第27話

 真実を知ったビビアーナはふらふらと当てどなくただ歩いた。

 ボロボロの靴はいつしか脱げ、それでも裸足でひたすらに歩いた。

 渇きが体中を襲っても、馬車の窓からちらりと見える乗るふくよかな血色の良い貴族の子供を見て小さな牙がうずいても、もう血を欲することはなくなった。

 その小さな体から血がどんどんと抜けていくのと同じくして漆黒になっていたその髪は徐々に色を失い、白銀となった。


【デニーリオの言いなりになる前の母様も、家臣や民たちが誉めそやすように理知的で完璧な女王ではなかった。衰えゆく美貌に陰りを覚え、怪しげな美容の薬師を呼び寄せてベラドンナの実を使い瞳を大きく見せようとするなど、俗物的な一面もあった。それでも、それでも、彼女は娘を愛し、民を想う優しい女性であった。あんな恐ろしい惨劇に手を貸すことなど、我のためでなければ、絶対にありえなかったのだ。】


 自分のために、母を怪物に変えてしまった。

 ビビアーナは懺悔の気持ちで身がちぎれそうだった。

 けれど、思い起こせばその唇に…舌に残っているのは…ぐったりした若い娘たちから搾り取られたまだ温かい生き血…それは例えようもなく甘かった。


 罪、自分の罪、慚愧の念に押しつぶされそうになっていても、その記憶に残るのはあの甘さ。


【我はなんと罪深いのだ。この体はもはや人のものとはいえぬ、人に擬態し、その血を…命を簒奪し、しかし、その血がなければ生きられぬ、まがい物の命、いや、はたして今の我に命があると言えるのか。命なく、生きていると言えるのか、命なきものによる生の簒奪、我の存在は生に対する冒とくなのだ】


 ふらふらと、ふらふらと、歩き続け、ビビアーナはいつの間にか港へと着いていた。

 そこにあったぼろぼろの木箱、罪の意識に苛まれながらもその箱からそこはかとなく漂う血の匂いに吸い寄せられるようにして、箱の中に入り込んでしまった。

 そして、意識を失ったビビアーナは大海原を幾日も、幾日も漂い続け、小さな島国へとたどり着いていた。


 箱を開けた船夫は、小さく痩せこけた少女の固い体を見つけ、苦々しい声を発した。

「何だ、いつの間に入り込んだんだ、この薄ぎたねぇガキ、舶来の葡萄酒として高値で売りつけようとしてたのに、変な匂いがついちまってそうだな。おっちぬなら地べたでしろってんだ。っったくよぉ、」


 その冷たさから死んでいると判断されたビビアーナは、少し前の災害で死んでしまった村人たちが放置されていたのっぱらに一緒に捨て置かれた。

 そして、死人たちも葬られ誰もいなくなったその野原に、ビビアーナは立ち続けた。

 炎から蘇ったデニーリオが陽の光でまた焼けた、その伝聞を歩きながら耳にしていたからだ。


「燃えろ、燃えろ、燃えろ、こんな体など」


 ビビアーナの姿は静かな炎に包まれた。

 けれど、決して燃え尽きることはなかった。

 血を吸わなくなっていたその体は、完全なヴァンパイアとはいえないものとなっていたのかもしれない。

 それでもビビアーナはそこにじっと立ち続けた。

 幾星霜もの間ずっと、すっかり記憶をなくしてしまうまで。

 野原はその間焼け野原になり、その後公園へとその姿を変えたが、不思議なことにビビアーナに気づくものは誰一人たりともいなかった。

 あの少年が、炎の中に飛び込んでそこから引きずり出すまでは。


 これがビビアーナが銀虎の血を吸って取り戻した押しつぶされそうなほどの慚愧の念の思い、重い記憶…


「我はなぜのんきにも全てを忘れてしもうておったのだ。あの血を奪われた娘たちが行くことの叶わなかった学校へのうのうと通い、おしゃれなどにうつつを抜かし、ゆるやかな日々に身を任せておった…我は何故燃え尽きてしまわなかったのだ…何故、何故…」


