鈍色ペトリコール

茄子屋

第1話

 雨の匂いがする。その中に鈍色は見当たらない。あの日々は見当たらない。濡れたくはないので家路を急ぐことにした。ロクに回転させていない頭が重い。日常から彼女の煙草の匂いが消えて、雨を好きでいられた日々が終わってから、私だけが長雨の中に取り残されている。


 雨雲に蓋をされた街を歩く。目の奥の方でズキズキと痛みが脈打つ。

「久しぶり。手、貸してくれない?」

聞き慣れた声に反射的に振り返ってから遅れて、記憶が這い出してくる。誰もいない。当たり前だ。こうなるといい加減自分に嫌気が差す。

「そんな顔してないでさ、ここだよ」

相変わらず誰もいない。いや、何か黒いゴワゴワした物がある。カラスだ。カラスが落ちていて、何やら嘴をパクパクとしている。それ以外に声を発しそうなものはここには無い。まさか。言葉を喋るカラスだって?それも数年前を最後に会っていない――知人の声でとは。遂に頭痛が行くところまで行ってしまったか。

「三宅さん?」

返事を期待せずにカラスに問いかける。

「分かる?ちょっと面倒なことになっちゃって。話せば長くなるんだけど。運良く菅くんに会えて助かった」

「いや、流石に状況が飲み込めません」

そう言いながらもカラスと会話を続ける。傍から見ればさぞ滑稽だろう。

「今動けなくてさ、歩道のど真ん中から動かしてくれると助かるんだけど」

改めてカラスをじっくり見つめる。埃にまみれた姿から、記憶の中の不安定とも言える儚さは連想されない。それなのに、ぶっきらぼうでいて、靄を晴らすように軽やかな声は、彼女のそれに違いなかった。これが現実に起きている事とは信じない。それでもそれを自宅に連れ帰ったのは、あの頃と同じような雨が降り出したからだろうか。


 天気予報が、梅雨の合間の晴れを伝えている。カラスを家に連れて来てから三日が経った。三日で理解できたのは、件のカラスが本当に三宅さんであるということだけだった。私が彼女と出会ったのが四年前のこの雨の季節だ。それから彼女が語ったこと、私がこぼしたことについて聞くと、カラスはそのほとんどに答えてみせた。彼女と会うのは大体が雨の日で、それも晴れの日に会う口実がなかっただけだが、恐らくは二人しか知り得ない情報だった。そう、三宅さんはカラスになってしまったのだ。


 なぜカラスになってしまったのか、なぜ喋れるのか、それは彼女にもよく分からないらしい。曰く、帰路の途中で気がついたらカラスになっていたようだ。いつも通らない道を通った気がするとか、視界が歪んで、急に自分の体に違和感を覚えたとか言っていたが、実際のところ、疲れていてよく覚えていないという。慣れない体が限界に達して道端に落下してしまい、偶然私を見つけた。それがこの再会の全てであるようだ。


 ベランダの方から羽音が聞こえる。三宅さんが帰ってきたようだ。

「ただいま」

「お疲れ様です。何か収穫は?」

「なにも。飛び慣れてきたのは大きいけど」

こうも数日で自分の体の変化に慣れるものなのか。いや、もう完全にこのカラスが三宅さんだと信じている私も大概なのかもしれない。人への戻り方を探さないといけない上、カラスになってしまった以上飛行能力を生かしたほうが良いということで、彼女は昨日から街に飛びに出ていた。カラスに変わってしまったときにいた場所さえ分かれば、人に戻れるかもしれないと言う。色々な所を飛び回っているようだが、それだけで人に戻る手がかりが掴めるとも思えない。だが、もしも人に戻れるとなったとき、彼女はどうするのだろう。今再び別れてしまえば、二度と彼女の姿を見ることはできない気がした。何となく焦燥に駆られてベランダの柵に止まった彼女を見つめる。晴れ渡った空を背景にした姿をあの頃の彼女と重ねようとする。違和感。それを姿の違いと納得することが出来なかった。新しい日常への期待は、まだ期待のままだ。


 彼女と小さなテーブルを囲む。と言ってもカラスはテーブルの上で、コップから器用にコーヒーを飲んでいる。あれから五日、もうこの程度の非日常には慣れきった。こうしているとあの頃を思い出す。五年前、滑り止めの私大に入った頃、私はどうしようもない無気力の中にいた。何かを求めて上京したのではなく、ただ逃げたかっただけだと気づいたのは実家を飛び出した後だった。やりたいこと、ひいてはこの先の人生への希望も見つからなかった。ある日、通り雨に降られて喫茶店に立ち寄った。雨の中、ガラス一枚隔てたテラス席で、彼女が、三宅さんが煙草を吹かしていた。どこか遠くを見つめながら、深呼吸をするように紫煙をくゆらせる。目元の隈を見て、何となく、彼女も私と同類なのかなと感じた。それからは雨の日の喫茶店でよく見かけるようになり、いつからか話をするようになった。父親が蒸発した話とか、子供の頃の夢の話とか、美味いコーヒーに合う料理の話を、彼女はどれも同じように淡々と語った。口にするのは世迷い言ばかり。それでも、彼女は真っ直ぐな目をしていた。


