三十八万キロメートルの永遠

熒惑星

三十八万キロメートルの永遠

「わたし、月に帰らなくちゃいけないの」

 そう口に出した。口に出してから、物語にするにはロマンチックが足りない、と思った。


 

 もうすっかり身体が馴染んでしまった世界から一歩踏み出す。その時、足を踏み入れたエレベーターが僅かに揺れた気がして、一瞬だけ恐怖心を思い出した。それでも私は二歩目を踏み出し、エレベーターに乗り込む。つるりとした閉めるボタンを指が赤くなるまで強く押した。扉に遮断されて、研究者たちの騒めく声がだんだんと小さくなっていく。これが宇宙エレベーターを使う第一回目なのだから仕方ないことではあるけれど、騒々しくてかなわなかった。しかしそれも、エレベーターが大きく揺れた途端に静かになる。

 そしてエレベーターは、遮られて小さくなった研究者たちの歓声と共に動き出した。

 扉の向こうに消えた世界から目を逸らし後ろを振り向くと、そこには宇宙が広がっていた。幾万の白い点が暗闇に浮かびながらこちらを見ている。宇宙の匂いさえするような気がした。

 扉の向かいの一面には景色が良く見えるよう特殊なガラスが使われているらしい。宇宙エレベーターは観光に用いられることが決定していたため、十数年かけて強度が何百倍もあるガラスを作った、とは出発前の研究者の弁だ。慣れている見た目の方が良いと思ったのか、この宇宙エレベーターは大きい商業施設の中で透明な筒の中を通るエレベーターを長くしたような見た目をしていた。その作戦は成功していて、私の恐怖感もだいぶ薄くなっている。

 ガラスに寄りかかり、下のほうを見ると、まだ住み慣れた星が見えた。しかし、段々と星はその大きさを小さくしている。

 水族館のように仄暗いエレベーターの中で階数表示だけが煌々としている。その数字は、三十八万から徐々に減っていた。

 心臓が肥大化したみたいに痛くて、胸に手を当てなくても鼓動を感じられた。エレベーターの僅かな機械音だけが五月蠅い鼓動を誤魔化してくれている。手持ち無沙汰にポケットを弄ると指先に何かが触れた。それは彼女と撮ったプリクラだった。茶色がかったポニーテールの少女と長い黒髪の少女が映っているそれは、見つからないようにこっそりここまで持ってきたものだった。何も持って帰ってはいけなかったのに。それでも私は証拠が欲しかった。

 折れてしまっている端を真っ直ぐにするようになぞる。この長い旅の暇をつぶすように、私は思い出の世界へと溺れていった。



 それは初々しい夏だった。

 高校生になって初めて訪れた夏に、私はどこか気持ちが浮ついていた。ずっと体が数ミリ浮いているような心地がする。けれどそれは私だけではないようで、終業式があった今日はずっと浮ついた空気が流れている。今日の教室に、地面に足が付いている人はきっと一人もいなかった。

 終業式も大掃除も終わってしまえば、残すは成績表を渡すショートホームルームだけだった。私は自分の出席番号に感謝しながら早々に成績表を貰い、その後はずっと柚希と駄弁っていた。席に座っていた私に柚希が声をかけたことで始まった雑談は永遠に続くようにも思われたけれど、成績表の話や夏休みの話をひとしきりし終わると沈黙が訪れる。なんとなく二人してスマホを触りだした。いつの間にか来ていたメッセージに返信する。丁度その子とのトーク画面を閉じたタイミングで、柚希は何かを思いついたかのように、あ、と声を出した。

「今日、お昼前に終わるよね。放課後デート、行かない?」

 ふざけたような言い方はごく自然で女子高校生らしい誘い方だった。けれどそれにしてはあ、という声がわざとらしく感じられて、ふと柚希のスマホを見ると、ホーム画面が表示されていた。ああ、もう。こんないじらしく誘われたら断るなんてできやしない。

「ばっちりエスコートしてね?」

「もちろん! とびっきりのデートにしちゃうから」

 柚希は顔を輝かせて、笑った。やりたいことを指折り数える柚希の話を聞きながら、私はどうにか飛んで行ってしまいそうな気持ちを繋ぎ止めていた。

 暫くすると、着席を促す先生の声が飛んでくる。その途端、忙しなく席に戻っていくクラスメイトと同じように柚希も、じゃあ、と言って席に戻っていった。全員が席に着くと夏休みを送る上での注意事項や先生の話を聞かされて、それが終わればもう号令だ。