 ビビアーナは嘆き苦しむが、その瞳は乾き、涙の一滴も浮かばない。

 ヴァンパイアは涙を流すことができないのだ。

 そして、ビビアーナを苦しめた出来事はもう一つある。


【我はなぜ、血の匂いに抗えなかった。何故十鬼の助けた命をまた簒奪した。あまつさえ十鬼の血まで啜るとは…】


 銀虎の血を奪ってしまったこと…そして…


【あぁあぁ、乾く、体が乾いて堪らない、甘い、甘い、あの甘い血の雫…】


 どんなに慚愧の念を抱いても、かつてのあの時のように銀虎の血を甘いと思い、それが舌に残っている、その血を欲してしまう自分のことが許せなかった。


「ゔう…ゔぁぁぁぁ…」


 隣室から夜更けに響くビビアーナのうめき声、銀虎は眠れずにごろりと寝返りを打つ。


【あーあれか、ビビは吸血鬼、ヴァンパイアってヤツだったか…そーだよな、陽の光で燃えるっーったらやっぱアレだよな、アレしかないよな…雪だるまってセンも考えないこともなかったんだけどな、それだとただ溶けるだけだしな…】


 自分の身に起きた衝撃的な出来事、出会いから幾たびもビビアーナに感じる違和感を、不思議な出来事を目の当たりにしても考えないようにしていたどこかはぐらかしていた銀虎も、流石にビビアーナが超常的な存在、ヴァンパイアであるということを認めざるをえなかった。

 オカルトチャンネルが好きでも、都市伝説に興味を抱いていても、銀虎はそれらを信じ込んでいるわけではなかった。

 どこか面白がって観察していたのだ。一介の傍観者として。


 出会いからして普通ではなかったビビアーナについて、もうはぐらかしようがないほどの核心的な出来事が自分のみに降りかかるまでずっとそれを突き止めようとしてこなかったのは、それと直面するのがこわかったからなのかもしれない。


 いつも仏頂面で、でもうれしい出来事があると唇の端だけがうっすらと上に上がる。

 この風変りな少女と一緒にいる日々が当たり前のようになっていたから。

 その真実とできるだけ対峙したくないと思ってしまっていたのかもしれない。

 けれど、もう、目を逸らすことはできないのだ。


「そっかー、アイツ記憶喪失のオタク女じゃなかったんだな…そっかーヴァンパイアかぁ…」


 ビビアーナの辛そうなうめき声を背に、銀虎はまたごろりと寝返りを打つ。


「まぁ、どうにかしなきゃいけねぇよなぁ…まぁ俺のできる範囲で…」


 銀虎はがばっとベッドから起き上がり、ばたばたと隣にある両親の寝室に入り、うなされているビビアーナの丸い額にぱちりとデコピンをした。


「おい、ビビ、ビビアーナ三世!お前はヴァンパイアってヤツだったんだな!」

 その抑え目ではあるが夜の静けさには少し大きな声にびくりとしたビビアーナは、のそのそとダブルベッドから起き上がり、銀虎の前で初めて深々と頭を下げた。


「すまぬ、すまぬ、決して十鬼、そなたを愚弄する、だますつもりはなかった。言い訳に聞こえてしまうかもしれぬが、我は自分のことについて頭からすっかり抜け落ちていたのだ。我はヴァンパイア、罪の子、ここからただちにたちさ」


 銀虎はそんなビビアーナの額をまたぱちりとデコピンした。


「出てけなんて一言も言ってないだろ、俺はこうみえて血の気が多いんだ。鉄分もいっぺぇ取ってるしな、チーズとか、あーほうれん草とかな、あれっぽっちの血、毎日だってくれてやる。ただし、約束しろ!もう動物は襲うな!吸うのは俺の血だけにしろ、いいか?わかったか?」

「いや、しかし、それでは…」

「ぶつぶつ言うな!わかったらハイだ!いいなっ!」

「は、はい…」

「よーし!あっ、そうだ、これからはレバーも毎日食わないとな!」


 いつもとは違う銀虎の迫力に、ビビアーナは思わずこくりと頷いていた。


 夜更けの銀虎の部屋、瘡蓋の上からそれを噛みちぎり、そこからあふれた血をビビアーナはひとなめする。

 それが二人の日課となった。

 もっと吸ってもいい。血は余っている。そう銀虎が言ってもビビアーナはそれ以上は求めない。


 たったひとなめ、それだけでも銀虎の頭の奥は痺れ、甘く鈍い感覚に体が支配されそうになる。それをぐっとこらえ、銀虎は足を踏ん張った。

【これはただの吸血行為、ビビにとっては食事だ、何でもない、何でもない、俺は苺だ。コンデンスミルクだ】

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