異形を見下ろす

電楽サロン

異形を見下ろす

 私が目覚めても、この世はまだ断末魔の叫びにあふれていた。

 ネズミ返しの施された避難施設からは、かつて武蔵小杉だった景色を一望できる。通勤に向かう会社員、子供を連れた家族が歩いていた駅前は、赤黒い肉塊がひしめき合っていた。

 遠景で見れば、街自体が巨人の臓器に埋もれているようだった。だが、双眼鏡で肉塊のひとつひとつに目を凝らせば、毛穴のように顔が密集していると分かる。人だ。人が幾千と重なり合って肉塊に見えているのだ。老婆は苦しそうに天を向いて喘いでいる。逃げようとする少年は残った髪を引っ張られてまぶたが吊り上がっている。母親は子供を守ろうと隣の老人の鼻に噛み付いている。毛穴のひとつひとつが意志を持っているような途方もなさに眩暈がする。皮膚が剥がれた者も多かった。永遠の押し合いのせいで擦れ、黄色い脂肪と赤い筋肉でまだらになっていた。

 一階においしいハンバーガー屋があったショッピングモールは、無数の髑髏が珊瑚のように堆積して異形の構造体を構築し、侵食していた。押し合いに負けたものは皆、ここに押し込められているようだ。 

 私は窓辺に置いたスツールに腰掛け、コーヒーをすすった。以前はタワーマンションと呼ばれていたこの場所は、災禍によって避難所となった。元の住人は国からの補助金で、早々に出て行った。災禍が続いて、肉塊を止める術がないと分かった今では、住んでいる人間もほとんどいなくなった。楽観的な人々は、わずかでも住める土地を目指した。実際には、2年もすればハワイすら武蔵小杉と同じ景色になったのだが。

 外は絶えず腐臭が立ち込め、寝ても起きても叫び声が聞こえる。残った人間は、鬱病になるか妄想狂になった。

 時刻は5時前。仕事が始まれば書斎にこもりきりになる。それまでこの景色を見下ろす責任があった。

 私には保科明花という幼馴染がいた。

 保科は絵がうまかった。小学生の時、保科のスケッチブックを見せてもらうのが日課だった。ページをめくるたび、私は息を呑んだ。夕方にまどろむ南国の人々、宇宙空間に建設された銀色の街、石造りの小人の城下町が私の目に飛び込んできた。一ページごとに世界があった。私は保科に憧れていた。自分にはない才能がまぶしかった。だから、隣で保科を応援し続けた。

 絶対、絵をあきらめないで。保科の想像力はどんな画家だって目じゃない。天才だから。高校生になって理系に進もうとする保科を説得して美大を選ばせた。良かった。保科の才能がみんなに認められる。私は何かすごいことをなした気がして心が晴れやかだった。

 保科が美大の入試に落ちたと聞いたのは、お母さんを通してだった。志望校に合格した旨を電話で伝えると、お母さんは「ああそういえば」と保科について言添えた。私はすぐに彼女へLINEを送った。

〈残念だったね。でも、保科なら絶対いけるから。応援してる!!!!!!!〉

 歯の浮いたセリフだった。自分が安全圏にいるから吐けるセリフだ。そう自覚して、自己嫌悪に落ちるまでに何年もかかった。

〈じゃじゃーん! 今日から世界は地獄の屋根裏部屋です!〉

 大学四年の春、自宅にいると、保科からLINEが届いた。

 音信不通になっていた彼女は人づてに大学を諦めたのだと聞いていた。何年も久しぶりで、保科の言葉遣いも記憶と違っていた。私は空恐ろしさを感じながら返信した。

〈屋根裏?〉

〈こちらが、屋根裏に続く入り口です!〉

 写真がアップロードされた。広角に撮った写真には、砂の上に描いた長方形が映っていた。街灯に照らされ、月面のような陰影を作っている。遠くに遊具が映っており、夜の公園だと分かった。私は無意識に息を止めていた。どうして一人で公園にいるのか。地獄の屋根裏部屋とは何か。結び付けたら後戻りができないような気がした。

 数分してスマホが鳴った。ビデオ通話だった。映像には地面が映っていた。保科の足元、隣に長方形があった。保科の足が四角の隣で、どっどっ、と足踏みを始めた。

「保科」

「桐谷さん。私、学校行くのやめちゃった~」

「ごめん......」

「違うの違うの。桐谷さんが私の想像力を褒めてくれたでしょ。だから、あれからずっと、鍛えてたんだ!」

「どういうこと?」

 保科はわざとらしく嘆いてみせてから言った。

「だから、地獄! この入口の下に広がる地獄を想像して拡張したの。桐谷さん、私が描いた街を見て笑ってくれたでしょう。あんな風にもっと世界を創れたらって思ったんだ〜。……聞こえる? 私の耳には今すぐに地上に昇りたい人たちの声が聞こえてくる。桐谷さん、地獄のみんなが地上に行ける方法を見つけたらどうなるかな?」

 保科の両足が激しく地面を踏んでいた。じゃっじゃっと砂利が擦れる音がスピーカーごしに響いた。これからとても怖いことが起こる気がした。

 あの長方形を屋根裏の入り口だとしたら、私たちが立つここ全てが屋根裏部屋になってしまう。

 屋根裏部屋で足音を響かせれば、階下に音が聞こえてしまう。階下にいる者はうるさくて怒りに来るだろう。

 それが人でなくとも......。そんな考えが脳裏をよぎる中、私は動画の音の変化に気づいた。足音は太鼓を叩くような響きに変わっていた。地面の下が空洞であるように、足踏みに合わせてぼわぁん、ぼわぁんと鳴っていた。遠くから風の音が聞こえた。

 私の視線は硬直した。見るしかない。もう逃れられないと思った。地面に描いた四角形は、いつしか豪奢な両開きの扉に変貌していた。画質の悪いカメラ越しに、鬼や茨が巻きついた装飾が見て取れた。

 はじめは扉の裏側を針金で削るような音だったのが、次第に爪でひっかく音に変わっている。保科は足を踏み続けていた。がりがりと引っ掻く音はスピーカーを割るほどに大きくなった。

「ごめんなさい......」

 音声が途絶えた。私の謝罪の前に通話は切れていた。同時に何かが夜空を震わせた。私が窓を開けると、重たい椅子を床に引きずるような音が鳴り響いていた。不気味な響きが空を覆い尽くす。近隣のマンションや建物から続々と人が顔を出した。あとで肉塊を見るまでは、空に響く音が、人の断末魔だと分からなかった。

 武蔵小杉の避難所は、毎秒膨れ上がる肉塊の様子が見やすい。私はその様子をスマホで取り、保科のLINEアカウントに送る。

「あなたの想像はまだ続いている」

 彼女が作り上げた地獄の想像はまだ噴きあがり続けている。私はこれを見届けなければならない。でなければ、誰がこの偉業の作者を覚えている?

 保科からの既読はまだない。

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