第18話

 駐車場から昇降口までの短い道のりを、銀虎とビビアーナは並んで歩かない。

 歩幅の問題もあるのか、ビビアーナは銀虎の少し後ろをちょこちょことその影に隠れるようについてゆく。

 赤く燃ゆる夕陽が水平線に溶け込んでゆく狭間、その光と街灯に照らされたビビアーナの後ろには影がないことに銀虎は気づかない。


 水曜日、いよいよ超常現象研究クラブ新始動の当日、一年一組は重苦しいムードに包まれていた。


 副担任の土井の嫌がらせ爆弾がさく裂したのだ。

 土井はわずか六名(聴講生であるビビアーナを入れると七名だが)しか残っていない生徒たちに、あからさまに格差をつける。

 まぁ、お気に入りの小鹿まゆ、そして優等生の榊以外には、ある意味均等にキツく当たると言った方が正しいのだが。


「まゆちゃーん、そこの席寒くない?教室は隙間風が入るしねぇ、風邪でもひいちゃったら大変だ。席はこーんなに空いているんだから、好きなところに座っていいんだよぉうーほら、教卓の真ん前の席なんかいいんじゃないぃぃ、ここならヒーターの温風がよく当たって陽だまりのようだよぉぉ」

「うわー、まゆちゃんの横顔は彫刻のようだねぇ、私が美術教師だったらモデルに頼みたいくらいだよぉ」

 こんな度を越した発言に、まゆは苦笑いだけで何も返さない。


 元々土井はまゆの勤務するクラブバタフライの常連客だった。

 そもそもご当地アイドルのピーナッツシスターズのファンだった土井は、ゆりかママ目当てで通っていたのだが、まゆが入店するとさっさと乗り換えた。

 定時制高校の教員という自らの職業を隠し、「いやー、しがない地方役人でして、公務員ってのは安定職ではあるけどまぁ薄給でね、でもここに通うために切り詰めているんだよ」などと吹聴していたため、まゆは磯浜高校定時制に入学するまで、そのことを知らなかった。

 しかし、入学当日に昇降口で待ち構え、「昼に移るんでしょぉー毎日通っちゃう」などといった不穏な発言に身震いしゆりかママに相談すると、「そう、うちはお客様を選ばないけれど、流石に教え子のいる店に教師、それも副担任が日参するというのは倫理的にどうかと思うわ…本来なら、自分から気づいてくれるものだと思うのだけれどね…公民なら倫理も担当しているんでしょうに…」とため息をつき、知り合い伝手に権田教頭に相談してくれた。


「土井君、定時制高校に通う生徒たちは、皆それぞれの環境で頑張っているんだ。その上で夜に勉強しているんだぞ、我々教諭はその生活を応援する立場なのだ。邪魔してはいけない!わきまえなさい!」

 そうキツく叱られて、「店に通うのが私なりの応援で…」などとごにょごにょ言い訳しつつもしょぼくれて、『二度とクラブバタフライにはいきません、待ち伏せもしません』と署名入りの念書を書かされた土井は、その日の授業ではまゆにも厳しい態度を取った。

「こら、小鹿!!何を居眠りしているんだ。ここは勉強をしにくる場だ!昼から酒なんか飲んでるからだ!シャキッとしろ」

 授業のある日は客からのシャンパンも断り、ソフトドリンクしか飲んでいないまゆにとって完全な濡れ衣だったが、自分に対する気持ちの悪い猫なで声がなくなり、ある意味ホッとしていた。

 しかし、店に通えなくなった代わりに教室がクラブ気分になってしまったのか、ほとぼりが冷めたと思った土井の妙な態度はその後一層ひどくなった。

 待ち伏せなどはされなくなったため、まゆは半ばあきらめモードだったが、日陰は癇に障るのか、土井が猫なで声を出し、「日陰さんも思うよね、まゆちゃんはかわいいねぇ、他の女子とは月とスッポンだ」などと言われると、イライラした顔で鉛筆の尻をガリガリと噛んでいる。


 土井は毎度毎度授業が始まると同時にチョークでぎいいいと黒板を鳴らした後、差し棒へと持ち替え、その先で丸く大きなブツブツ鼻をツンツンしながら教室中を嘗めるような目で見まわし、獲物を見定める。


 そして、この日の最初のターゲットになったのが、日陰まどいだった。


「えー、今日は人格の尊厳について学ぶ、あーカントは道徳法則に、」

 カツン、カツンッ、いきなり机を差し棒で叩かれビクッとした日陰に怒号が襲い掛かる。

「んつ、なんだ日陰、そのミミズの這ったような字は!ページの端には、あぁぁ、何だこの落書きは、詩でも書いているのか、何だ何だ、私にとっての自由とは、ん、読めないな、このとち狂ったような絵もなんだ、全く、何だこのノートは、授業を受ける気がないのか!こんなゴミノートを生産して真面目に教えている私が可哀想だと思わないのか!ゴミが、ゴミめがぁ!」

