第25話

 日陰の自宅アパートからの帰り道、ビビアーナは一言も口を利かなかった。

 いつもなら風に吹かれながらどうでもいいような質問を繰り返しているのにそれもなく、華奢で小柄な体躯に似合わずやけに力強くがっしりと背中にしがみついてくる腕や指もどことなく弱弱しく感じられた。


【日陰の話にショック…ってことはねぇよな。平然と聞いてたし、帰り際にまだギャン泣きしてた日陰に「日陰よ、そちはどうあがいても別のものにはなれぬ、そちはそちなのだ。それが世の理だ」とかとどめを刺すようなこと言ってたしな…じゃあやっぱアレか、土井にいないもの扱いされたのがショックだったとか…あんな奴でも存在してねぇ空気圧会とかはやっぱな…】


 あれこれ思いを巡らせる銀虎であったが、それを直接ビビアーナにぶつけることはできなかった。


「きゃうーん…きゃううう…」

 いつもより帰りが遅くなったせいか、ゴンスケは寂し気に尻尾を振りながら玄関で二人を出迎える。

 碧に様子を見に来て欲しいと頼もうとしたが、患者の子供からマイコプラズマ肺炎を移されてしまい、自宅で静養中でそれも無理だった。


「げほほ、ごめんねー銀ちゃん…気を付けてたつもりだったんだけどさぁ、顔面に思いっきり咳がかかっちゃったんだよね。ワクチンがまだないってのにこんなことになってアオちゃんとんだ体たらくだよ。ゴンスケにも謝っといて」


 銀虎は様子を見に行くと応えたが、「いいよいいよ、移しちゃったら不味いからね」と頑として聞かないので、帰り際にコンビニで調達したレトルトのおかゆといちごヨーグルトをドアノブにぶら下げておいた。

 コンビニの中にもビビアーナは一応ついてきたが、銀虎がいちごヨーグルトやいちごアイスを見せても全くの無反応だった。

 いくらビビアーナの食が細いと言えど、庭に野放図に生えていたフユイチゴも底を突きはじめ、試しにと旅行中の両親が大量に送ってきたハウス栽培の苺を碧と一緒に作ったジャム(作ったといってもなべに苺とぎょっとするほどの大量の砂糖と共にただ煮ただけだが)を出してみたら、少しづつ口にするようになったので他のものでも興味を持つと思ったのだが…


【あーあ、何考えてんのか、さっぱりわかんねぇ、日陰のことといい女心って謎っつーかさっぱり理解できねぇな、下手に気にすんな!とか声を掛けても何がじゃ!とかキレたりもしそうだしな…まぁ明日になったらケロっとしてるかも知んねぇし】


 銀虎は取り合えず、放っておくことにした。

 悪徳変態教師土井の放言、そんなことにいつまでも囚われるようなビビアーナではないだろう。そう軽く考えてしまったのだ。

 いつもの誰にでも言いたい放題のビビアーナを見ていれば、そうなっても仕方のないことだった。


 ビビアーナは足にすり寄ってくるゴンスケには一応反応し、いつものようにそのもしゃもしゃの毛を撫でようとしたのか手を出したが、躊躇したようにその手を止めて引っ込めるとそのまま無言で二回への階段へとゆっくりと歩を進める。

 銀虎もまた無言でその背中を見送りリビングの電気をつけたが、その時明るくなった窓をめがけて何かがドーンと勢いよくぶつかった。


「うわ、何だ何だ、あの塊!」

 驚いた銀虎は大きな声を上げ、流石のビビアーナも驚いたのかくるりと踵を返しリビングへ戻ってきた。

「ビビ、俺、外見て来るわ!」

 声を掛けて玄関から出ようとすると、ビビアーナはやはり何も言わず心なしか血の抜けたような顔色で後を静かについてきた。


 窓ガラスに当たったものの正体は…一羽の白い鳩だった。

 いわゆるバードストライクといったものだったらしい。


「何で…こんな夜に…」


 鳩はぐったりとして血を流してはいたが、ぴくぴくと動き、虫の息ではあるがその命はまだ繋がっていた。


「あー、アオちゃん…には今は聞けねぇし、取り合えず傷口を消毒して…」


 銀虎は慌てながらも鳩をそろそろと持ち上げ、家の中へと運んだ。


「家の明かりが灯ったから、陽の光と間違えて飛び込んだのか…そこには透明のびいどろが道を阻んでおったというのに…それなのにおぬしは光を求めて飛び込んだのか、その命と引き換えになるやもしれぬのに…」


