊の名前を呼ぶ。


 ――あなたがどんな人でも、私の騎士だってことに変わりはないわ。

 ――そうでしょう? レムール。


 目の奥からあふれた熱い雫が、男の煤けた頬を伝った。眠っていた心臓が確かな強さで脈打ち始める。


「……ああ……姫、さま……」


 涙とともに零れた声は、呪いに転じることなく、空っぽだった男の心に火を灯した。


 そうだ。思い出した。何もかも。


 太陽の下が似合う、灰色の美しい髪と大きな瞳。愛らしい唇が奏でる歌声。若輩の騎士だった男に、花冠を被せてくれたときの健やかな笑顔。


 ……あの日、離してしまった手。


 憎悪に身を委ねて忘れようとしていた。王都が炎の波に飲まれた夜、男は取り返しのつかない罪を犯したのだ。


「姫様……俺の、姫様……!」

 小さな灯火は、真っ暗な嵐の中において瞬く間に燃え上がる。

 新たな命を得るとともに、突きつけられた現実と慚愧ざんきにもがき苦しむ男を、ささやかな月光だけが見つめていた。


 *

 

 歌姫はヴェール越しに劇場の二階席を見上げ、静かに息を吸い込んだ。

 天井から降り注ぐ、まばゆいスポットライト。舞台に立つ白いドレスの少女を見つめる客たちの視線。

 歌姫は、細い体躯に刺さる光と熱を弾き返すかのごとく、まっすぐに遠くを見据えて声を放った。


 澄んでよく通る歌声が、古ぼけた半円形の劇場に響きわたる。天井のステンドグラスから、二階席の端の奥で舟をこいでいる酔っ払い客の耳まで余さずに届いていた。


 雪解けと春の訪れを願い、神への祈りと聖人たちへの畏敬をささげる歌。

 伸びやかに激しく、艶やかに冷たく、優しくも切なく。早春の木立を吹き抜ける疾風のような歌声が紡がれる。少女は息を吸うたびに軋む胸を押さえ、その苦痛さえも情感へと変えて旋律に乗せた。

 


 ――ラウスペル帝国の南部、帝都クレスケン。

 帝国で最も長い歴史を誇る古式ゆかしき煉瓦と石造りの街は、近年の軍事技術開発によって発展を遂げた最先端の都市でもある。

 しかし一方、急速に推し進められた経済成長の影では、とある理由で働き口を失った人々が激増し、生活の格差が広がっていた。その象徴ともいえる帝都はずれの貧民街もまた拡大の一途にある。


 大衆劇場〈アシナス〉は、帝都の工業地帯と貧民街を隔てるバリケード柵とほど近い場所に鎮座している。製鉄工場とバラックの煙突から流れる排煙の匂いを嗅ぎながら、今日も多くの客たちが夜の劇場に訪れていた。

 乾いた日常に潤いと彩りをもたらすべく非日常を求める人々は、国立劇場の席代にも劣らない値段のチケットに有り金をはたいて夢を買う。


 劇場に雇われた演者たちは、それぞれ演劇、オペラ、楽器、手品や軽業といった得意の芸を披露する。演目が発表されるのは当日の開演直前だが、前日の公演終わりに翌日のチケットを買い求める常連客も多い。寄せ集めの役者や芸人ばかりでも、経営は案外成り立っている。

 

 毎夜のごとく公演の開幕を告げるのは、演目リストに一度も名前を記されたことのない、一人の歌姫だった。


 足しげく通う常連たちも、物見遊山で訪れた初見客も、老若男女を問わずその歌声に心を奪われ聴き惚れる。しかし、舞台の中心で脚光を浴びる少女の顔を知る者はいない。

 歌姫の口以外は、頭をすっぽりと覆う白く長いヴェールに隠されている。舞台衣装はいつも変わらず、装飾のほとんどない質素なドレスと、二の腕から指先まである同色のオペラグローブだ。わずかに見える肌の色は青白く、その歌声以外には人間らしい生気が感じられない。


 月明りのようなライトの下にぽつりと佇み、一言も発することなく、名もなき歌を一曲奏でて消える。

 そんな彼女を、客たちは〈歌うたいの幽霊姫〉と呼んだ。



「今宵の歌も素晴らしかったよ。〈幽霊姫〉」

 息を整えながら舞台袖へ下がった歌姫を出迎える男がいた。仕立ての良いスーツに身を包み、シルクハットを被った初老の紳士だ。顎にたくわえた髭を撫でて満足げな顔で笑っている。


