今日、僕は復学し、彼女は学校を去る
陸沢宝史
本編
屋上へと続く階段を駆け足で上がっていく。教室のある三階までは人影があった。だが三階より上にある屋上へと続く階段には当たり前のように生徒の姿は見かけない。
今日は始業式を終えて帰宅することもできた。ただ一年振りの登校ということもあり久々に屋上の風を味わいたかった。
階段を登りきり僕は階段のドアノブを右手で握った。銀色のドアノブはひんやりとしており丁度よい温度だ。
ドアノブを回し屋上と対面する。目の前には濁りのない白雲と太陽。そしてそれらの背後には青い空がひたすらに広がっていた。
僕は屋上へと足を踏み入れる。誰も居ないと予想していたが奥側にこちらに背を向ける女子生徒の姿があった。
一人で屋上を独占したかった僕はこのまま屋上から去るか少し悩んでいた。
だが奥に居た女子生徒が体を反転させこちらへと歩いてくる。
僕は一瞬、このまま女子生徒が帰ると踏み、屋上が独占できることに喜びを覚えていた。
だが女子生徒の顔が見えると僕は何度も目を開閉した。
「あれって、女優の
僕は左手で髪を握りながら思わず声を漏らしてしまう。そのまま気持ち悪いとは思いながらも立ち止まったまま伊勢野桃乃に視線が釘付けとなっていた。伊勢野桃乃は今人気のある女優だ。確か歳は僕よりも二つ下のはずだった。
「サインですか? わたし職員室に用があるんで早くしてもらっていいですか」
伊勢野桃乃が腕を組み急かすような語り口で話しかけてきた。伊勢野桃乃さんは僕が直立している間に歩幅三歩分程度まで距離を詰めていた。
「サインは欲しいけどたまたま見つけただけだからいいよ」
人気女優、伊勢野桃乃さんを前に僕は無理やり笑みを作って対応した。しかし伊勢野桃乃さんがこの高校の生徒という事実に思考がふらついたままだ。僕が高校二年のときは入学していなかったはずだから去年入学してきたのだろう。本当学校を一年休学したことが悔やまれる。
伊勢野桃乃さんは腕を解き不思議そうな眼差しで僕の目を見た。伊勢野桃乃さんは若手女優でもきっての美人と評されるだけに目がとても綺麗だった。
「サイン要らないとは珍しいですね。まあここに一年も過ごせば回数も流石に減りますけどね。けど一年生も入ったから欲しがる人はまた増えますね」
「僕、一応三年生だから」
僕は視線を微かに伊勢野さんの鼻辺りにずらしながら喋る。もしこのまま目を合わせ続けていたら何となくだが顔が熱くなりそうな気がしていた。
「なら学校ですから伊勢野ではなく本名でいいですよ」
伊勢野さんの申し出に僕は発言の意味が分からず首を傾げた。
「本名? 伊勢野桃乃って本名じゃないの?」
僕がそう聞くと伊勢野さんは口を開いたまま想定外の事態に遭遇したかのような表情になった。
「違いますよ。伊勢野桃乃は芸名です。本名は
「まあ、普段から教室で寝ていて他人と話していないからな」
隠すつもりはないが、初対面の人間に留年の話は話しにくいので何となく事実を隠蔽した。
「そういうことにしておいてあげます」
味戸さんは呆れたように言うと短めの嘆息をついた。学校の現状を全く追いつけていない僕は見ず知らずの年下の後輩たちと一年間過ごしていけるのか不安を持った。
「それにしても有名人と会えてラッキーだよ。有名人なんて生で見ることはないからな」
僕は率直な感想を口にすると味戸さんは目を伏せ一度唇を噛んでから言った。
「本当にラッキーですよ。一日遅ければもう会えなかったはずですから」
淡白な声が耳に入ってくる。声自体には特に印象に残る要素はない。だけどその言葉自体は当面忘れられそうにない衝撃があった。
「会えてないってどういうこと」
僕は反射的に音量が上がった声で尋ねてしまう。味戸さんは面倒臭そうに再び腕を組むと答えた。
「わたし一週間後には通信制の学校に転校するんです。仕事も増えてきたので全日制のこの学校では卒業すら危ないので。転校日までまだ期間はありますけど明日以降は仕事で学校には通えないので今日が最後の通学日です」
