08

 榎本邸。


榎本 この後、函館で私たちは、見るも無残に負けるわけですが。あの男のことは、いくら調べても見つからなかった。元が隠密ですから、大方、誰かに化けて、案外近くにいたんじゃないかとも思います。そうそう、一度だけ、名前を聞きましたね。あれは…そう、日清戦争。陸軍少尉として、相変わらずの活躍だったとか。できることなら、私も、もう一度会ってみたかったものですが、彼が今、生きているのか、死んだのかさえ、知らないんです。どうも、後味が良くないと思いますが。

萩 いいえ、とても面白いお話でした。

榎本 どう思いますか。細谷十太夫という男のこと。

萩 …真っ直ぐな人だと思いました。誰に対しても、何に対しても。誠実ではないかもしれませんが、その気持ちに嘘や偽りはないんだろうと。

榎本 そうですね。実に、気持ちのいい男でした。

萩 私も、思い出した話があるんです。聞いていただけますか?

榎本 ほう…それは、どんな?


 回想。戊辰戦争終結後。旅籠屋の前。下男が店先をほうきで掃除している。上機嫌に歌っている。


下男 さんさ時雨、茅野の雨か、音もせで来て濡れかかる…。


 板垣がやってくる。


板垣 すみません。

下男 はい、いらっしゃいませ。お泊りですか?

板垣 いえ、違うんです。人を探してて。

下男 人探しですか。旅籠とはいえ、何分、人通りの少ない田舎道ですから、お役に立てるかどうか。

板垣 些細なことで結構です。細谷十太夫という人物をご存じないですか?

下男 ええ、十さんはお得意様でしたが。ご友人で?

板垣 …いえ、仕事で探しているんです。

下男 お仕事ですか。残念ですがね、儂らも十さんが今はどこにいるかわかりませんで。

板垣 そうですか…。

下男 しばらくこの辺りで寝泊まりしてたのは確かですが、この前の戦が終わるなり、金だけ置いてそれきり姿を見せないもんですから。あの人に限って、どっかで野垂れ死んでるってことはないと思いますが。

板垣 金を置いて?

下男 目ん玉が飛び出るくらいの大金ですよ。仲間にも気前よく配ってったって話です。儂も、少しですがご相伴に与りましてね。一体どこからって、いろんな噂がありました。

板垣 その、仲間の方々は、今どこに?

下男 そこらにいますが、十さんの居場所は知らないでしょう。毎度のことです。黙っていなくなったと思ったら、突然ふらっと帰ってくる。

板垣 …鴉のように、ですか。

下男 ええ、まさに。立ち話も何ですから、中へどうです? もうじき日も暮れますが。

板垣 いえ、それには及びません。すぐに帰らなければならないので。

下男 はあ、お忙しいんですね。

板垣 喜ばしいことではあります。これからの、この国のために働けるということは。

下男 へえ、随分、小難しいことをなさってるんですね。お偉いさんですか?

板垣 そんな、大層なものじゃありません。この国に生きる全ての人にとって、よりよい世界をつくるために、できることをしているだけです。

下男 しかしねぇ、戦で未来ある若者を失っては、本末転倒だと思いますが。

板垣 鋭いことを仰いますね。必要な犠牲、と言ってしまうのは簡単ですが、争いなんてない方がいいに決まってる。これからは、刀の時代ではなく、言論の時代です。

下男 こんな田舎者にもご丁寧に、ありがたい限りです。

板垣 とんでもない。お邪魔してしまっているのはこちらですから。

下男 いえいえ、こちらこそ、お役に立てず。お暇があれば、またいらしてください。板垣サン。


 板垣は一礼して去って行く。


板垣 …?


 板垣は立ち止まる。


板垣 私、あなたに名乗りましたか?


 板垣が振り返ると、下男はいなくなっている。かわりに鴉の羽が落ちている。板垣が羽を手に取ると、計ったかのように鴉が鳴く。


板垣 …食えない男だ。


 板垣は羽をしまって去る。その後ろ姿を細谷が見送っている。


細谷 お互い様だ。


 赤ちゃんの泣き声がする。


細谷 はいはい、今行くよ。さんさ時雨…。


 細谷は歌いながらいなくなる。回想終了、榎本邸。


萩 さんさ時雨は、仙台の祝い唄なんです。本来は、戦に勝ったときに歌われる。けれど、私は何度も、さんさ時雨を子守歌に、眠っていたような気がするんです。きっと、あの戦は、負けではなかった。少なくとも、あの人にとっては。

榎本 …不器用な男ですね。

萩 本当に。母はとても苦労していましたが、楽しそうでした。私もいつか、わかる日が来るだろうって。今日、お話を聞いて、少しだけ、本当に少しだけですが、母の気持ちがわかったような気がします。

榎本 あなたが私の元へ来たのは、偶然ですか?

萩 どうでしょう…。私の父は、食えない鴉ですから。

榎本 違いない。

萩 少し冷えてきましたね。お部屋に戻りましょうか。

榎本 ええ、そうしましょう。


 榎本は萩の手を貸りて立ち上がる。


榎本 さんさ時雨は、あなたも歌えるんですか?

萩 もちろんです。歌どころか、舞も。

榎本 ぜひ、一度見てみたいものですね。

萩 機会があれば、お見せしますよ。


 萩と榎本は部屋に戻っていく。鴉の鳴き声が響く。夕陽が強くなり、次第に消える。


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鴉の兵法 チヌ @sassa0726

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