カティスの贈り物(三題噺)
zan
全
油のにおいが漂ってきた。
わずかな油さしに灯った火をたよりに、カティスは石の階段を下りている。
このあたりでは胡麻の栽培が盛んであり、油が豊富に使われている。そこから精製した上等の油が、料理に、灯りにと活躍した。
少し前までは、どの地域でも灯りに魚油を使っていたが、燃やすと不快な臭いがすることから、現在の胡麻油の生産が進められた。このあたり、カティスの住む町でも大規模な畑がつくられ、大きく生活が変化したのである。
カティスは豊満なバストを大胆にさらした、イブニングドレスのままだった。このままの格好である理由は、そのほうが番兵たちにいうことをきかせられたからだ。
ほんの少しの金銭で、本来ならば会わせてはならない囚人への面会が通ってしまった。このような、にぎわった場所からはずれた地下牢の番兵など、大した給与ももらっていまい。カティスの胸元にたちまち口元がにやけて、でれでれになってしまった。
その後の彼らのことなど、カティスにとってはどうでもいいことだ。むさくるしい生活の中の、いい思い出になっただろうとは思うが。
地下牢の一番奥に、カティスは勝手知ったる調子で歩いて行った。
「来なくてよい、といったはずですが。来られたのですか」
その男は、まるでカティスがやってくることを半ば予想していたように、面倒くさげに彼女を見た。カティスはにっこり笑って、その男の牢の前に椅子を置き、座った。
「ええ。あなたがそう望んだのです」
カティスは、イブニングドレスを着てはいたが、まるで礼服を着ているようにかしこまり、美しく姿勢を正している。
「こんな贈り物は不要でしたよ、こんな生活ではその姿の、どこを見ていいか。もてあましてしまいます」
「そうですか、着替えたほうがよろしいですか」
「そうしてください」
言われて、カティスは荷物から白いキャソックを出してドレスの上からかぶった。そしてまた、器用にも服の下でゴソゴソと手を動かして、ドレスは裾の方から脱ぎ払ってしまった。
「言わなければよかった」
男は顔を右手で隠し、カティスを見ないように必死に自らの欲を抑え込んでいた。
しかしカティスは平然としていて、何も見えていないのだから問題ない、といった態度である。ベルトをかけてピンを止め、それからまた椅子に腰かけた。
「アインさん、あなたのしてくださったことに、みんな感謝をしております」
「いや、そんなことされるいわれは。私はこのとおり、すでに収監された身の上なのですから」
アインと呼ばれた男は、手をヒラヒラと振って、拒絶する。
しかしカティスはこの男がいかに身を削って、人々のために尽くしたのか知っている。
「たしかに、あなたのしたことは罪であるかもしれませんが」
それまで作ってきた作物がつぶされ、油のため油のためとすべての畑が胡麻畑になっていく。農民の多くは胡麻を育てると儲かる、育てねばならないと聞かされて安易に胡麻畑を広げた。
だがアインは胡麻の生態を調べ、気候適応をよく調べていた。確かに胡麻は育てやすく、日照りにも強い。だが落とし穴があった。それまで育てていた作物とは、適応する土壌が異なっていた。
アインはこのことを人々に説いて回り、安易に胡麻畑を広げないようにさせたのである。
胡麻を育てること自体は特に問題なかったが、安易に飛びついてしまったり、それまでの作物と一緒にしようとするとうまくいかない。これを説いたことにより、胡麻畑を広げたい領主からすれば、アインは目障りな存在となってしまった。
その結果、彼はこうしてここにいるというわけだ。
「しかし、それは神が取り決めた罪ではありません。人が決めた罪です」
「そんなこといって、聞かれたら大変ですよ」
「漁村にも行かれたそうですね、魚油が売れなくなると言って」
カティスはかまわずにアインの行動を指摘したが、彼は首を振る。
「ただ旅行に行っただけで、他意もありませんな。それに、私が何をするでもなく、そちらにはすでに新しい名物もできたと」
「聞き及んでおります。なんでも、高級なゼリーだそうですね」
「歯触りがよいと、なかなかの評判でした」
「なのにお土産に買ってきてくださいませんでしたね」
「それは、口に合わなそうだと思ったので」
アインは困ったように、口元へ手をやった。その味を思い出したのだろうか。
「そう、アインさんは前にもそうおっしゃいました。それで、そのときに約束していただいたのです」
カティスは勝ち誇ったようににっこり笑って、両手を差し出した。
「そのうちもっと、いいものを贈り物に下さると」
「そうでしたね……」
アインは唸って、後頭部をかきむしった。確かに彼には、そんなことを約束してしまった覚えがあった。
「私は、ストリートはずれの手芸品店でかわいいペンケースを見つけていまして。これと真鍮グラスのインク壺をそろえられたら随分素敵だろうなと思っているのです」
「ペンケースですか?」
「ええ、買ってくださいますよね」
「無理です」
カティスの要求には答えられない。アインは収監されていて、しかも解放されるような予定はない。仮に胡麻畑が何かの具合で大損害を出したなどということがあったとしても、アインを釈放することは、領主にとって収監が間違いであったことを認めるようなものである。
つまり、アインは領主が死なない限りは、ここから出る見込みすらたたない。このまま朽ちて死ぬか、領主の機嫌で処刑されるかというところなのである。
「でも、あなたは買ってくださいます。約束ですから」
「ここから出られません」
「ここから出られれば、買って下さるのですか?」
「まあ、そうですね」
カティスは言質をとったように、再び、にっこりと笑って服の中に手を入れた。ふくよかなバストのあたりから取り出した指先に、鉄製のカギがはさまれている。
「これがあれば、出れますわね」
「いや、出れますが、そんなことをしても、また捕まってしまうだけです」
「大丈夫です。逃げるだけの時間があります」
まさか、ペンケースを買うためだけに脱獄しろというのか?
アインは目を見開いたが、カティスは少し目を閉じて、少し考えてこう告げた。
「でも、こんないいものを私から差し上げるのですから、ペンケースでは釣り合いませんね。私は欲張りですから、もっといいものをくださいませんか?」
「もっといいものですか?」
「はい」
「そんなものは持っていません」
「あります」
カティスは譲らなかった。彼女は立ち上がり、アインの牢のカギを開けてしまった。
「さあ、これであなたは私に贈り物をしてくださいますね。約束ですもの」
「しかし、しかしどうやってここから出るのですか? それにすぐにばれてしまいます」
「平気ですよ、ここの牢番たちは、皆、雷が苦手なのです」
カティスが言い終わらないうちに、ドガン、と強烈な落雷音が響いた。
強烈な土砂降りの、大雨が降ってくる音さえ聞こえてくる。
「この雨に紛れれば、たいていのところは抜けられます」
「そこまでしてあなたにあげられるものがあるとは思えませんが」
「大丈夫です、さあ、いきましょう」
カティスはアインを引っ張って立たせ、そして油さしの灯りを消し、急いで走り、階段を駆け上がった。闇の中をカティスとアインは走り抜けたが、牢番たちの姿はどこにもなかった。戸は開いていた。
外は大雨が降り、雷が光っている。
あまりの雨量に、外には誰もいなかった。
カティスとアインの姿は誰にも見られることがなく、二人は雨が止むまで走り続けた。カティスのキャソックは首から裾までびしょ濡れになり、泥だらけになってしまった。
それでもカティスはかまわなかった。
好きな人のすべてが手に入ったのだから。
カティスの贈り物(三題噺) zan @sasara
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