転校だと言うのに味戸さんの語り口はあまりにも平坦としていた。
「始業式から一週間後に転校とは随分と変則的だね」
「家族で引っ越すからその関係で日程がちょっと変になっただけよ」
「それなら最後に会えた僕は本当にラッキー者だね。サイン貰えばよかったかな」
僕は惜しむように言いながら腕を頭の後ろに組んだ。
「今からでも紙とペンとさえ持ってくれば職員室に行ったあとにサインしてあげるわよ」
「用事あるみたいだしいいよ。有名人に時間を使わせるわけにはいかないしね」
肘を伸ばさない程度に両手を前に出しながら僕はせっかくの申し出を断ってしまった。本音を言えば家に飾りたいから欲しいが。
「あなたがそう言ってくれて助かるわ。わたしはあんまり学校には居たくないからね。仕事に打ち込む時間を少しでも増やしたいし」
味戸さんは退屈するように目尻が下がらないように目を窄め右側の景色を見た。僕も釣られるように右側に目を遣るが校舎とその奥に続く町並み、そして青空が目に写った。なのに味戸さんの顔には晴れという概念はないように思えてしまう。
「僕は逆にここ一年ほどはずっと学校に通いたい思いを抱いていたから今日学校に来られて嬉しいけどね」
今この屋上からの景色を目にしていることは僕にとってはかけがえのない幸せだった。なにせ見たくても屋上に足を踏み入れることすらできなかったのだから。
「それじゃまるで昨年度は学校に来ていなかったみたいね」
淡白なように聞こえて僅かながらに強弱のついた声に体ごと引っ張られ味戸さんの方を向ける。味戸さんも僕の方に体を向けていた。
「その通りだよ。僕は昨年度学校には通ってなかった。親がいきなり失踪して働かないといけなくなったからね」
あまり深刻な雰囲気にならぬようあっさりと事情を説明した。味戸さんの表情に変化は少なかった。けれど小さく開いた目が瞬きもせずに数秒ほど僕を凝視していた。
「わたしだったら今母、父が居なくなればきっと困惑してしまい、まともに生活できるか不安だわ」
「僕も始めはそうだったよ。最初は親戚から少しばかし支援してもらっていたけど、それも限度があったから働く必要があって何も考えずひたすら仕事に励んだよ。今は貯金もできて支援してくれる親戚も増えたから復学できたけどね」
去年の三月、夜に家に帰宅したら母が置き手紙だけ残して失踪した。母子家庭で兄弟もいない自分に頼れる人は限られていた。理解のある親戚から援助してもらいながら学校を休学し必死に働いた。
母が失踪するまでは学校なんて通うのが億劫に感じることすらあった。登下校は疲れるし勉強にも退屈していた。けどいざ通えなくなると学校という存在が恋しくなってしまった。
味戸さんは左手で髪を押さえながら頬を緩めた。
「復学できて良かったですね。そういえばあなた名前は?」
名前を聞かれた僕は未だに自己紹介すらしていない事実に気づき顔を歪めてしまう。まさか自己紹介を忘れるとは先輩として不甲斐なかった。
「そういえばまだ名乗ってなかったね。
表情を取り繕い僕は急ぐように自己紹介をした。
「坪上くん改めてよろしくね。といってもあなたと会うのは今日が最後だけどね」
味戸さんはどこか勿体無さそうな顔つきをした。味戸さんが今どのような思いを抱いているか見抜くのは無理だ。けどこの子ともう少し前から出会えていたらと痛感してしまう。
「僕が留年していたことを考えれば会えた事自体奇跡だけどね」
この時間をもっと過ごしたい。そんな欲求が今更湧いてきた。芸能人相手にその欲求はあまりにも無謀というものだが。
「そうでしょうね。それにしても久々に学校で長会話した気がしましたが」
味戸が口にした学校生活の話が頭の中に入ってくる。味戸さんは何気なく話したかも知れない。けどその話が僕にとっては引っかかってしまった。
「クラスメイトたちとはあまり話しないの?」
僕が大げさな問題と扱わないように雑談するかのように聞いてみた。癪に障ったように味戸さんは左靴の踵でコンクリートの床を何度か叩いた。そして表情から一切の朗らかさは消え、
