用水路の小赤

@nakagishi_tetsu

変身

今日も暑い。玄関のドアを開けるとまだ朝早いのに熱気が顔にまとわりついてくる。台風一過で日差しも容赦ない。金魚はデパートのバーゲンセールのような勢いで餌を欲している。餌をあげた。舟を外においていると、どうしても微生物が繁殖して金魚舟の水が緑色になってしまう。3日前に水換えをしたばかりなのに、水はすでにかなり緑色になってしまった。僕の「いってきまーす」母の「いってらっしゃーい」いつものこれが今日はない。昨日は母と喧嘩をしたからだ。僕が自分の部屋を散らかしていて、そのうえリビングにも高校の教科書、参考書を何冊も置いたままにしているから、それらを動かしたり、掃除とか自分の仕事をできなくなったことで色々不満が溜まった母に怒られてしまったのだ。

僕の住んでいる地域は金魚の名産地で城下町、町のいたる所に金魚マンホールなど、金魚の要素が散りばめられている。自転車で学校に向かう途中、僕とは違う高校に通う友人と出会ったので自転車を押しながら少し話すことにした。「お母さんと今喧嘩しちゃってんだよねー」と僕が言うと、「どうして」と聞くので伝えた。友人は「全面的に君が悪いんじゃないかな」と。そんな事はわかっている。「僕が悪いのはわかってるけどさー。。。」「君はお母さんの気持を考えたことはあるのかい」「えっ」「今まで話を聞いてきて思ってたんだけど、ちょっとわがままというか幼稚というか。。。」「そうかい」このあともすこし歩いて話してから別れた。城下町だから通学路は曲がり角が多く、見通しも良くない。さすがは金魚が泳ぐ城下町、用水路はいたるところに張り巡らされていて、台風の後なんかは養魚場の池から溢れた金魚が泳いでいるなんてことがよくある。今日は用水路を覗き込みながら自転車を漕いでいた。「金魚いるかなー」昨日の雨で水が濁っていて少し探しづらい。「わっ」マンホールで滑ってしまった。ぼこぼこぼこ、視界はわるく、透けた薄茶色。体力を消耗している感覚があるのにその場所に留まっているようだ。ザブン!急に体が持ち上がり、視界が明るくなった。これは水の中なのか。上には青空が見えるけれど、透明な床、前後左右透明な壁、そこには金魚が映っている。その壁に少年の顔が浮かび上がってきた。「金魚つかまえたよ」と少年が言う。まさか、映っていたのは金魚になった自分だったのか。「おーい、助けてくれよ」泣きそうになりながら叫んだが無意味だった。当然だが、金魚は話すことができない。少年の家まで運ばれている間、少年は何度も覗き込んできた。金魚は服を着ていない、裸も同然なのだからあまりジロジロ見ないでほしかった。

その少年はとても優しい子であった。本を読んで勉強したのだろう。金魚になってしまった僕を水槽に入れるときも、いきなり新しい水にいれるようなことはなく、丁寧に温度合わせ、水合わせをしてくれた。とても安心した。なんといったって金魚になってしまったのだから、この過程の有無で下手したら死んでしまうのだ。「金魚なんかにそんなに真面目になることないんじゃないか」と少年の父親が言ったときは許せないというか、殺意がわいた。

少年はそれから一年ほどは毎日適切な量の餌を僕に与え続け、一週間に一回水換えをしてくれた。おかげで、金魚の弱い体では生きていくことができるのかすごく不安だったが、生きていくことができた。金魚としては快適に過ごせてはいたけれど、家に帰りたくなっても帰れないのだ。人間にもどることができないことに絶望して落ち込むことはあった。

