第2話

 異常気象そのものといった茹だるような苛烈な暑さの翌日は、数十年に一度のレベルの強烈な大寒波がやって来て、真っ白で分厚い吹雪のカーテンの中に太陽はその姿を隠した。


 前日に公園から連れて来た少女は、今は不在の両親の寝室で横になっているはずだ。

 エアコンのリモコンがサイドテーブルにあることは伝えているから、寒ければ勝手に自分でスイッチを入れるだろう。

 少年は自分をそう納得させ、今のソファーにごろりと寝転んで天井を眺める。

 灯油ストーブをガンガンにつけても背筋や首筋がスッと凍るような冷え冷えとしたこの空気、あの少女が寒いかもしれない、それは気になるといえば気になる。

 けれど、寝室に入って行って少女と鉢合わせになることに、得体のしれない恐怖のようなものを感じていた。


【俺、何でアイツのこと家になんか連れ帰ってきちまったんだろう。あんな…あんな…炎の中にいても火傷一つしていねぇ、薄気味悪ぃヤツなんか…でも、でもなんか、ほっとけねぇって思っちまったんだよな。ほっといたら何しでかすかわかんねぇし】


 飛び込んでも全く熱さを感じない、それどころかどこか冷たさを感じるようなあの炎、あれははたして現実だったのだろうか。

 起き抜けに付けたテレビのニュース番組でもスマホのニュースでも、今日の記録的な大寒波のことは伝えていても昨日の異常な暑さについては、どこも伝えてはいない。


【局地的な、ここいらだけの異常気象だったのか?一体あれはなんだったんだ?ひょっとして、俺めちゃくちゃ長ぇ夢でも見てたんじゃねぇだろうか…それとも…妄想!?ヤベぇ、これめちゃめちゃヤベぇヤツじゃん。あんな意味不明な現実感がねぇのに妙にリアルな妄想とか…俺ヤベエじゃんか】


 少年はふいに昨日の自分の記憶に自信が持てなくなってきた。

 いや、はたしてそんな昨日が実際にあったのかどうかすらも。

 ひょっとしたら自分は突発的に何かの記憶障害にでも侵されてしまったのではないだろうか。

 少年の胸をさっきまでとは違う不安が、黒く覆ってゆく。


【寝室、行って確かめた方がいいんかな、アイツのことは俺以外だれも知らねぇし、誰もいなけりゃいねぇで面倒ごとがなくなってスッキリするってもんだ。まぁ俺がヤベェ妄想野郎だっつー問題は新たに発生しちまうが…あー、どっちがマシなんだよ、これって…】


 炎に包まれた謎の少女を拾ってしまったことと、それがすべて自分の妄想だったという二者択一、はたから見ればどう考えても後者の方がマシのように思える案件だが、少年はそんなことすら判断できないほどすっかり動揺しきってしまっていたのだ。


【あーどうしよう、どうすべ…】


 見に行けばすべてがはっきりする。真実は白日の下にさらされる。

 そう思っているはずなのに、体の芯がぞわぞわするような気味の悪い感覚に襲われて少年はソファーから起き上がることができず、シーンとした静寂の中頭を掻きむしりながらごろごろとソファーの上を右に左に転がっていた。


「そなた、何をしておる。先ほどからごろりごろりと転がって頭を掻いて、頭も体も痒いのか、全身に蚤でも巣くっておるのか」


 静寂を切り裂くその声、あどけなく、けれど甘さのない冬の空気のようにピリリとしてどこか乾いた声の持ち主は…

 あの白銀の髪の少女だった。


「蚤って!俺そんな野良猫みてぇに薄汚くねぇから!そりゃ昨日はあれこれあって風呂入んねぇでそのまんま寝ちまったけど…妙に暑かったからそりゃ汗はちょびっと、つーかかなりかいてただろうけどさ、でも、でも、別にくさかなんかねぇぞ!汚くねぇぞ、いつもは毎晩ちゃんと風呂入って頭もしっかりごしごし洗ってるしな!それに今からシャワーだって浴びようとしてたとこだしな!」


 ほんのりと恐怖を感じて踏み入れることが出来なかった両親の寝室、その恐ろしさの根源であったはずの少女が目の前に現れたというのに、少年は彼女の発した蚤という単語に脊髄反射のように反応し、ソファーからがばっと飛び起きてわーわーと続けざまに反論の言葉を投げ続けた。