 久しぶりに口を開いたビビアーナの言葉、しかし静かな夜風に吹き飛ばされそうなその微かな声は、鳩を抱えて慌ててドアを開ける銀虎の耳には届かなかった。


 リビングで鳩に消毒して包帯を巻き、クッションの上に寝かせている間にビビアーナの姿は消えていた。

 両親の寝室に戻ってしまったのだろう。


「お前…何で一匹、いや一羽だっけ…でこんな夜に飛んでたんだよ。俺が電気をつけたから朝になったと勘違いしちまったのか?まぁ、失敗は誰にでもある…でも、俺の寝覚めがわりぃから、なんとか元気になってくれよな…」

 銀虎もぐったりした鳩に声を掛けると、シャワーも浴びずに自分の部屋に戻ってごろりとベッドに横になった。

 今日はいろいろあってへとへとだ。目を閉じたら泥のように眠れそうだと思ったのに、頭が変に冴えてしまってなかなか眠れない。

 ごろりごろりとベッドの上で転がり、天井のクジラのようなしみを見つめているうちにすっかり夜中になってしまった。


【あー眠れねぇ、ちょっと水飲みたくなってきたな、そういえば俺鳩を家にいれたときに玄関の鍵閉めたっけか。ビビアーナ…には期待できねぇな…まぁこの辺で泥棒とか聞いたことねぇけど、一応確認してみっか…】


 銀虎は戸締りのことが気になりだしてしまい、一階へ降りることにした。

 すると、真っ暗な、誰もいないはずのリビングから何やらガタガタと物音がする。


【ゴンスケ…は寝る前に二階に上げたろ、アイツ自分で下まで降りられねぇし…じゃ、やっぱどろぼ…】


 ドキドキする胸の動悸を治めようとふーっと大きく息を吐いた後、下駄箱の横の木刀をもってリビングにそろそろと入った銀虎、しかし、そこにいたのは泥棒ではなく銀虎にとってもっと衝撃的な光景が広がっていた。


 ほの明るい月明かり、その光よりらんらんと光る赤い瞳、その上の二つ目の光彩、そして髪は漆黒の夜の闇より昏く、背中には蝙蝠のような翼のある口を真っ赤に染めた少女、その手にはもはや命を完全に失った首をだらりと下げた鳩だったものの残骸、その周りを飛び散る赤と白のまだらの羽根…


 髪の色も、目の色も違う…

 けれどその顔は、確かにビビアーナその人だった。


「おい、おい、ビビアーナ、ビビ、お前!一体何やってんだよ!」


 慌てて駆け寄ってその肩を掴もうとしたが、ものすごい力で跳ね返される。

 何度もそれを繰り返しているうちに、銀虎は柱から飛び出たハンガー用の釘に唇を引っかけて出血してしまった。

 その血を手の甲で拭いながら、銀虎はなおもビビアーナに向かっていき、その手から鳩を引きはがそうとしようとした。

 すると、ビビアーナの瞳は一層赤みを増し深紅になり、かくっと顎を上げて、鳩をその手から放した。


「あっ、あっ、こんなことに…何で…何で…」


 そして赤く染まったその鳩に震える手を伸ばした銀虎に覆いかぶさるようにして、その血があふれ出る唇に自分の唇を合わせてじゅっ、じゅっっとその血を啜った。

 痛い、痛いはずなのにじんじんと…痺れるような甘い感覚が、頭の奥から指先から、銀虎の体を支配し、指一本も動かせない。

 まるで何かに囚われて、虜にされてしまったように。

 どれほどの時間が経ったのだろう、たった数秒のような、とてつもない長い時間のような…

 唇が離れた後、ビビアーナの髪、そして瞳は元の白銀と菫と金色に戻っていた。


「甘い、何故こんなにも甘いのじゃ…」


 涙をこぼさずに、けれど静かに泣いているその小さな背中に、銀虎は何も声を掛けることはできなかった。

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