金魚として快適に過ごしていた僕だったが、状況が一転する。優しい少年とはいってもやはり子供である。金魚への関心が薄くなってきてしまったようだ。これまで毎日してくれた餌やりも、一週間に一度してくれた水換えもしなくなった。お腹は空き、水槽もだんだんと汚れてきている。お腹が空いているのでもちろん世間の金魚と同じようにして餌をねだったものの、興味をなくしている少年が餌をくれることはなかった。一方の水換えについてはとても耐えられるものではなかった。金魚は空腹には強く、ある程度絶食させられたとしても生きていくことができる。しかしながら、水換えがされないことは命を失ってしまう恐れがある。金魚の水槽にトイレなどあるはずもなく、糞尿は垂れ流しで水に溶けている。金魚は魚なのだからその水を飲み込み、エラで酸素を濾し取っている。僕はもともと人間だったのだ。意識だって、体は金魚になってしまったけれど人間のままなのだ。「こんなの全然人間らしくない」金魚になってしまったのだからこんなことを言うのは変かもしれないが、人間の尊厳などありえないこの環境に耐えられる人がいるだろうか。それでも生きていかなければならない。僕は一生懸命に餌をねだる。水槽の前に少年が通ったときに、口をパクパクさせる音で、顔を水面から出そうとして立ち泳ぎで上下に水面を揺らすことで興味を惹かせようとしたけれど、とうとう少年が金魚の世話をすることはなかった。それでも、どうやら運が尽きてしまったわけではないらしい。少年の母は金魚のことをかわいそうに思って餌をくれるようになった。水換えもしてくれるようになった。少年の母は少年に似て優しい人であった。いや、少年が母に似ているのか。そんなことはどうだっていい。生き延びることができるのだ。このころにはもう人間らしさを求めることは殆どなくなっていた。ただ生きていられるだけでこれ以上のものはないと思った。人間としての意識がだんだんと金魚としての意識に移り変わっている気がした。どこか自分の中でそれを拒絶しているところがあったが、このまま金魚として生きていくにはこのほうが都合がいいとも思った。

しかしまた別の問題が発生した。世話をしてくれるのはいいが少年の母はかわいそうというような感情だけで世話をするのだ。お腹が空いていたらかわいそう、水が汚いとかわいそうといったような感じで、餌を与える量は多いし、水がきれいならそれでいいと思って全換水で温度も合わせず、水も合わせず、毎回ショックで死にそうになる。金魚としての意識に移り変わっていってしまっているからか、お腹が空いていなくても餌をねだってしまうようになり、それをみてかわいそうだと少年の母はさらに餌をくれるのだ。しかし、その餌の量は多すぎなのである。そのせいで水の汚れるのも早くなる。しかし、汚れが溶けて目立たないとなると、水換えをしてくれない。少年の母は少年と違って、金魚飼育の本質がわかっていないのだ。残念ながら僕は金魚であり、本当のことを伝えたくても伝えることはできないのだ。やがて金魚は体調を崩し始め、とうとう、死ぬまで秒読みという所まで来てしまった。僕はどうしてこんな事になってしまったのだろうか。部屋を汚いままにしておいたからなのか。そんなに汚いところに住みたいのなら住んでみろということなのだろうか。昔、人間だった最後の日に友人から言われたことを思い出した。僕はわがままだった。僕は幼稚であった。母の気持ちなどなんにも考えていなかった。母は僕の事を大切に思ってくれていたのだ。金魚になって最初の一年間、少年は金魚のことを愛して、大切に思っていたからこそ、様々なことを勉強した。そのおかげで、その金魚は快適に過ごすことができた。同じように母は一生懸命子育ての勉強をしたり、子どものこれからの人生のために健康面、精神面、他にも様々なことにおいてサポートしてきた。エネルギーを費やしてきた。そのおかげで僕はこれまで何不自由なく過ごせていたのだ。それなのに僕は母に余計なエネルギーをつかわせてしまっていたのだ。金魚のときだって、環境が悪くなるとそれまでのありがたさなんかを忘れてしまって、尊厳とかなんとか文句を言ってしまって。ああそうだな。僕はわがままで、幼稚で、人の気持ちなんて全然考えられてなかったんだな。でもお母さんだって頑張ってきたことをもっと前面に出しても良かったのに。言わないとわからないことだってあるよ。相手のことを思いやってたってそれがいつも正しいなんてそんなことはなくて、正しくない時にちゃんと主張しないと取り返しのつかないことにだってなるんだから。

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