 あの頃の光景。分厚い雨雲が広がっている。まだ雨は降り出していない。その頃には、雨の予報だけで喫茶店に向かうようになった。いつものように彼女はテラス席で煙草を吸っていた。

「ペトリコール」

「え?」

「雨の前の匂いのこと。好きなんだよね」

「……やっぱり変な知識だけは豊富ですよね」

そう言われて彼女が軽やかに笑う。

「この匂いを嗅ぐと、なんと言うか、晴れた空の下だけで生きなくても良いんだなぁ。みたいな。そう思える」

私も好きだなと思う。だがきっと、それは彼女に染み付いた鈍い灰色の匂いが混じったものだ。


 はっと我に返る。三宅さんが目の前にいるのに、昔の記憶に浸ってしまっていた。ああ、何の話をしていたんだっけ。

「それで、その部長が尖った人でさ。求められるものも多いし」

そうだ、彼女の現況の話だ。昔語っていた夢とも関係がある話だったかもしれない。

「私達にそんなに求められてもね……って思いますよね」

「でも、今はそれが嬉しい。自分も進歩出来てるんだなって思う」

ついそう言って、予想外の返事に驚く。彼女ならそんなことは言わない。少なくとも、あの頃の彼女なら。

「早く戻ってやらなきゃいけないことばっかだよ。そのためにも人に戻る手がかりを探さないと」

彼女はいつの間にかコーヒーを飲み終えている。

「これから仕事だったよね。頑張って」

そう言ってまたベランダから飛び立つ。違う。こうではないはずなのだ。あの頃、あの時間は湿っぽくて平坦で、それでいて根拠のない希望に溢れていた。今はその延長線上にありえないのか。彼女がこんなにも近くにいるのに、思い出がフラッシュバックするばかりで、最早あのカラスが本当に三宅さんだと信じたくない。「人に戻れるかもしれない」その日の夕方、帰ってきた彼女が告げた。


 出窓に打ち付ける雨音で浅い眠りから覚める。まだ朝の三時だ。三宅さんはクッションの上で丸まって寝ている。ベランダに出て、煙草に火を付ける。湿気のせいか火がつきにくい。頭が冴えてきて、彼女が昨日言っていたことを思い出す。人に戻れるかもしれないという理由を聞いても、頭の中の雨音にかき消されて何も入ってはこなかった。もう、数時間後には彼女はここにはいない。「まだ行かないで欲しい」「人に戻ってから会いに来て欲しい」なんて言えないし、私の本心ではない気がする。もう会えないことは、彼女の声色から大体想像がついた。あの調子では、根拠がなくても彼女は行くだろう。肺に充満した煙を雨粒に吐きかける。

 「おはよう。ずいぶん早いね」

いつの間にか彼女がベランダに出て来ていた。

「おはようございます」

そう言うと、カラスは少し煙たそうに顔を背けた。

「煙草、吸うんだ」

誰のせいだと思っているんだろう。

「三宅さんはもう吸わないんですか」

「体に悪いし、ちょっと忙しくてさ」

あなたがそれを言うのか。

「三宅さんは変わりましたね」

「まあこんな姿になっちゃったし。でもこれも変身って言えば聞こえは良いよ」

そういうことじゃない。

「あなたが、今のあなたが嫌いです」

紫煙を吐き出したような感覚。何を言っているんだ私は。こんなの傲慢にも程がある。

「昔のあなたなら、頑張ってなんて言わない」

彼女は何も言わない。彼女にとってこの変化は良いことであるはずなのに、諦めかけていた夢に近づいているはずなのに、こんなことを言ってしまう。あの鈍色の日々から抜け出そうとしないのは私なのに。

「ごめん。あの頃には戻れないし、戻るべきでもないと思うから」

言葉が出ない。あなたが謝らないでくれ。

「じゃあそろそろ行くよ」

雲の隙間がほの明るくなったころ、彼女は言った。酷な奇跡も、ここで終わりか。

「ううん、戻れないんじゃない。多分私はあの頃のままだから」

大きく翼を広げ、明け方の雨に飛び立つ。そういえば、なぜカラスなんだろう。もっと彼女に相応しい鳥もいるだろうに。そんなとりとめもないことを考えようとする。ふと、彼女の目を思い出す。記憶の中の彼女は、私ではなく、その奥の空を見つめている。ああ、そうだ。忘れていた。あの頃、そんな目を見てどこか寂しくて、それ以上にどうしようもなく眩しくて、憧れていた。あの頃からずっと、彼女の世界は雨雲の奥で、あの雨の中には私しかいなかったんだな。きっと彼女は彼女のまま飛んでいくんだろう。煙が目に染みる。漆黒の体が、梅雨の長雨を弾いて飛んでいく。やっぱり綺麗だな。そう思った。


 梅雨も終盤に差し掛かった。いつか私も、あなたと同じ空を見れるだろうか。雨の匂いがする。煙の鈍色を、この匂いの名前を教えてくれた人を、今はもう探さない。

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