見当違い

@meniscus

第1話

わたしは看護師として、病院で毎日忙しく働いている。患者の命を預かる責任感や、時には自分の限界を感じることもあるが、わたしを支えてくれる存在がいた。それが同僚の天才医師、あおいだ。あおいは病院内で「神の手」と呼ばれるほどの卓越した技術を持っている。その手で数えきれない命を救ってきた。彼女が手術室に入ると、まるで空気が変わるような感覚がある。集中力と冷静さ、そして圧倒的な腕前が、一度見ただけでわかるのだ。あおいに出会ってからというもの、わたしは彼女の背中を追いかけるようにして働いてきた。どんなに辛いことがあっても、彼女がいてくれるからこそ乗り越えてこられたのだ。あおいはわたしの憧れであり、尊敬の対象だった。ある日のことだった。いつものように夜勤を終えて、わたしたちは一緒に病院を出た。秋の冷たい風が頬を撫で、街灯がぼんやりと輝く中、あおいは黙り込んでいた。いつもなら軽やかに話しかけてくれるのに、その日は何かが違っていた。

「あおい、どうかしたの?」

わたしは問いかけた。すると、あおいは一瞬ためらった後、静かに口を開いた。

「医師をやめようと思ってるの。」

その言葉は、わたしの頭に稲妻のように響いた。思わず立ち止まり、あおいの顔を見つめた。彼女の目は真剣そのもので、冗談を言っているわけではないことがすぐに分かった。

「どうして?あおい、あなたは患者さんたちにとってかけがえのない存在だよ。それに、わたしだって…」

わたしの声は震えていた。どうしてもやめてほしくない。そんな思いが溢れ出していた。しかし、あおいは目を伏せたままだった。

「わたしも人間なのよ。今まで、あまりにも多くのことを背負いすぎたのかもしれない。」

それ以上何を言うこともできず、わたしたちはいつもの交差点で別れた。頭の中は混乱し、どう説得すればいいのか考えがまとまらなかった。彼女が医師をやめるなんて、わたしには考えられないことだった。そのとき、ふと道端に何かが落ちているのが目に入った。小さな万華鏡だった。古びてはいたが、美しい模様が描かれている。その万華鏡を手に取った瞬間、何かが心に引っかかった。「何これ、懐かしいな…」つぶやきながら、その万華鏡を覗いてみた。その瞬間、目の前に広がる光景が激変した。恐る恐る周りを見回すと、そこには病院の建物が見えたが、すべてが巨大に見えた。地面に近く、世界が一変していたのだ。何が起きたのか分からず、混乱していたが、すぐに自分が一匹の野良猫になっていることに気づいた。「これは…夢?」そんなはずはない眼の前にはいつもの帰り道が広がっている。あの万華鏡を覗いた瞬間、わたしは覗き込んだ先にいた猫に変身してしまったのだ。しばらくの間、どうしていいか分からず途方に暮れていた。数日後、わたしは森の中で怪我をした子鹿を見つけた。足を痛めていて、うまく歩けない様子だった。看護師として、これを見逃すことはできなかった。看護師としての知識を活かし、わたしは子鹿に近づき、応急処置を施すことにした。何とかして痛みを和らげ、傷口をきれいにして包帯の代わりになるものを探した。幸いなことに、近くにハンカチが落ちていて止血し、何とか子鹿を助けることができた。次の日も、そのまた次の日も、わたしは同じように動物たちの命を救うために奔走した。猫から鳥、さらには小さなリスにまで変身して、その度に傷ついた動物たちを助けた。これまでとは違う視点で命に向き合うことで、わたし自身の中に新たな感覚が芽生えていくのを感じた。そんなある日、いつものように動物たちの治療をしていたとき、突然めまいがして眼の前が真っ暗になった。目を覚ますと木陰に横たわっていて隣にはいつか助けた一匹の狼がいた。どうやらわたしは体力の限界で倒れてこの狼に助けられたようだ。しばらくするとその狼は「水を飲むように」と森林の奥にある池に案内してくれた。水を飲もうと池を覗き込むと水面にあおいの瞳のように澄んだ青い目が映った。その瞬間、わたしは気づいた。あおいが背負ってきたもの、そして彼女が抱えてきた苦悩が、ほんの少し理解できた気がしたのだ。あおいは、人間の命を救うことに全力を尽くしてきたが、その度に自分の心を削ってきたのだろう。そんな彼女の痛みを、わたしは今まで理解していなかった。すぐに森をでて、わたしは再び人間の姿に戻った。人間としての体に戻ったとき、わたしはすぐにあおいに会いに行った。病院の休憩室で、あおいは一人でコーヒーを飲んでいた。彼女はわたしの顔を見るなり、微笑んだが、その笑顔には以前のような輝きがなかった。

「やっぱり、辞めるつもりなの?」

わたしは恐る恐る尋ねた。あおいは少し驚いた表情を見せたが、やがて静かに頷いた。

「そう思ってるわ。でも、もう少しだけ考えてみるつもり。」

わたしは彼女の言葉を聞いて、胸の中で何かがはじけるのを感じた。

「あおい、あなたがどれだけの重荷を背負っているか、少しだけ理解できた気がするの。でも、それでも、わたしはあなたと一緒に働きたい。あなたと一緒に、もっとたくさんの命を救いたい。」

わたしの言葉に、あおいは少し驚いたようだったが、やがて柔らかく微笑んだ。

「ありがとう、あなたにそう言ってもらえて嬉しいわ。でも、自分の心に正直になりたいの。」

わたしは彼女の手を取り、力強く握った。

「もし、あなたがどんな決断をしても、わたしはそれを尊重します。でも、どうか一人で悩まないでください。わたしはいつでも、あなたのそばにいますから。」

あおいはわたしの手をしっかりと握り返し、深い息をついた。

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