「する必要がありません」
最大音量はそれほど大きくはない。それでも勢いのある声でそう断言してきた。
僕は内心では味戸さんを不愉快にさせたことを少しばかし悔いていた。けれどクラスメイトと会話したくないという思想は極論のように思えた。
「それは言いすぎな気もするな。クラスメイトと仲良くなっておけば学校生活は楽しくなるしいざというときに助け合えるよ」
説教する訳では無いがほんの僅か語気を強めて味戸さんに僕の意見を主張する。
味戸さんは納得いかないのか顔を下げ、口元を歪めた。その様子を見ながら自分の意見は受け入れられるのは難しいと感じた。十秒程度経つと味戸さんは顔を上げる。眉の間には数本の縦皺ができており、尖った細い目で僕を見詰めて味戸さんは言った。
「逆に聞きたいですけど。坪上くんは入学当時の同級生が卒業して既にいない状況で学校生活を楽しめるのですか? 周りの生徒たちも年上のあなたに気を使うでしょうし」
味戸さんの質問は僕の最大の悩みだった。親友と呼べる友達ももう就職して学校にはいない。他人からすれば通う価値などないかもしれない。だけど今の僕にとってはそれよりも大事なことがある。
右手で服ごと左胸を掴みながら僕の胸に眠る熱意を言葉に変換して味戸さんにぶつける。
「味戸さんの言うとおりだと思うよ。僕も同世代がいない学校での友達付き合いには自信はないよ。けど今の僕は学校に行くこと自体に意義を感じている。友達付き合いの件は少し経ってから考えればいい。とにかく今の僕には学校に通うことこそが重要なんだ」
味戸さんに思いが伝わったかはわからない。けど味戸さんの眉間から皺は消え、目は開き穏やかな瞳と見つめ合うことができた。
「学校に行く意義ですか。あんまり考えたこともありませんでした。大人になったら学校に通うこともないので少しは考えてみてもいいかもしれませんね」
味戸さんのその言葉を聞けて僕は少しだけほっとした。
「考えるだけでもなにか得られるものはあると思うよ」
「だからと言って学校に対する考えを全部ひっくり返す気はありませんからね。それよりスマホ出してくれませんか」
味戸さんからの提案を受けた僕は右ポケットに右手を突っ込む。だがスマホは取り出さず理由を聞いた。
「いいけどなんで」
「連絡先を交換するためです。まだ坪上さんには色々と聞きたいこともあるんで」
連絡先交換? その言葉が脳に流れ込んできた瞬間、頭の中に嵐が吹き荒れた。嵐はすぐに収まったが人気女優と錬ラ先交換できる事実に笑みが零れそうになる。
「わかったよ。それにしてもまさか伊勢野桃乃と連絡先を交換するときが訪れるなんて、今日は驚きが一杯だよ」
思わず自分の率直な思いを話してしまう。すると味戸さんは僕を睨みつけて強い口調で言った。
「事前に注意しておきますけど他の男の人には教えないでくださいね。学校でも異性には絶対に教えなかったので」
「味戸さんをトラブルに巻き込みたくないから教える気はないよ」
僕は首を横に振り髪を揺らしながら、言い触らす意思がないことをアピールした。するとこれから旅行にいくかのような笑みを味戸さんは僕に披露してくれた。
その笑顔に目が触れていると心が太陽に暖められるような感覚がした。もちろん女優である以上笑顔を作ることなど楽勝だろう。けどあの笑みだけでは自然的に生まれた気がした
「それではわたしはもう行きますね。予定よりも時間を押していますし」
味戸さんは頭を下げ一礼すると扉を開け校舎の中へと消えていった。僕は扉が閉まるのを確認すると右側の端まで寄り手すりに掴まった。目の前にはゆったりと動くいくつも白雲がある。そんな雲を見ながら僕は味戸さんの新しい未来にも幸福があることを願った。
今日、僕は復学し、彼女は学校を去る 陸沢宝史 @rizokipeke
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます