第6話

「あーなんかアスファルトがシャリっとする感じすんな…滑んねぇように気を付けねぇと」


 まだ日も昇りきらぬ早朝、ほぼ片付けられてはいたが端に少しの雪が残った歩道を十鬼は自転車で疾走していた。

 ビビアーナに食べさせるためのスイーツを、コンビニまで買いに行こうとしていたのだ。

 十鬼の住む千花県宵待町は関東の東の果てに位置している。海辺沿いの隣町は夏は避暑に訪れる小金持ちやサーファーでそれなりに賑わうが、観光地と呼べるような施設は何もない。

 バブル期に隣町に来るサーファー目当てに建てられたという温泉が売りのホテルも、サーフィンに来ていた当時の人気アイドルの目に留まり、ドラマの撮影地として一時話題を集め、彼のファンが大勢押し寄せたこともあったようなのだが、十鬼が生れたころにはすっかり錆びれ果て、勢いに任せて改装しまくってしまったツケか廃業後に取り壊す金もないのか廃墟となり果てており、見るも無残な状態だ。

 その無残さに目をつけられて深夜のホラードラマのロケが計画されたこともあったのだが、むき出しの鉄骨につまづいて主演女優が怪我をしてしまい、頓挫してしまった。

 ここ、宵待町は、はっきり言って何の名物もありはしない田舎、いやド田舎と言っていいほどだ。

 進学で出て行った若者はほぼ戻ってこず、減り行く人口の中で年々中高年、そして老人の比重が増している。

 昔は百歳越えの老人に地元出身の陶芸家がデザインした純金のライオンがついた耳かきをプレゼントして新聞でも取り上げたことがあったようなのだがだが、税収とのバランスがどうにも取れなくなったのか、今では100円ショップの方がもっといい出来なのではと思えるようなシンプル過ぎる湯飲みが希望者に贈られるのみだ。

 今や新聞にも見向きもされない、全国的に珍しくもなんともないちょっとした過疎の町だ。

 そんなわけで、十鬼の家の近くにも徒歩圏内のコンビニなどあろうはずもない。

 文房具と菓子、たばこを扱う駄菓子屋らしき店はあるが、店の店主である80過ぎの婆さんの気分で開けるため、大雪の後である今日などはまず開いてはいないだろう。

 そんなわけで十鬼は誰もいない海辺へと行く道をママチャリで駆け抜けていったのだが、目の前に思わぬ邪魔が入ってしまった。


「おい、おい、どけよ。どけったら、轢いちまうぞ!おいっ」


 歩道を占拠するように横並びでよたよたと歩く三羽の烏、限界まで十鬼のママチャリが近づいて来てものそりのそり悠々と歩みを止めない。


「あーっ、もうっ」


 ぎゅっとハンドルを切って足を踏ん張って自転車を止めた十鬼の頭上すれすれを、「ガァガァ」と馬鹿にするように大きな鳴き声を上げて、烏たちはかすめるようにして上空へと舞い上がり電線へ止まり、ぽとりとフンを落としてきた。

「うわっ、きったねぇ、頭に思いっきしくっつくところだったじぁねぇかよっ!」


 そんな十鬼のいらだち紛れの怒声にも三匹の烏はどこ吹く風で、「ガァガァ」と地面を眺めている。


「あー、あの嘴が細ぇ烏か…アイツら知能犯だからな…俺の邪魔したのもぜってぇワザとだろ…」


 宵待町ではお馴染みの光景、電線から烏が細い嘴にくわえた木の実をぽとりと落とし車によって轢かれて割れたその中身を食い尽くす。

 十鬼も幼いときからその光景を何度も目にしていた。


 知能犯、まさにその通り。

 先ほどのように自転車が自分たちのギリギリまで近づいてもちっとも慌てた様相を見せないのは、彼らのことを人間が避けると確信しているからだ。

 人間をすっかりナメてかかっているのだ。

 何故なら猛スピードの車が走る危険な道路での彼らの行動は機敏であろうから、いや、猛スピードで暴走するような車などめったに現れず、割られた木の実を悠然と取りに行く彼らの前で車を停車してしまうような住民ぞろいの宵待町の烏にはそれは当たらないのかもしれない。

 彼らは、はじめから危険には近づかない、危機回避能力のプロフェッショナルと言った方が正しいのかもしれない。

 そう、炎の中に自ら飛び込み未知の世界へと足を踏み入れてしまったこの少年、十鬼と違って。


 さて、先ほどの烏のトラウマか、それとも自転車を止める際に踏ん張って変な方向にねじってしまった右足首のじりじりとした痛みのせいか、十鬼はすっかりスピードを落としゆっくりゆっくりとペダルを踏み、後二キロに迫ったコンビニへと向かう。

