影の中で

@kanecz

第1話

「このままでいいんだ、どうせ誰にも気にされることはないから」

 友達と賑やかそうに帰っていくクラスメイトをこっそり眺めながら、斎藤衛(さいとうまもる)はそう心のなかで呟いた。物静かな性格の彼にとって、放課後の教室で一人で過ごす時間は何よりも心地よかった。帰っていく彼らがどれほど輝きを放っていても衛にはそれが滑稽に映っていた。彼の目の前には5時間目に使った化学の教科書とノートが乱れなく置かれている。彼の気持ちもまた教科書のように整然としていた。

 道端から晩ご飯の匂いが漂う頃、衛は家に帰ってきた。手洗いと着替えを済ませた彼は真っ先にパソコンへ向かうと、日課であるネットの掲示板を開く。日中に溜め込んだクラスメイトの騒がしい連中の愚痴をここで吐き出すのである。その姿はまるで彼らの光を避けようとするかのようだった。


 ある晴れた朝、衛が教室に入ろうとするとそこにはひとり黙々と勉強をする村上蒼汰(むらかみそうた)の姿があった。彼はクラスの中で1番の人気者で、勉強もスポーツも何でもこなせる人だった。普段より早く登校してきた衛は、普段関わりを持たない蒼汰にわざわざ声をかけることもなくまっすぐ自分の席へと向かった。

しかしそんな衛に蒼汰は笑顔で話しかけてきた。

「おはよう、衛くん、今日もいい天気だね」

「お、おはようございます、村上さん」

あまりに爽やかで心地よい笑顔に戸惑ってしまった衛はぎこちなく返した。蒼汰はまだ話したいのか衛の席がある窓際へゆっくりと歩いた。そしてなにか言おうとした時だった。

「うわっ!」

衛は同時に自分の体になにかが起こっていることを感じた。徐々に体が薄れていく感覚に襲われた衛が気づいた時には、そこに彼の姿はなかった。

「なんだったんだろう今の」

蒼汰は何事もなかったかのように自分の席へと戻っていく。衛はそれと同時に自分も動いていることに気が付き、すべてを理解した。彼は蒼汰の影になってしまったのである。

『村上さんがなにも気にしていないということは、俺は影になったことで存在しない事になったのだろう』

ライトノベルをたまに読んでいた衛は無駄に理解が早い。

『そしてこれに反応がないということは声も村上の方には届かないということだな』

声が届かないと分かると何も考えず蒼汰の名字を呼び捨てしていることに気づいた衛は普段の度胸のなさに悲しくなった。


 度胸のない衛がこんな非常事態に驚いていないのには理由があった。

「おはよーう!」

「ういっすー」

始業時間が近くなると教室に増えていく人。そのほとんどが蒼汰に挨拶をするのだ。

『やはり人気者は違うなぁ』

衛はわくわくした声で言う。彼は人気者の人生を送れることを楽しみにしていたのである。廊下を歩くたびにすれ違うみんなから挨拶をされ、授業の合間は彼の周りに人だかりができ、昼休みには放課後どこで遊ぶか話している。衛は体験するすべてが新しく、人気者である蒼汰の世界に胸を打たれた。


「ただいま」

家に帰ってきた蒼汰の耳には自分の声よりも大きく怒鳴っている声が聞こえた。彼はため息をつきながら重い足取りで家へと入っていく。

「何回言ったら分かるのよ!!」

「うるせえなぁ、誰が稼いだ金だと思ってるんだ」

母と父が言い合っているのだろうか。蒼汰はひとことも発さず階段を登った。そして机に向かって勉強を始めようとしたが、その手は動かず、シャーペンを握ったままぼんやりと窓の外を眺めていることしかできなかった。蒼汰の両親の口論は部屋まで聞こえてきた。どうやら父親の酒癖の悪さとギャンブルのせいで家計が圧迫されているようだ。そのせいで夫婦の仲も悪ければ息子である蒼汰に八つ当たりがくるのだろう、と衛は思った。

 晩ご飯の時間になると蒼汰は階段を降り食卓へと向かった。

「全員揃うのは久しぶりね」

ぼそっと母親が口にした。やはり父親は夜も出歩いていることが多かったのだろう。衛は家族のことをもっと知ろうと真剣に耳を傾けた。しかし、喧嘩続きで冷めきった家族にほとんど会話はなく、あった会話は蒼汰の勉強と将来についてだった。

