2.タバコとキス


 春美ちゃんを送って居酒屋に戻ると、店の前の喫煙所で高梨がタバコを吸っていた。


「お、お疲れ」


「一人? 仲間は見つからなかったんだ?」


「課長が潰れたからなぁ」


 ははっと笑ってから、高梨はタバコの灰を吸い殻入れに落とす。確か前の飲み会でもそうだった。


「じゃ、付き合ってあげる。一本ちょうだい」


「メビウスだけど」


「何でも」


 バッグを肩に掛け直してから手渡されたタバコを口にくわえ、「ライターは?」と尋ねると、彼の顔が近付いてきた。


「これで」


「あー、はいはい」


 火種に自分のタバコの先をくっつけ、息を吸う。赤い火が移ると口にもやっとした水蒸気が入ってきて、私は「久し振りだなぁ」なんて感想をもごもごと漏らした。


「もういいだろ」


「何が」


「ここ」


「ん……、そうね」


 そのやり取り以降、私たちは何も話さなかった。苦い煙が口を満たし、それまでしつこく舌にまとわりついていた人工甘味料の甘みを消していく。肺に入って暴れていた煙はすぐに大人しくなった。一口吸っては吐き、吸っては吐きを繰り返し、自分を甘やかして行き着いたのは、「行く?」というセリフだった。


 返答代わりに高梨は私のバッグをひったくるように手に取り、歩き出す。行き先はわかっている。あの坂の上だ。


 ブルーの細ストライプのブラウスにグレーのタイトスカートという服装でカーディガンだけを手に持つのは、間が抜けているように思える。それでも私は気にせず、高梨の背中を見ながら無言で歩き続けた。



 ◇◇



 『休憩~円』『宿泊~円』と書かれた建物が軒を連ねる通りを奥に入り、少しの間、坂を上る。ラブホテルにしては地味な装飾の建物が現れると、私と高梨はやはり無言で入口を入った。


 部屋を選ぶ時も、何も話さない。高梨が勝手に選び、全てを一人で進めていく。私は付いていくだけだ。なんと心地好いのだろう。


 部屋の鍵を開けて中に入ると彼は私のバッグや自分の荷物を床に置き、こちらを向いた。しょっちゅう会社で話しているというのに、正面から私を見る整った顔立ちには何だか久し振りにお目にかかる気がする。


 私たちは何も言葉にせず、黙ったまま事を進めていく。前回もそうだった。あの時は、何か怒らせてしまったのかと思っていた。でも違った。彼はとても優しかったから。


 立ったまま後頭部を大きな手で固定され、まるで唾液を交換するかのようなキスを受ける。どちらのだかわからない液体が首まで到達した頃、高梨は私の服を脱がせた。ブラウスのボタンを外し、スカートのファスナーを下ろし、中途半端に肌が見えるようになるとベッドへと連れていかれる。ぽふんと化学繊維の掛け布団の上に落とされた私は、すぐにまた求められる。柔らかく優しく、そして執拗に。


 なるべく口に出さないようにしていても、声が漏れてしまう。この空気を乱したくないのに。高梨の指が、どうしても音を立ててしまう。エアコンとミニ冷蔵庫が唸る音だけを、耳に入れたいのに。肌と肌が擦れ、ぶつかる音が響いてしまう。飲み会の喧騒を耳から追い出すには、淫靡すぎるというのに。


 何度も果て、体力の限界が近付いてくる。高梨が「シャワー」と言った。ここに来てから初めて発する言葉だ。軽くうなずくと、彼は私を抱きかかえて風呂場へと運んだ。


「自分で行けるよ」


「大変だろ」


「……うん」


 急に恥ずかしさを感じて下を向く。もう体の隅から隅まで見られ、触られ、感じさせられている私が。


透子とうこさ、無理すんなよ」


 下の名前で呼ばれ、どきっと心臓が反応する。そのせいでまた恥ずかしさが私を襲った。


「何よ、突然下の名前で。歩くくらいできるって……」


「そうじゃなくて、普段も」


「え?」


「後輩相手に、いつも頼りになる風を装ってるだろ。で、男相手にはさっぱり系女子を装う。」


「装うって……私は頼りになる先輩でありたいんだから」


 高梨が「ふーん」と言いながら手に持つシャワーの湯を浴びる。火照った胸を滑り落ちる湯が気持ちいい。心臓はまだドキドキを止めてくれていないから。


「わざと小さくしてんだよな? そういうブラ売ってんだろ」


「そ、そんなの、別にいいじゃない」


「もちろん、俺は透子が色気のないブラしてたって全然構わないよ。大事なのは中身だからな。俺、透子のことすげえ好きだわ」


 高梨が私に言い訳する隙を与えない。言葉尻を奪われ、自分の言いたいことを言いまくる。何だか悔しい。


「……バカじゃないの」


 きっと真っ赤になっているだろう私の顔に、また高梨の顔が近付いてきた。



 ◇◇



「だからあの時言ったじゃないですか、『いいんですか?』って。遠藤さん鈍いから!」


「えっ、いや、えっ? 春美ちゃん……?」


「ちょっと焚き付けてもバチは当たらないですよね?」


「た、焚き付けって」


「ほんと、遠藤さん大変だったぁ……。飲み会のたびにもだもださせられて」


「えっ、いや、その、ご、ごめんね……?」


 私は今、春美ちゃんから怒涛の責めを受けている。どうして責められるのだろう。何か悪いことをしただろうか。高梨と結婚することになったという報告をしただけなのに。春美ちゃんは他の課の男性と付き合い始めたから、高梨のことはどうでもいいだろうに。私は背を丸めた格好で、春美ちゃんと目を合わせることができない。


「もうっ、遠藤さんのバカ! 幸せにならないと許さない!」


「……うん、ありがとう」


「はぁ、これで面倒見ないといけないことが減った!」


「えっ?」


 面倒を見ていたのは私の方じゃなかったのだろうか。後輩の面倒を見るのは先輩として当たり前で……


「恋愛では私の方が先輩ですからね」


「あっ、はい、ありがとうございました」


 ぷんすか怒っているであろう春美ちゃんをそろそろと見上げると目が合い、一秒ののち、私たちは同時に吹き出した。


 私は一人で大きな海を泳いでいるつもりだった。でもきっと見えていなかっただけで、周りには仲間がいたのだろう。酒の力を借りなくてもよかったのかもしれない。


「春美ちゃん、今日飲みに行こうよ」


「いいですね」


 こうやって、私たちは世の中を泳いでいくのだ。


「おー、透子、ここにいたのか。今日飲みに行かね?」


「今日は春美ちゃんと行くから、高梨とは行かないよ」


「えー……、俺より後輩の方が大事なんだな……俺はこんなに透子が好きなのに……半年も待ったんだぞ!」


「……バカ」

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「バカ」 祐里〈猫部〉 @yukie_miumiu

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