「きをつけ、れい」

 柚希の声が響く。会話の声よりもワントーン明るくなった声は、私のお気に入りだった。

 その声は空気の隙間を上手く通り抜けていき、一番後ろの私の席までブレずに届く。皆が一斉に礼をして、がたがたと教室が騒がしくなった。私は出口に向かう人の波をぬうように柚希の下へ向かった。

「今日のデートプランは決まった?」

「うーん、全然! お腹すいちゃって。先なんか食べに行かない?」

「じゃあそこで一緒にデートプラン決めよっか」

「うん、それがいいかも。やりたいこと多すぎてもう私だけじゃ決められないし」

 そう言うと柚希はリュックを背負って歩き出す。私はその隣に並んで、さっき上げてたのからは絞った? と聞いた。柚希が取り敢えず、と言ったところで彼女のお腹が鳴る。まずは、学校の最寄駅にあるうちの生徒御用達のファミレスに行って柚希のお腹を満たしてあげよう。照れくさそうにする柚希を見て、私はそう思った。

 十数分も雑談をすれば一瞬で、私たちはお昼時に目的地に着いた。案内されて注文を済ませれば、柚希は突然言う。

「そういえば、私、プリクラ撮るのが夢だったんだよね」

 鈍い反応しか返せなかった私に柚希は熱弁し始める。プリクラというものがいかに女子高生にとって重要か。プリクラというものがいかに友情を深めるために有用か。深夜の通信販売みたいに説明するものだから、私は勢いに押されて了承してしまった。私のプリクラデビューはどうやら今らしい。柚希はそれを聞いた瞬間、大袈裟に喜んでいて、それに乗り気でもなかった私の気持ちも少しだけ浮ついた。

「ちょっとまってね、今どこにあるか調べる」

 そう言って柚希はスマートフォンをポケットから取り出す。私に向けられていた視線は、手元のスマホに奪われた。

 数分ほどで柚希はふっと顔を上げた。私と目を合わせた後、駅の近くのゲーセンにあるんだって、徒歩五分らしいよ、とスマートフォンをこちらに向けて地図上のマークを指さす。

 うん、それでいいんじゃない、と言おうとしたところで頼んでいたものが運ばれてきた。眼の前に置かれていくオムライスとハンバーグにしばしの沈黙が訪れる。グラスに入った氷がカランと鳴った。

 ウエイトレスが去ってから私は今度こそ、じゃあ食べ終わったらそこに行こう、と声をかけた。

 会計を済ませてファミレスを出れば、夏の照りつけるような日差しが私たちを刺した。暑いね、なんて言いながらゲームセンターに向かって歩き出す。くだらない話をしていれば、徒歩数分は一瞬だった。

 ゲームセンターに入ると、軽快な音が飛び回っていた。クレーンゲームを横目に進んでいくと、大きな箱が二、三個置かれた場所に着く。初めて見たその箱がどうやらプリクラの機械らしい。箱の前についている画面を二人で覗き込む。指示通りにわけもわからず画面をタップしていると、撮影ブースに移動してね、と画面に表示される。私たちはいそいそと暖簾のようなものをくぐり、箱の中に入った。

 箱の中は一面だけが緑で、その向かいにはまた画面がある。箱の中に漂う無機質な匂いに、自然と呼吸が僅かに浅くなる。あたりを見回していると、突然音声が流れ出した。

「いくよ、さん、に、いち」

 撮影音とともに一瞬箱の中が光で満たされる。もう撮影されてしまったらしい。私たちは慌てて画面を見た。すると明後日の方向を見た私たちが映されていた。そして画面は女の子たちが可愛くポーズしている写真に変わる。私達は見様見真似で同じポーズをした。そんなことを六、七回ほど繰り返すと、画面に落書きスペースに移動してね、と表示された。その通りに移動すると、大きな画面と両脇にペンが置かれたスペースに着いた。

 プリクラといえばこれだよね、と言って柚希はペンを持つ。初めて撮ったプリクラを見てみれば、ポーズが間に合っていなかったり、目をつぶっていたりとそれはもう悲惨なものだった。なんとか修正しようと二人で試行錯誤しながら落書きをしていく。引っかかりがなく変にペンが画面を滑るのが違和感だった。

 画面に映っているのはいつも鏡で見ている顔ではなく、目が異様に大きいロングの女の子。まるで自分じゃないみたいだった。私はそれに、分からなくなったら困るし、一応、と思い、美月と書く。