 カツンカツン、怒号、その繰り返し。

「かえして、返して、読まないで…」

 差し棒の音にビクビクしながら取り上げられたノートをか細い声で取り返そうとする日陰だったが、土井は素直に返さずにゴミ箱に捨てようとする素振りをしたが、流石にそれをやってしまうとまた教頭に告げ口されてしまうと思いなおしたのか、何故かそれを銀虎の横の席にちょこんと座るビビアーナの机にぽいっと放った。

「日陰、おさめるとよい」

 すたすたと席を立ち、日陰にノートを差し出したビビアーナであったが、日陰は俯いたままでぽんと机に置かれたノートを、そのまま鞄にしまってしまった。


 そして、次のターゲットになったのは銀虎だった。

 カツンカツン、ガッガッ、音にビクビクしない銀虎にいら立っているのか、先ほどの日陰の時よりもその叩き音は激しさを増す。

「おい、十鬼銀虎!昔両親がこの辺で天下取った気になったからって、調子乗るんじゃないぞ、人格ってのはな、個々に独立したものなんだ。お前はお前、両親のことなんか関係ないんだ」

 矛盾している、人格が独立していると思っているならば、銀虎に親についてとやかく言うのはそもそも筋違いなのだが、土井はとうとうと嫌味を重ねる。

「全く、あの青池まどかだって黙ってりゃ美人だったんだ。でもあんな鬼なんて名前の男に引っかかって十七で子供を産むなんてな、そのままでいりゃあそれなりの主婦だったものを、中退なんて」

 高校入学以来、土井は銀虎の両親についてこの手の嫌味をちょくちょく言ってくる。

 ひょっとして知り合いなのかと思い、母親からのビデオ通話が来たとき聞いてみたが、「どいーそんな人知らないわね、何アンタなんかされたの?シメてやろうか」首を傾げた後、握りこぶしを上げていた。

 銀虎の両親は、十代のころ宵待町付近で知らぬものはいないというある意味有名人であったと碧から聞いていたので、まぁ同年代の土井が噂を聞いていても不思議ではないのだが。

 嫌味は面倒くさくはあるのだが、中学の時の一件で教師に何の期待も持っておらず、小学生のころから悪口は聞きなれている銀虎にとってこれくらいスルーするのは大したことではなかった。

 決して気分がいいとはいえないため、公民の授業は無になることに徹してはいるが。


 そして、銀虎へのひとしきりの嫌味が終わり、流石に国際問題になるのかと思ったのかビビアーナの前は素通りし、花田の前で口角の下がった口をがばっと開け薄茶けた歯をむき出しにして何か声を発しようとしたその時に、リンゴンと授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。


「あーやだやだ、今日は何言われるのかと思って冷や汗が出たわ。全く土井センったらサービスで冬のコートクリーニングしろとか言ってくるし、あたしはパートでそんな権限ないっつーの、まぁあってもあんな奴にサービスなんて御免ですけどねっ!まったく倫理観のかけらもない男ね、大学で倫理の何を学んだのかしら!」

 今日は被害にあっていない花田も、日ごろの恨みつらみでプンスカしている。

 日陰は未だ、机の上で俯いてぷるぷると小刻みに震えている。

 折角の超常現象研究クラブの始動の日が台無しだ。


 いくら勢いで始めてしまったこの同好会とはいえ、この調子では会長の名がすたる。

 まゆは何とかしてこのムードを変えようと奮起する。


「ねーねーみんな、こんなこと言っても気分は晴れないだろうけどさ、もうキモドイセンのことは頭から追っ払っちゃお!どうせアイツ授業終ったらさっさと帰るしさ!うちらが学校に残るときはウザいやつはもういない!折角もらった一時間がもったいないっ!」


 クラブバタフライに実質上の出禁になった土井は、これまたかつてのピーナッツシスターズのメンバーである元サブリーダーのさやっちが市街地で経営する焼き肉店に通い詰めているらしい、『毎日一輪の薔薇を持ってくるの。断っても断っても、キモいわー』とゆりかママ宛のメッセージが着ていたそうだ。

 なので、今日も直行しているはずだ。


「まぁそうね、一時間しかないんですもの、あんなヤツのこと忘れちゃいましょ」

「そうですぞ、限られた時間でじっくりとしかし素早く校内を探求いたしましょう。」

「ふむ、気に入らぬなら次は横っ面を張り倒してやればよい」

「ビビ、それは校内暴力になっちまうから…」


 花田と甘粕、そしてビビアーナと銀虎?は呼応してくれたが、日陰は未だに押し黙っている。

 ひょっとして泣いているのでは…心配になったまゆはハンカチ片手に日陰の席に行った。

「日陰さん、あの…大丈夫?ノート大変だったね。気にしないでね、あんなヤツそのうち罰があたるって、だからさ」


 涙が流れていたらそっとハンカチを差し出そう、そう思って覗きこんだ日陰の表情にまゆは思わず後退ってしまった。

 日陰まどいの瞳は、少しも濡れてなどいなかった。

 彼女は確かに震えていた、けれどその顔は笑っていた。

 まるで三日月のような目と口で。



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