第15話

 丸ノ内線から新大塚駅まで向かう。改札を出て会館へ。ようやく地下から外へ出た。東京の空を仰ぎ見る。LINEニュースで騒いでいた雪は、今のところは降っていない。でも風は冷たく、雪を含んだ重そうな雲が空を覆う。


「明石さん、顔青いけど大丈夫?」と、篠原が亜紀乃の顔を覗き込んだ。

「うん、平気や、ありがと。コンビニでジュースを買ってもいいけ。疲れてもうて」

「どうせもうすぐ着くから、時間に余裕もあるし、喫茶店で休もう」


 全国展開をしている喫茶店が道路わきにある。二人で席を確保し、亜紀乃は抹茶カプチーノを、篠原はホットコーヒーを頼み、座って少しだけ目を閉じた。甘みと苦みのある香りに助けられて、やっと気分が落ち着くようだった。


「さっき、親父のこと聞いたでしょ」と、篠原が言ってきた。

「あ、うん」


「うちの親父、菓子作りには妥協しないけど、金のことには無頓着でね。店の大規模な改装をするために大事な土地を担保に出したりとか、新しい菓子の機械を購入するために勝手に借金したりとか、誰にも相談せずに無茶苦茶してた。両親の離婚はこの辺りに原因がある。本当を言うと俺は母親に引き取ってもらうつもりだったけど、親父の技術をどうしても盗み出したかったから、苗字だけ残して福井に一緒に来た。でも一緒にいると苦労ばかりでね、生活全般のことが人間以下で、結局全部俺と祖父が面倒見ることになった。やっぱりどうしようもない父親だよ」


 篠原は足を組み、コーヒーを一口飲んだ。


「一番気に食わないのは給料だよ。職人が大事だからって言って、店の利益も考えずに給料をどんどん上げたりしてる。まあ赤字にならないんだったら、それはそれでいいけれど。問題はね、どうしてか俺だけずっと最低賃金に据え置かれてるってことなんだよ。レジの人よりも給料が低い。これってどう思う? いくら身内だからってこの差別、ちょっと酷いでしょ。賃金のことで親父と何度も衝突したけど、結局聞き入れてもらえなかった」


 いつもより饒舌な篠原に、亜紀乃は少しだけ驚いた。


「どうしたの、今日はよう喋るね」

「明石さんなら、なんとなく分かってくれそうだと思ったから」

「慎二にも聞いたの?」

「聞いたよ。大変そうやな、とだけ言われた。他には一切、コメントなし。もっと分かってくれってな」


 慎二の意見に篠原は不服そうだった。可もなく不可もなくという点では、慎二らしい返事ではあるが。


「うーん、ほうか……わたしにはよく分からん世界やけど。お父さんにも、何か考えがあってのことやろうし。篠原くんのためを思ってのことかもしれんもんね」

「俺のため? これのどこが」

「だって高校生やし、お金よりも、まずは修行を大事にしたいんやない?」

「まあそうかもな。でも、それとこれとは別だ」

「篠原くんて、お金貯めてるのは遊びやないよね。やっぱり将来のため?」


「もちろんそうだよ」と、篠原は大きく頷く。「学費も留学費用も、なるだけ自分で稼いでおきたい。専門学校はお金がものすごく掛かるから」


 ああやっぱり。篠原と慎二って、似ているところがあるなあって思う。すでに二人とも、遠くの未来を見通しているようだ。


「自立してるんやね」

「そうだな。早く一人前になりたいし」

「すごいね」

「まあ当然でしょ」


 コーヒーを飲みながらさらりと答える篠原は、一筋縄ではいかないというか、何を答えても反論されそうで、やっぱりいけすかない感じがする。こういうところが苦手だな。


 大塚会館へ到着したのは十時過ぎだ。


 かるたの関係の人がたくさんいるかと思って緊張したけれど、それほどの人はいなかった。


 開会式が行われているようで、部屋から男性の声が漏れてくる。慎二もきっとそこにいるんだろう。扉の前に覗き窓がある。そこからちょっと見たけれども、知らない人の背中ばかりで中の様子をうかがい知ることはできなかった。


 受付の人を見つけると、言付けを頼んで弁当を渡した。

 亜紀乃の決死のミッションは、これであっけなく終了だ。


「八重園に会わなくていいの? わざわざここまで来てやったんだよ。会ってやんなよ。帰る時間、少しくらい遅くなってもいいし」


 篠原の提案に、亜紀乃は迷った。視線を部屋の方へ向けた。扉の向こうの、袴姿の慎二を想像した。板一枚を隔てて、大切な人がそこにいる。夢に向かって戦おうとしている。


 会いたい。慎二に、会いたい。


 亜紀乃を見たら、きっと慎二は驚くだろう。ここまでしてくれてありがとうって、喜んでくれるかな。亜紀乃のために、驚く顔、喜ぶ顔、嬉しそうに笑顔を見せる慎二の表情。そんな慎二を一目でもいいから見てみたい。緊張してる慎二に、頑張れって声を掛けたい。慎二の戦う姿を、目に焼き付けておきたい。


 だって、せっかくここまで苦労して来たのだから――手を握る力が自然と強くなる。


 でも、と、亜紀乃は思いなおす。


 今、慎二に一番必要なのは、「かるた」だけ。そして亜紀乃には「かるた」がない。


 亜紀乃に会うと、慎二の気が一瞬でも削がれてしまう。なんで来たんだろうって。なんでそんなことをするんだろうって。面倒なやつだなって。そうすると、それはかるたの邪魔になる。精神力の負担になる。慎二の集中だけは、絶対に邪魔したくない。


 それは慎二のためにも、自分のためにもならないものだ。


「ううん、いいんや。弁当のことは両全りょうぜんさんに……あ、かるたの知り合いの人なんやけど、その人にメールして知らせておいたから、大丈夫。試合のことは、わたしには関係のないことやから」


 そういえば、両全さんからのメールで、クイーン戦で戦う女の子が「秋生もみじ」さんだって教えてくれた。また、ここでももみじさん。


 二年前、高校入学の際に一度だけ、慎二がもみじさんの写真を見せてくれたことがある。でもどうしても彼女の顔が思い出せなかった。名前はよく覚えているのに、二年前の彼女の姿は、すでに記憶の霞の中に隠されていた。


 篠原は亜紀乃の表情をじっと見つめていた。今の亜紀乃の気持ちに一番ふさわしい言葉を、顔から読み取っているかのようだった。


「そう……じゃあ、来たばかりだけど――」

 寸時、間をとって、

「帰るか」の、一言。

 うん、それで十分だ。二人は大塚会館を後にした。


 亜紀乃は密かに思う――慎二、頑張れ。絶対に、勝ってきて。


 自分の熱意は、きっとお弁当が運んでくれる。亜紀乃の、ありったけの気合を詰め込んだお弁当。どうか少しでも、彼の力になりますように。


 慎二と亜紀乃の戦いは、別のところにある。亜紀乃には亜紀乃の、慎二には慎二の戦い方がある。慎二は高校生だ。戦う相手は大学生、名人候補の筆頭だという。勝率はかなり低い。けれども亜紀乃だって、慎二だって、もちろん篠原だって、みんな必死に戦ってる。


 たとえその勝率が限りなくゼロに近くても、みんなが限界を超えて戦うのだ。

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