 そうやっていくつか落書きをして満足した頃に柚希の方を見ると、最後に唯一綺麗に取れていた写真の下の方にBFFと大きく書いていた。


 

 エレベーターの階数表示は三十万まで減っていた。

 私は手に持っていたプリクラをポケットに仕舞う。

 彼女と一緒にこの宇宙エレベーターに乗っていたら、どうだったであろうか。この永遠にも思える時間も一瞬だったのかもしれない。ガラスの外に見える宇宙に目を輝かせて、少し高めの声で私に話しかけるのだろう。万華鏡のような彼女の瞳に映る、美しく輝いているものを私に分け与えるように。どれだけ私がガラスの冷たさに触れながら外を眺めても、素晴らしいものだとは到底思えないのもの全てを、美しいものに変えていくのだ。

 だからもし彼女ならきっと……なんて、こんなことばかり考えるのを数え切れないほど繰り返している。いつだって彼女のことを探してしまう。きっと、この世界がどんなに変わってしまっても、私はささやかなところに彼女を見出し続ける。消えない夏を繰り返すために。

 ガラスの向こう側を見る。やはり私にはただの宇宙にしか見えないけれど、これもあの星空に似ているかもしれないと思うと、僅かな感傷が胸に湧き上がってくる。

 それでも宇宙に囲まれるより、あの星空を見上げていたかったのだ、ずっと。 

 


「永遠だって案外遠くないよね 」

 柚希は満天の星の下、そう言った。

 クラスメイトの女子に誘われて何人かで行った花火大会。花火が終わり皆で人混みから抜けようとした瞬間、柚希は私にこのまま二人で抜けちゃおうよ、と言って手を引いた。どんどん遠ざかっていく皆に声も出せないまま、柚希と握った手だけを頼りに人波に揺られる。

 暫くして段々と周りの景色が見えるようになると、私たちは見たこともない場所にいた。いつの間にか私達の手は離れていて、柚希は道の端の方にいた。私はとりあえず、何やらスマートフォンを操作している柚希の隣に行く。何をしているのか問えば、皆に連絡してる、とスマートフォンから目を離さずに柚希は言った。そういうところはちゃんとしてるんだ、と柚希から目線を外してぼやくと、

「当たり前じゃん」

 と返ってくる。驚いて柚希の方を見ると、もうスマートフォンはしまわれていた。

「皆、なんて?」

「この人混みじゃ仕方ないよねって。解散しちゃっていいよって言っといたから、大丈夫」

 柚希はまた私の手を取って歩き出す。私はされるがままについて行った。

 数分ほど歩くと、この辺りでは珍しく街灯の少ない、暗い場所に着いた。

「ここなら、星もきれいに見えるでしょ」

 そう言って柚希は上を向く。それにつられて上を見るとそこには満天の星が広がっていた。田舎に行ったらもっと綺麗に見えるのかもしれない。けれど、私にはこの空がこの世で一番美しいもののように思えた。幾万の白い輝きが煌めくたびに、私の心の中で何か小爆発のようなものが起こっているような心地だった。こぼれた声に柚希がこちらを向く。目を細めて笑う柚希は星の中でも一等光り輝いていた。

 その笑顔のまま

「永遠だって案外遠くないよね」

 そう、言った。興奮と希望が柚希の瞳の中で輝きを放っている。

 私はきっとその瞬間に暑さというものを忘れてしまった。夏休み真っ只中の今、夜であっても寒いなんてことはないはずなのに、肌に触れる空気が冷たい。体の中まで凍りついて、全て機能しなくなってしまったようだった。

「だって永遠って言ったって、所詮人間の一生でしょ。たった八十年くらいじゃん」

 当たり前のように言う柚希に、私は何も言えなかった。人間じゃないから、私の一生はたった八十年くらいじゃないよって。打ち明ける勇気をいつも探していた。この選択が柚希をいつか傷つけるってずっとわかっているのに。

 見透かしてくれないかな、なんて私は柚希の横顔をずっと見詰めていた。こっちを見たら打ち明けようなんて賭けをして。でもそういうときに限って柚希は振り向かないから、私はずっと言えないままだった。

 だから代わりに

「ごめんね、私たちの永遠は少しばかり遠いみたい」

 と声に出さずに呟いた。

 私は、柚希が書いたBFFの意味を知りたくて、あの後検索したスマートフォンに表示された「best friend forever」という文字を思い出していた。

 