「しっかり勉強しろよ、お前は〇〇大学に行く男なんだからな」

「そうよ、頑張ってちょうだい」

いかにも威厳のありそうな声で父親が言った言葉に母は優しく同調する。衛には聞いたことないような大学だったがそれほど頭が良い大学なのだろう。

「もちろんだよ」

蒼汰が答えたその声は、普段では考えられないほど弱々しく疲れ切っていた。


 その後、部屋に戻った蒼汰はまた考え事をしていた。彼は教科書の間に隠すようにして挟まっていた冊子を手に取り、それを見つめた。

「どうして、こんなに頑張ってもうまくいかないんだ・・・・・・」

蒼汰の手にはK大学のパンフレットが握られていた。彼は自分の気持ちに蓋をしているようだった。その姿は不安で今にも押しつぶされそうに見えた。

 衛は知らなかった。人気者がこんな事情を抱えていたなんて。強がりであっても、蒼汰のことを何も知らずに卑下していたことを恥じた。

『どうにかこいつを救えないだろうか』

衛はそのことばかり考えるようになった。


 そこから何日か経っても蒼汰の心はどんよりしたままだった。この前気持ちが溢れてしまってまだ立ち直れていないのだろうが、みんなの前では元気にしていた。

 その日の夜のことだった。蒼汰は変わらず机でぼーっとしている。衛が蒼汰を救う方法を考えていた時、少しからだが軽くなるような心地になった。

『まるで影じゃないみたいだ』

そう思って立ち上がろうとしてみた。すると蒼汰の身体はその動きに反応して立ち上がったのである。普段は蒼汰が動く時しか動けなかったが、今は衛の意思で蒼汰を動かしている。

『これだ。』

衛は気づいた。蒼汰が絶望の淵に立たされ全てを否定したくなった時、衛が蒼汰に変わって言動を操ることができるようになる、ということに。そして衛は蒼汰を救うことを固く決意した。


 そう思ってからは早かった。蒼汰の身体を借りている分、衛の気持ちは良くも悪くも楽だったのだ。次の日の夜、衛はまた蒼汰の身体を操り両親の元へと足を進めた。2回目なのにすんなり操るのに成功した衛は少し驚いたが、気持ちを落ち着かせて話した。

「話があるんだ」

声には力がこもっていた。驚いて両親はこちらを見つめた。そして蒼汰(衛)はまず、今までの感謝を伝えた。

「おう、それで何なんだ」

父は相変わらず低く冷たい声で答える。蒼汰は決心して話を始めた。

「家にいると悲しい気持ちになるんだ。毎日のように父さんと母さんは喧嘩して、ご飯がみんなで食べれる日なんてほとんどない。食べれたと思ったら勉強の話しかしない。もううんざりなんだ!」

思わず言いすぎてしまったとハッとして続ける。

「ごめん、言いすぎた。僕はみんなで仲良くいたいだけなんだ。あと、これ」蒼汰は後ろに持っていた冊子を見せ、K大学へ行きたいということを伝えた。蒼汰が話し終わったことを確認すると父親は何も言わずに出て行ってしまったが、蒼汰は心が少し軽くなったように感じた。


 それからは何もなかったが、両親の喧嘩もなくなった。蒼汰の気持ちが軽くなったことで衛は蒼汰を操れなくなったが、蒼汰は前に比べて自分の気持ちに正直になっていた。

「お前面白いじゃねえかよ!」

あるクラスメートが蒼汰を叩きながら言う。前よりもさらにクラス内での居心地が良くなったことを感じた衛は自分のことのように嬉しかった。

 夜家に帰ると、めずらしく母親が帰りを待っていた。父は部屋にいるらしい。

「今までごめんなさい。私も蒼汰のためを思ってお父さんに思いをぶつけていたけど、それも苦痛だったわよね。K大学、頑張りなさい。父さんも本当は応援しているのよ。この前なんて仕事で近くに行った時に大学見学して帰ったらしいわ」

思わぬ告白に蒼汰は驚いた。母は最後に言う。

「父さんも蒼汰の気持ちが分かったみたい。最近はギャンブルもいかずまっすぐ帰ってくるわ。」

蒼汰は声を震わせて言った。

「本当にありがとう」

衛は自分が蒼汰の悩みを解決できたことが誇らしくなった。 


 そこから、蒼汰は落ち込むこともなく、学校中どこにいても黄色い声援が聞こえる生活を続けていた。衛はとても嬉しかったが、我に返ったような気持ちにもなることが増えてきた。

『本当は俺があいつを超人気にしたんだ』

衛は、家族仲の危機などから救ったのは自分であるのに注目や賞賛が蒼汰にしかされないことに気づき始めていた。衛はだんだんとこの生活に耐えられなくなってきたのである。

『影は影のままなんだな』

衛は激しく後悔した。強がることなく自分に素直になっていればこうはならなかったはずだと思った。どんなに努力をしても評価されないのが嫌で元に戻りたかったが、もう衛は自分の元の姿を覚えてはいなかった。衛は絶望の淵に立っていた。


 そんなある日の夜だった。蒼汰は机の上で何か考え事をしている。手が震えているようだった。

「すまん」

「そんなのありかよ!」

帰ってきた時、いきなり父に謝られて腹を立てたことが脳裏から離れない。父は誘惑に負けギャンブルでお金を溶かしてしまい、もう大学へのお金を出せないというのだ。この事実は蒼汰にとっていわば裏切りであった。

「誰も信じれないな」

蒼汰は吐き捨てるように言い、おもむろに歩き出した。蒼汰自身、本当に自分の意思で動いているかはわからなかった。ただ、遠くへ行きたかった。そして川の前まで来たとき、蒼汰は影が自分を黒く覆うのを感じた。


 ある日、両親は蒼汰の部屋で日記を見つけた。そこには影について何か書かれていたがよく読めなかった。それと一緒に、黒い模様が床に浮かび上がっている写真があった。

「気味が悪いわ」

母親はそう言って日記を閉じた。


 蒼汰の死から3ヶ月経っていたが、なぜ人気者の彼が死んだのかは誰にも分からないまま、真実は影と共に消えていった。

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