 ヴェールの裏側からは外が透けて見えているので、相手が誰か少女はすぐに気づき、ドレスの裾をつまんで一礼した。


「本日もお越しくださり、ありがとうございます。ロヴラン卿」

「かしこまらなくともいい。今の儂は貴族としてではなく、君のファンとして来ているのだから。本音を言えば前座以外でも君の歌を……そのヴェールを取った姿で聴きたいところだがね」

「……お言葉、身に余る光栄にございます。引き続き演目をお楽しみくださいませ。それでは、私はこれで」


 歌姫がふたたび恭しく礼をして立ち去ろうとすると、ロヴラン卿は「そう急いで楽屋に戻らずともよいだろう」とあわてて引き留めてきた。出番を控えている他の演者たちの鬱陶しそうな視線が少女の全身に刺さる。終わったのなら早くどこかへ行ってくれ、と彼らの目は口より如実に語っていた。


 そんな針のむしろにも気づかず、ロヴラン卿は歌姫に話しかけ続ける。

「先日も言ったがね、君は欲が無さすぎる。その実力なら、もっと大きな舞台での仕事だって山ほど舞い込んでくるだろう。儂から国立劇場のオーナーに掛け合ってもいい」

「一介の歌うたいにすぎない私には、過ぎたお申し出にございます」

「まったく、君はいつも謙遜ばかりだな。儂は情けをかけているわけではないのだよ。君の歌声に価値を見出しているからこそ、それに相応しい場所を与えたいと……」


 もう何度聞いたか知れないロヴラン卿の語りが過熱し始めたあたりで、舞台から大きなシンバルの音が響いた。空気がびりびりと震える。次の演目である軽業かるわざのショーが始まったのだ。歌姫は慣れているので動じないが、突然のことに驚いたらしいロヴラン卿は肩をはねさせた。


 ロヴラン卿は一つ咳払いして、「とにかく」と続ける。

「移籍の件、今日こそはちゃんと考えておいてくれ。ここの支配人には儂のほうから話をつけておくから」

「いえ、それは……」

「明日はいい返事を聞けると期待しているよ」

 少女が断りの言葉を口にする前に、ロヴラン卿はヴェールを軽く撫でてから揚々とした足取りで去っていった。取り残された歌姫は唖然としてスーツの背を見送る。


(彼は金払いの良い常連客で、移籍についても悪い話ではないのだけれど……)

 いかんせん、本人の意思を聞き入れようとしないところが厄介だ。

 歌姫の雇い主である〈アシナス〉の支配人も、ロヴラン卿の申し出には良い顔をしない。顔も名前も出さず、前座でたった一曲を歌う〈幽霊姫〉の希少価値を商売に利用しているからだ。

 ロヴラン卿をはじめとした〈幽霊姫〉の熱心な信者ファン、大事な金づるである彼らを他の劇場にとられてはかなわない。そう考える支配人が、歌姫の移籍など簡単に認めるはずがなかった。


 少女の口から溜息が漏れかけたとき、派手なドレス姿のオペラ歌手と楽器奏者たちがぞろぞろとこちらに向かってくるのが見えた。咄嗟に避けようとした歌姫に女性歌手の肩が強くぶつかってくる。ふらついて転びかけた少女を、濃い化粧の女が睨みつけた。


「どこに突っ立ってるのよ、幽霊女。どうせ今夜はもう用済みなんだから、さっさと荷物まとめて帰りなさい」

「出番前にそんな辛気臭い奴と関わるなって。せっかくの楽しい喜劇が呪いで悲劇になっちまうぞ」


 女性歌手の肩を抱いて引き寄せたホルン奏者の男が、歌姫を見て嘲笑を浮かべた。他の演者たちは近づいてこようともせず、ニヤニヤして野次やじだけ飛ばしてくる。


「帝都の〝幽鬼ゆうき〟騒ぎもこいつのお仲間だって噂だしなぁ」

「下手につついたら火だるまにされるかもしれないぜ。おー怖い怖い」

 冗談めかして笑いながら演者たちは各々の楽器を持って舞台袖へ向かう。


 少女が姿勢を正して「申し訳ございません」と平坦な声音で言うと、歌手は真っ赤に塗った唇を不機嫌そうにゆがめて、ヒールの踵を鳴らしながら去っていく。その足音が聞こえているうちに、歌姫は白いドレスをひるがえして楽屋へと向かった。

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