 

 エレベーターの階数表示を見れば、もう二十七万まで来ていた。

 記憶にある全ての季節の中で、彼女と過ごした日々が、夏が、異様に輝きを放っていた。彼女と過ごした春も秋も冬もあるはずなのに、私が思い出すのは夏ばかり。

 きっと夏は氷のようなものだったのに。透明で、光をまっすぐ通すから眩しくて、けれどすぐに溶けてしまうくらい儚いものだったのに。 私が解けなくさせてしまった。

 それでも後悔していないのは、あの日の宣言通り彼女が泣かなかったからかもしれない。

  

 

「わたし、月に帰らなくちゃいけないの」

 二年生の夏休み前最後の日。なんて言い出そうかずっと考えていたけれど、出てきた言葉はありふれたものだった。それでも、唐突な告白に柚希の目には私が宇宙人のように映ったかもしれない。私が宇宙人であることは間違っていないけれど。

 冗談やめてよ、という言葉に私は何も言わず、ただ柚希を見据えていた。私のただならぬ雰囲気に、柚希がかろうじて貼り付けた笑顔も消えていく。

「冗談だよね?」

 そう言った声は震えていたような気がした。私は曖昧に微笑む。それを見て柚希はぶら下がっていた私の腕を取った。柚希が口を開く。けれど言葉が発されることはなく、言葉になりきれなかった音だけが聞こえた。柚希は口を閉ざして、それからまた少しだけ開けて絞り出すように言った。

「いつ」

「……え?」

「いついなくなんの」

 柚希は険しい顔をしていた。けれど目が潤んでいたから、私もつられて鼻の奥が痛んだ。

 誤魔化すように鼻をすすって、私は落ち着きを取り戻し始めた柚希に聞いた。

「自分で言うのもあれだけど、信じるの?」

「信じ切ったわけじゃない、けど。いなくなるのはほんとなんでしょ」

 柚希は自分の言葉にくしゃりと顔を顰める。柚希の心が揺れたその動きに触れて、私の胸には仄暗い喜びが生まれる。でもそれ以上に別れというものが明確な形をなして、私の肺を満たす。それはずんと身体を重くした。柚希は深呼吸を一つした後、私を真っ直ぐ見つめた。そして少し強気の笑顔を浮かべながら言った。

「私、ぜったい泣かないから」


  

 視界の端に三万という数字が映った。

 もうここまで来てしまった。心の準備なんてものはなかった。きっとしなくてよかった。

 あの日、あの星においてきてしまったものを取りに行く。あの日始めた物語はまだ終わってないから。あの日かけた魔法はまだ解けていないから。



 月に帰ることを打ち明けたあの日。柚希はやり残したことを全部やろう、と言って、二人にとって二度目の、そして最後の夏休みの計画を立て始めた。

 行き慣れたファミレスのメニュー制覇。

 手持ち花火をやる。

 制服で出かける。

 見たかった映画を見る。

 海に行く。

 勉強会。

 柚希の数学のノートに箇条書きにされていった私のやりたいこと。ノートをこんなことに使っているけれど、柚希は学年で一位二位を争うくらい頭がいいのだから腹が立つ。柚希はそれを見て満足そうに頷いて、全部やろう、と言った。

 そこからは怒涛の日々だった。

 宿題をしながら私のやりたいことをこなしていく。きっと、週に三回は柚希と会っていた。

 そうしてやりたいことをやっていくと、夏休み最終日には残り二つになっていた。

 そして今日、私は制服を着て柚希と映画館に来ていた。かぐや姫を元にした映画。ずっと見てみたかった。かぐや姫がどんな気持ちだったのか、知りたかったから。

 そんな映画を見てしまえば泣いてしまうような気がしたけれど、途中で鼻を啜る音が隣から聞こえてきて、なんだかおかしくなってしまって泣かなかった。映画館を出て明るい場所で見た柚希の目元はほんのりと赤らんでいたけれど、気づかれてなさそうだと思っていそうなのを見て、見て見ぬふりをしてあげることにした。

 休憩にと寄ったカフェで私はとうとう質問責めにあった。今までなかったことが不思議なくらいだったけど、まさか今このタイミングだとは思っていなくて、言葉がつっかえた。

「ねえ、どうして月に帰るの」

「え? えっと、もともと決まってたから」

「なんでこんな中途半端な時に」

「留学みたいなものだったから。これでも狭き門をくぐってきたんだよ?」

「……もっといれないの」

「決められてたことだから」

 柚希は何か言いたそうに黙った。きっともっと言いたいことがあって、責めたいこともあるのだろう。それを抑え込むように苦しそうな表情をしていて、私のせいだと思った。それに奥深くにしまっておいた感情が零れそうになって、柚希の視線に、私自身に、念を押すように私は言った。

