第3話

 三日もあんな所にいたというのか…少年は絶句した。

 少年の家から徒歩一分半、緑が丘公園は公園とは名ばかりの周りを柵で囲まれただけのただの野原だ。

 少年が幼いころは周りをぐるりとタイヤで囲み、真ん中には大きなプリンのような形の滑り台、ぐるぐる棒などの遊具もあり、プリンタイヤ公園などと呼ばれていたが、プリン滑り台に逆から登り転倒して脳震盪を起こした子供や、ぐるぐる棒の隙間に指をねじ込んで突き指した中学生など事故が相次ぎ、保護者からの苦情で遊具はすべて撤去され、今や幼児連れの母親も近づかず、夜中に野良猫がギャーミギャーと盛っているだけの場所になっている。

 あんな場所にこの少女が三日間もただ突っ立っていたというのか?

 にわかには信じられないような話だ。

 けれど、少女の言葉には妙な真実味があって、否定することを許さぬような雰囲気にあふれていた。


 何故そんなことを…少年は再び口を開こうとしたが…


 ぐーきゅるるるる…


 派手な腹の音が全てを掻き消した。


【あーそういえば、俺昨日から何も食ってねぇ…ここで盛大に腹を鳴らすとか、すげぇカッコ悪ぃなぁ…】

 少女を背負って帰ってきてから、少年は空腹を紛らわそうとテーブルの上に置きっぱなしにしていたコーラを一気飲みした。

 しかし、あの暑さですっかりコーラはぬるくなり、その炭酸は一気に空腹感を奪い去ってしまった。

【ぬるぬるコーラアホほど腹がふくれちまって、あの後なんも食えなくなっちまったんだよな。しかもコーラ風味のゲップがとまんなくなるしよ。その上喉が詰まっちまって咳込んでたらテーブルの脚に小指ぶつけて、めちゃくちゃ痛くなって床に転がってたらそのまま寝ちまって、風呂にも入れなかったんだよな。そんで起きたらこの寒さで鼻水ずるずるでうやがるし、アレには参ったぜ、はぁ、全くコイツって厄介ごとばかり運んでくるよな】


 ぬるいコーラをわざわざ選んであえて口にしたのは自分自身なのだが、少年には昨日からの自分に降りかかるちょっとした厄災の数々がすべてこの白銀の髪の少女のせいにさえ思えてくる。

 文句の一つや二つでも言いたくなってきたが、それより何よりこの腹の疼きが耐えがたかった。


「あー、冷蔵庫に何かあったかな、カップ焼きそばまだあるかと思ってたらどこ見ても見つかんねぇしよ。この吹雪じゃ買い出しにも行けねーし」


 ぶつぶつと独り言ちながら冷蔵庫の中を見回したが、そこには賞味期限ぎりぎりの魚肉ソーセージが一本ころりと転がっているだけだった。


「うわ、ギョニソだけかよ。うー、これっぽっちで二人分か…」


 心の中で悪態をつきつつも、少年は少女の分も計算していた。


「おい、お前、今これしかねーんだ。ほら、半分やる」


 しかし、差し出されたそのピンク色を、少女は受け取ろうとはしなかった。


「おい、お前だって昨日から何も食ってねーんだろ。他に何もねーんだから、文句言わず、食えよ」


 しかし、少女はふるふると首を振る。


「我は肉は口にせぬ」


【うわー面倒くせぇ!アレか、アレ、菜食主義、セレブにはやりとかいうあのヴィーガンってやつかよ!そういえば、コイツガリガリだもんな。肉食わねーからそんななんだよ】


「あー、そうかよ、それなら俺がこれ全部食っちまうぞ!いいんだな」


 少年は冷えた魚肉ソーセージを見せつけるようにがぶがぶと一気食いしまたゲホゲホとむせたが、少女はその様子を見ても眉ひとつ動かさない。

 しかし…

 きゅるるるる…

 その微かな音は少年の耳をかすめた。


「おい、お前だって腹鳴らして、減ってんじゃねーかよ。肉っつったって魚だぞ、食えばよかったじやねーかよ」


 差し出された魚肉ソーセージを拒否した少女になのか、意固地になって味もきちんと感じられないままに一気食いどころかこの家にあった唯一の食糧をほぼ丸のみしてしまった自分になのか、少年は何にかわからないもやもやとした苛立ちを感じていたが、もう食べてしまった魚肉ソーセージは二度と戻っては来ない。


「あー、もう、仕方ねぇなぁ、他に何かないかまた探してみっから」


 かといって何か食べるもののあてがあるわけでもない。

 ぐるぐるとダイニングを右往左往した後、何の気なしに勝手口の扉を開けてみると、少年の目に積もった雪の中からひょっこり顔を出した小さな赤い実が飛び込んできた。

 フユイチゴ、母親が親戚からもらってきて苗を植えたが、元々西日本に自生していてこの地域では育ちにくいと聞いてから、その後すっかりほったらかしにしていて少年もその存在を忘れていたが、いつの間にか実をつけていたらしい。


「おい、ヴィーガンとやらでもこれなら食えるだろ。これはな、確かフユイチゴってヤツだ。俺は食ったことねーけど、母ちゃんが親戚んちで食ってうめーうめーって言ってたからまぁイケるだろ。まぁウチのかーちゃん甘けりゃうまいのバカ舌だけどな」


 吹雪の中に手を突っ込み、むしり取ったその赤い果実を、やはり少女は受け取ろうとしない。少年の掌に雑に握りしめられているというのが不服なのだろうか?


