第16話

 空に覆われた荒々しい雲から、柔らかな雪の結晶が地表へともたらされた。

 と同時に、肩の力がどっと抜けてきた。


 足から凍えてくるような寒さに、亜紀乃はようやく気が付いた。あまりの緊張で、今まで冬の寒さを忘れていたかのようだ。脇と背中に掻いた汗が、急速に体の熱を奪っていく。


 新大塚駅までの道程はすぐのはずなのに、どこをどう曲がってきたのか、亜紀乃にはまるで覚えがなかった。篠原の背中ばかりを見ていたせいかもしれない。彼の歩くスピードは、歩幅が大きくて付いていくのがやっとだった。


「篠原くん、今日はほんとにありがと。お陰で助かった。思い残すことがなくなったよ」

「それはよかった」


 歩きながら篠原は答えた。感情のこもらない篠原の返事が、亜紀乃の心に引っかかった。


「篠原くん、なんか怒ってる?」

「なんで?」

「そっけないし」

「そう? いつものことだけど」


 それは確かにそうかもしれない、と亜紀乃は自分に納得させる。


「のお、さっきのことやけど」と、亜紀乃は篠原の背中に問いかけた。

「何?」


「さっきのお父さんの話、考えたんてたや」と、亜紀乃は言った。「わたしの勝手な想像かもしれんけど、お父さん、そんなに悪い人やないよ。確かに土地や機械やお金のことなんかは、酷いことしたかもしれんけど。でも篠原くんのことは、ちゃんと見てくれていると思う。篠原くんの夢に反対やったら、働いてないで勉強して大学行けって言うと思うもん。お父さんの職場で働いていられるのも、嫌やったら許さんよ。お給料が低いのも、仕事に厳しいのも、きっと篠原くんのことを思ってのことやと思う」


 篠原は黙って聞いていた。亜紀乃は話を続けた。


「夢だって応援してくれてる。篠原くんが一人前になったら、嬉しいんやないかな。わたしがお父さんやったら、きっとそう思う。物事って、いろんな面があるよ。見えるところばかり気にするんやなくて、たまには裏から見てみるのもいいんやないかな。案外違うものが見えてくることがあるよ。悪いこともあるけど、いいことも多いよ」


 篠原はまだ何も言わなかった。何かを考えているようだった。歩みを少し緩めた。


「慎二のことだって、ほうや。慎二のことで不幸になるって篠原くんに言われたけど、ちっともそうは思わん。そりゃあ、上手くいかんくて落ち込むこともあるよ。やってることも、全部無駄になるかもしれん。でも思ってることが叶っても、たとえ叶わなくても、大切な人を一生懸命に応援するのって、どこからか不思議な力が湧いてくる。大切な人が喜んでくれるだけで嬉しくって仕方がなくて、そのパワーが、その人と一緒に自分も幸せにしてくれてる、そんな気がする」


 降り始めの雪がひとひら、亜紀乃の目の前に降ってきた。柔らかな雪は、春、空へ飛ばしたタンポポの生まれ変わりのようにも思えた。雪はコートに付いて、すぐに融けてしまう。どこかに届くともなく消えゆく運命の、儚げな命を宿した綿雪だった。

雪を見て、ふと由宇は思いだした。今年の正月の冬の出来事。


 昨年、初挑戦した東西戦で負けて、慎二は心身ともにボロボロになっていた。期待の大きかった分、反動は大きい。ましてや高校生だ。初めての経験、初めての立ち振る舞いで、立ち直る経験がまだ少ない。緊張がプツリと切れたせいか、不安と、怒りと、絶望を涙の中に溜め込んで、慎二のかるたは暗く、闇の深いものになっていた。そんな慎二とかるたがしたいと、かるたの先輩の両全さんがかるたの練習試合を申し込んできたのだ。雪の中、車を走らせて。わざわざ慎二の家まで来て。


 それ以来、慎二のかるたの表情が変わった。慎二は、かるたをするときに笑うようになった。


 先輩と一緒にかるたができて喜んでいたのかもしれない。でもそれとは違う何かに向かって、慎二はいつも笑っている。慎二の視線の先にはかるたとは違う何かがある。慎二はいったい、何に向かって微笑んでいるのだろう。


 その答えは、未だに分からずにいる。

 篠原は立ち止まった。振り返って、亜紀乃に聞いてきた。


「明石さん。今日は八重園に会わなくても、ほんとに満足できたの?」

「うん。できることは全部やり切ったし」

「でも試合、見たかったでしょ?」

「わたしができるのは弁当までや。それにあんな究極のかるたバカ、どうせ見んでも、試合は勝つに決まってるから」


 迷わずはっきりと答える亜紀乃を見て、篠原は何度か頷いた。


「そっか。よかった。せっかく来たのに諦めたんだと思ってたから。じゃあ、明石さんの言葉は正しいんだろうね。俺の父親のことも、そうかもしれない。近くにいると逆に見えないこともある。ありがとう。心に留めておくよ」


 意外にも素直な反応をされてしまって、亜紀乃は戸惑った。

「なんか篠原くん、ちょっと変やで」


「そうかな」篠原はふっと頬をゆるめた。「そういえば思い出した。中学生の時に、こういうやつがいた。いつもカレーパンかコンビニで買ったホットチキンばかり食べててさ、そのくせ『夢はミシュランの星のつく店を持つこと』って公言するんだよ。面白いやつだろ。ふざけんなってみんなで爆笑した。でもさ、俺も人のことをバカにはできない。俺の夢って、そいつと同じで……ま、こうやって真面目に言うのも照れくさいんだけど、いつかミシュランから星をもらうことなんだよ――もし夢が叶ったら、明石さん、一度俺の店に食べに来てよ」


 そう言って、篠原は亜紀乃に笑顔を見せた。白い歯が口から覗いた。こんな間近に篠原の優しい表情を見たのは、初めてだった。


 降ってきた綿雪がすべて融けてしまいそうなくらいの、甘い、甘い笑顔だった。


「……別にいいで。それじゃあ、もし篠原くんが病気になったら、いつでもわたしの病院に来てや。悲鳴を上げるくらい、たっぷり注射を打ってあげるでの」


「それはいいね。楽しみだ」そう言って、二人は一緒に笑った。


――あさじふの 小野の篠原しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき

黙って忍んでいるというのに、なんでこんなに恋しくてたまらないのだろう――……


 思いが叶っても、叶わなくても、大切な人に幸せになってもらいたい。応援したいって気持ちがあれば、きっと自分も幸せになれる、そんな気がする。

 それが、恋ってものでしょう?


<完>

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タンポポの恋、お届けします nishimori-y @nishimori-y

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