「決められてたこと、だから」

 それからはくだらないことばかりを話した。そうすればあっという間に時間は過ぎていき、辺りはもうすっかり暗くなっていた。そろそろ帰ろう、とカフェを出る。

 駅に向かう道すがら、私は柚希に声をかけた。

「ありがとう」

 ずっと言いたかった言葉だった。

「これからの放課後、使い果たした気分」

 そう言って私は笑った。今までで一番うまく笑えている気がする。柚希はこちらを見た後、何も言わずに目を逸らした。そこからは無言の時間が続いた。手持ち無沙汰で上を見上げれば、満月が美しく輝いていた。あまりにも大きな質量を抱え込んでいるから、落ちてくるんじゃないかと思ってしまう。月光はただ私たちの道を照らしていた。かぐや姫の迎えはちょうどこんな日に来たのだろう。だからきっと、帰りのロケットはもうすぐそばまで来ている。

 そう考えていると、この二つの踏切に差し掛かった。これを渡りきったらお別れをしなくちゃいけない。私は僅かに躊躇してしまった足を無理やり動かした。

 一つ目の踏切を渡り終わったところで柚希はいきなり私の手を取った。驚いて柚希の方を向くと私の手を引いて

「踊ろう」

 と言った。

 月夜の静寂の中、うろ覚えの社交ダンスを踊る。懐かしいね、なんて言いあっているそれは、一年前にやったきりでもはや形を成していなかった。

 ただ二人で酔いしれるまで回るだけ。月明りに浮かされ、何度もアンコールを繰り返す。涙はこの舞台にはふさわしくないから、とうに投げ捨ててしまった。

「美月」

「なに?」

「美月」

「うん」

「みつき、みつき、みつき」

 柚希は少しずつ声を大きくして私の名前を呼ぶ。踊りながら、呼ぶ。喉が詰まってしまったような少し苦し気な声で。

「絶対忘れない。忘れてなんかやらない」

 柚希はいつかのような強気な笑みで言い放った。声は震えていて、私と重ねた手も震えているのに。柚希はしきりに瞬きをして、時折上を向く。私もつられて上を向いて、星空の美しさにまたこみ上げてくるものがあるから、下を向いた。

「いつか私の方から会いに行ってやるんだから」

 エンドロールは流れない。それならきっと柚希から会いに来るという未来もあるのだろう。

 私は柚希のほうを見て、その様子に思わず微笑みながら言った。

「まてないかも」

 いつに間にか社交ダンスは止まっていた。

 静かさだけが私たちの間を通り過ぎていった。永遠のようにも思えたこの静寂は、遮断機の音に砕かれてしまう。

 柚希は私の手をしっかりと握って別れの言葉を口にした。

「またね」

「うん、またね」

 円やかで温かな体躯を抱きしめた。その身体を搔き抱きたい衝動に駆られて、けれどできなかった。確かに私と柚希はここにいた。この質量がいとおしくて、かなしかった。鼓動なんて聞こえはしないし、腕に上手く力は入らないけれど、私の心は確かに柚希の近くにあった。少し体を引くと、柚希は察したように体を離そうとする。私は少し離れた頬に手を添えて小ぶりな唇にそっと口付けを落とした。

 解けない魔法を一つ、私は柚希にかけた。

「何十年先の未来でもこのことを忘れないように」

 私が不格好に笑うと、柚希は自分の火照った頬に触れながら潤んだ瞳で

「好きになったの、絶対私の方が先だから!」

 と叫んだ。そのままするりと私の腕の中から抜け出して、タイミングよく上がった遮断機の向こう側に消えてしまう。

 積み上げた覚悟がほんの少しの綻びを許して、涙が一つ零れた。もう一つ零れて、その後覆うように一つまた一つと零れて、溢れた。けれど不思議と嗚咽を上げることはなくて、伸ばせなかった手に、胸が痛くなることもなかった。

 柚希が私の心臓まで間違えて持っていってしまったんだと思った。

 

 