「あー、もう、こんなんじゃ食えませんってか、イっチイチ面倒くせぇヤツだなぁ」


 雪まみれの赤くかじかんだ指をブルブルと振り、少年はがらんとした冷蔵庫の中をもう一度見回してみる。

 すると、野菜のかけらすらも入っていない野菜室の中に鈴をつけた牛のマーク付きのチューブを発見した。


「おっ、コンデンスミルクじゃんかよ、まー見た目ちげぇけど、フユイチゴも苺の一種だろ、女って甘いもんが好きだかんな、これでもかけてサービスしてやっか」


 少年は食器棚から母親が商店街のポイントカードをためてもらった箱入りの花柄の模様入りの皿をだし、そこにフユイチゴをばさりと置いてその上からコンデンスミルクをその赤を掻き消すようにびちゃびちゃばしゃばしゃと豪快にかけた。


「ほら、食えよっ。いつまでも腹きゅーきゅー鳴らされてたらこっちが気分悪ぃんだよ」


 それでも少女は受け取らなかったが、少年の差し出した皿に鼻を近づけるとくんくんと匂いを嗅ぎ始めた。


「何やら甘やかな香りがするようじゃが…」

「そりゃそうだろ、コンデンスミルクドバドバかけたかんな、やっぱお前も甘ぇモンが好きなんだな、ホレ、食えよ。裏に勝手に生えてたヤツだし、遠慮はいらねぇぞ」


 照れ隠しなのか、少女から顔をそらし片手で鼻をこすっている少年のもう一方の手から差し出されている皿にやはり少女は手を出さず、しげしげとそれを眺めているだけだ。


「おい、これも気に入らねぇのかよ!別に変なもんじゃねぇし、もうこれしか食いモンねぇんだぞ、いいから騙されたと思って一口でも食ってみろよ!」

「これを…食せと?」


 小首をかしげてきょとんとする少女に、少年は無性にイライラしてきた。

 雪に突っ込んだ指の冷えが伝わってか陶器の皿も異様に冷たく感じてくる。


「そうだよ!」

「これを如何様にして、我に食せというのだ」

「あぁもう!食い方が分からねぇとかお前は赤ちゃんかよ!いいから食えっ!」


 腹立ちまぎれに指でつまんだコンデンスミルクまみれのフユイチゴを少女の口の前に突き出すと、少女はそれに小さく薄い唇を寄せてこれまた小さな赤い舌を出し、ちろちろとフユイチゴの周りを嘗め、コンデンスミルクだけを嘗めとった。


「おいっ!実は食わねぇのかよっ!」


 少女は何も答えない。

 雪の中折角取ったフユイチゴを一口も食べず、けれどコンデンスミルクは口にする。

 少年は悔しいのか嬉しいのか何だか訳の分からない感情になりつつも、甲斐甲斐しく少女の口元にそれを運び続ける。

 少女は少年の指先にあるその赤い実を覆い隠すほどにまとわれた白濁したぬめり気のある甘い液体をちろちろと赤く小さな舌を薄い唇から出し入れしながら嘗めとり続けた。

 そして最後の一つを嘗め終えた後、少女は赤くかじかみ寒さでぷるぷると小刻みに震えていた少年の指先にふぅーっと息を吹きかけてきた。


「うわっ、何すんだ。冷てぇ」


 ひやりとした吐息に思わず皿から手をはなすと、今度はしっかりとその皿を受け止めた少女はまたもや小首をかしげる。


「冷えておるからな、温めようとしたのじゃが」

「この天気だからな!息も冷てぇんだろっ、もうびっくりさせんなよ」

「ふむ、驚かせたか」


 好意でしたことを怒られても言い返しもせず、しかし謝ることもせず、少女は満腹になったのか満足そうな小さな吐息を吐いてそのままバッタリと後ろに倒れこんだ。


「お、おい、お前っ、どうしたんだよ!」


 床につく寸前にギリギリで受け止めると、少女は一度閉じた瞼をカッと開き、口を開く。


「我が名はビビアーナ、ビビアーナ三世なり」


 抑揚のない声、瞳孔が消え青く澄んでいるが光のないむき出しの白目がぎょろりと動き、少女はまた意識を失った。

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