 ニッコリマート限定の苺パフェプリンや、苺クリームチョコレート、大粒の苺が挟まったフルーツサンド、十鬼は苺三昧の買い物を自宅から持参したいつのものかわからないようなよれよれのビニール袋に詰め込み、家へと戻る五キロの道のりをまたゆっくりとペダルをこぎ始めた。

 ビビアーヌは十鬼の差し出したフユイチゴ自体には口をつけず、ただ周りについたコンデンスミルクを嘗めとっただけだ。

 それなのにそのフユイチゴを嘗める様子がどうにも印象が強すぎて、思わずイチゴ味のものばかりをかごに入れてしまったのだ。


【まぁ苺がきれぇだったらあんな風に嘗めたりしねぇよな、匂いだってすんだろうし、多少はコンデンスミルクに味も混じってるだろうしよ…だから、的外れってわけでもねぇよな】


 ビビアーナ、あの少女がフユイチゴを嘗める様子が気にかかって、目に焼き付いてしまって消えずに、思わず買ってしまった。

 そんなことを認めるのが何だか気恥ずかしくて、十鬼は自分自身を納得させるかのようにその理由をつらつらと考える。

 行きがけに烏と出会った歩道を再度通りかかると、車に轢かれたのだろうかひしゃげた小さなスパムの缶詰とその周りにぱらぱらと落ちる黒い羽を見つけた。

 その羽根は何やら赤く濡れているようだ。


【あの烏のうちのどれかかな、しかしいくら車でも缶詰は無理だろうよ。いや、でもよくあの細ぇ嘴で缶詰なんかくわえられたな、そんな芸当ができるくせに缶詰無理だとは気づかねぇもんかね、それにスパムだったら潰さねぇでも、引っ張れば…くわえられんのに引っ張るまでは無理なんかな、嘴にプルトップひっかけてたんかな】


 あのあの羽根はどう見ても烏のものだった。

 そして、それを濡らす赤の烏の血であろう。

 それに気づいていながらも、十鬼は烏のことを考えまいとしていた。

 確かに宵待町のドライバーは安全過ぎるほどの安全運転の紅葉マークの高齢者が多い、それでもそれがゆえに、時には逆走してしまいパトロール中の白バイ隊員に怒られるような危険ドライバーも出てはくるし、唐突に現れては空いた道路でレースをするような連中だっていることはいるのだ。


「油断しやがって、平和ボケかよ…」


 ぽつりとそれだけつぶやいて、十鬼はハンドルにぶら下げたビニール袋をぎゅっと握りしめ、心なしか重く感じる足を動かし始める。

 血に濡れた羽根だけを残し、烏はどこへ消えたのか。

 軽いけがのみで済み、仲間と共に飛び去って行ったのか。

 もしくは轢いてしまったしまった運転手が、まずいと思ってどこかへと連れ去ってしまったのか。そして人目のつかないところに捨ててしまったのだろうか。

 仲間はそれを見捨ててさっさと逃げてしまったのか。

 考えまいとしているというのに、ぐるぐるぐるぐると頭に浮かんでくるそんな疑問をぶんぶんと頭を振って十鬼はなんとか追い払う。

 考えても仕方のないことなのだ。

 もしもあの時烏の予想通り自分が自転車を止めなければ、自分も烏を轢いてしまったかもしれない。

 その時に自分がどうしただろうか、それは十鬼自身にもわからない問いかけだった。

 家に連れ帰って烏のけがの手当てをきちんとしてやって、怪我が治ってから放してやる。

 動物好きの優しい人ならば、どんな動物にも優劣をつけずにそう答えるのかもしれない。

 けれど、十鬼には自分が咄嗟にそこまでするような人間だとは、到底思えなかった。

 自分にそんな優しさがあるだなんて、思ったことがただの一度もなかったからだ。


 では何故あの少女、ビビアーナを炎の中に飛び込んでまで助け出そうとし、彼女のために五キロ先のコンビニまで食べられるかどうかもわからないスイーツを買いにはるばるやって来たのか。

 それは見捨てておけない、か弱きものを助けてやろうなどといった男気あふるる義侠心からなどではないのだ。

 小心者の自分が、もしあの炎に包まれた少女を見捨てて翌日テレビや新聞で焼死体発見などといったニュースを見たら何もしなかったという罪悪感でとても耐えられそうもないからだ。

 例え罪に問われることが無くとも、やれるだけはやった。その結果どうなろうとも自分は悪くないのだという理屈のスタンプを胸に押しておきたい。

 見て見ぬふりをしてそのせいで誰かが命を落としたり、事件に巻き込まれたなどといういわれなき罪悪感を抱えたくない。

 自分がこうして動くのは、決してビビアーナのための優しさなどからなどではない。

 十鬼はそう思っていたのだ。


 烏にしても、ビビアーナにしても、優しさのせいで心を砕き自分が胸を痛めているだなんて、とてもではないが認めたくなどはなかったのだ。


 十鬼は優しさが、博愛の精神と呼ばれるものが嫌いだった。








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