 エレベーターの階数表示は暫く一万から変わっていない。こういうとき階数表示が一万ごとだと不便だなと思う。

 月明りはもう遠く、地球の欠片が見えた。彼女に会えるまで、もう少しだった。

 もう何年ぶりだろうか。彼女に会うのは。両手では数えきれないところまで来てしまっていた。

 この十数年間で、ロケットのチケットを買って地球に行こうと考えたことは数知れない。けれど、お金持ちでも何でもない私では借金をして買うことすら現実的ではなかった。だから地球と共同でこの宇宙エレベーターが作られると発表された時、自分でも驚くほどの大きな声が出た。なぜ宇宙エレベーターが開発されることになったのか明らかにはされていないが、ネットではかぐや姫が大量発生したからではないかと騒がれていた。かぐや姫のように地球に行った者は皆、もう一度地球に行きたがっていた。もちろん、私も含めて。

 試乗者を公募することになってからは、宇宙エレベーターに乗るために死に物狂いで努力した。そして、その開発に彼女が関わっていると知った時は、言葉を失った。

 この宇宙エレベーターが完成したらずっと地球に行きやすくなるだろう。いっそもう一度地球で暮らすのもありかもしれない。そんな未来のことを夢想する。彼女との未来を想像できるまで、近くに来た。

 予行練習はもう十分した。今ならもう少しうまく踊れるだろう。だから、あの夏を何度でも繰り返すんだ。夢になって、星になって、永遠になるまで。

 永遠だって案外遠くないね。私たちの永遠は少しばかり遠いけど、確かにここにあったから。

 彼女の手と私の手が離されたことなんてなかったんだ、あの日からずっと。解けない魔法がかけられていたから。

 

 

「ねぇ、私とおどらない?」

 体育の社交ダンスの授業。二人組を作ってください、なんて先生は入学したばかり私たちに無理難題を押し付けた。コミュニケーション能力も無ければ、知り合いもいない。困り果てていた時だった。

 少し詰まりながらかけられた声に私が振り向くと、そこには短いポニーテールに僅かにつり目の活発そうな女の子がこちらに手を差し伸べていた。

「え? あ、はい」

「……あれ? 社交ダンスってどうやって誘うんだっけ? うーん、映画の知識だからうろ覚えだ……」

「……んふふ、授業だから普通で大丈夫だと思うよ」

「だよね! って、えっと、いきなりでびっくりさせちゃったよね。前から綺麗だなって思ってて、仲良くしたいなって。だからこれも何かの機会ってやつだし、そう。親友、なっちゃわない?」

 親友なっちゃわない、なんて。素直過ぎる真っ直ぐさを、好きだなと思った。私はその言葉に頷いて親友、なっちゃおっかと返した。柚希はそれに弾けるように笑って、やばい最高の親友見つけちゃったかも、と言った。そこから始まった自己紹介は弾み、一瞬授業中だと忘れてしまうほどだった。慌てて私たちは先生に言われたことをやり始めた。

 高校二年生の夏には帰らなくてはいけないことが決まっていたから、割り切って関わっていこうと思っていたのに、この子とはそれができない予感がしていた。不思議と途切れない会話。呼吸すら一つになってしまったみたいで、運命なんてものを信じてみたくなった。自然と笑みを浮かべていて、胸は温かな高鳴りを覚えていた。柚希の周りは滲んでいて、柚希にしか焦点が合っていないみたいだった。

 きっと私はこの子のことを好きになる。

 一目惚れに近い感覚だった。ダンスを踊るために重ねた手は柔らかく、心地良かった。緊張している私に柚希は緊張するね、と笑って。私はそれにまた頷いて、音楽に合わせて踊る。

 きっと、このとき解けない魔法をかけられたのだ。


 

 ガタンと大きく揺れる。ふらついた体勢を直して、私は扉を見据えた。ゆっくりと開いていく扉に、私はようやく呼吸ができた気がした。眩い光がエレベーター内に入り込み、私は目を細めた。懐かしい香りがする。

 聞こえてくる地球の他の研究者たちの声を無視して、彼女を探す。どうやら前の方にはベテランの研究者達が集まっているらしい。研究者たちを掻き分けていくと、少し後ろの方にポニーテールをした女性を見つけた。

 間違いない。

 どれだけ時が経っても間違えるわけない。

 何かを言いたそうに口を開閉している彼女のもとへ真っ直ぐ向かう。その温かな手を取って、私はあの頃からずいぶんと大人びた彼女に声を掛けた。

「ねえ柚希、私と踊らない?」

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