 少年がこのような言葉に過剰反応してしまうのには事情があるのだが、少女はそのことについてまだ知る由もない。


「野良猫、野良猫は薄汚いのか?」


 少女は少年の自分がいかに清潔であるかという説明には興味を示さず、別の言葉に関心を示す。


「あぁ、蚤っつったらやっぱ野良猫だろ、アイツら道端やら公園やらうろうろして風呂もはいってねぇしな」

「公園…」

「昨日お前がいたところだろ」

「ほう、ならば我も薄汚いのだな、公園とやらにおったのだから」


 昨日はじっくりと眺めることのなかった少女の瞳、菫色の光彩の中の黒い瞳孔の上をザクリと切り裂くように真っすぐ流れる猫のように細長く金色に光るもう一つの瞳孔がぎろりとこちらを睨んだような気がした。


「だ、誰も、お前が薄汚ねぇなんてこたぁ、そんなことぁ一言も言ってねぇだろうがよ…」

 少年はその光に気圧され、じりじりと後ろに下がりさっき立ち上がったばかりのソファーに躓き、後ろ向きにどでんとひっくり返った。


「またごろりと転がったか、そなたは転がりまわるのがどうにも好きで仕方がないのだな」


 得体のしれない、何から何まで謎めいた目の前のこの少女、怖れを抱いても仕方のないはずの存在、けれどその言葉はことごとくどこかズレていて、少年は何やら拍子抜けしたような気分になってきた。

【コイツ、何か変わってるつーか、ピントがずれてるつーか、どっか抜けてるよな、目とかもさっきはちょいビビっちまったっーか、驚いちまったけど、あれってただのカラコンじゃね?見た目外人っぽいけど、アレだな、コイツオタクだな!アニオタだな!妙に日本語うめぇのにしゃべり方変だしよ!どうせなんかのアニメで言葉を覚えてその影響であんな喋り方なんだろ、そっか、そう考えっとあの炎とかARだったんだな!妙にあちぃのもどうせコイツの仕業だったんだろ!うわー、そう思うとなんかバカバカしくなってきたな、あっ、やっぱコイツ動画配信者だったんじゃねーかな!燃えてる人間を見たら人は助けるかもとかそういう企画でもやってたんじゃ、ちっ、それはそれでマジぃぞ、必死で助けに入っちまったんとか全世界に配信されて笑いモンとかありえねぇ。今頃グループの連中が面白おかしく編集してんじゃねぇだろうな!ヒーロー気取りのピエロ、投げ銭運んでくるカモ扱いでよぉ…】


 少年の頭の中をぐるぐると嫌な予感が駆け巡る。


「おいお前!ふざけんな!そこの自称名無しのお前!動画配信とか俺はぜってぇに許可しねぇからな!俺の許可なしに勝手に配信したらお前はこの国の法に触れるぞ!どうだ!わかったか!参ったか!参ったなら今すぐ昨日の動画を消せ!全部、全部だぞっ!俺をあんま舐めくさんなっ!」


 自分に指をさして威勢よく、いや虚勢を張ってまくし立てる少年に少女は怪訝そうな表情を浮かべる。


「どうが、はいしん??なんじゃそれは、我はそんなもの知らぬ」

「はぁ!?すっとぼけんじゃねぇ、昨日のお前が包まれてた火のことだよ!あんなちっとも熱くねぇ炎なんざありえねぇだろ、あれARだろ、あープロジェクションマッピングだなっ、なんか俺にわかんねぇようにお前の周りにぐるっと透明なスクリーン的なヤツとかあってそこにうまいこと立体的に映し出してたんだろ?海外にはそういう最新の技術みてぇなモンありそうだもんな、あの暑さもそうだろ、業務用のなんか強力なストーブやらすげぇ燃える薪やら俺の見えねぇとこでガンガン焚いてよ、あーもう、すっかり引っかかっちまった。見た目もお前子供みてぇにみえっけど、今朝のニュースでも外国人の子供の行方不明者なんざやってなかったしな!実はそう見えて俺より年上とか!ロリ成人とかそういう属性のアレだろーがぁー!」


 もう後には引けないとまくし立て続ける少年に、少女の怪訝そうな表情はますますぽかんとし始めた。


「えいあーる、ぷろじぇ、ろり、そなたは一体何のことを言っておるのだ、我にはそなたの言葉がちぃとも理解が出来ぬ」


 その表情はどうにも嘘をついているようには見えず、今度は少年の方が口をあんぐり開けて返す言葉を失っていた。


「あぁ、しかし、あの炎は熱うはなかったのか、まだ時間が足りぬようだな…幾時の時間を使えば我はあの遠い陽の光で燃え尽きることが出来るのであろうか」


 さっきまでのどこか気の抜けた表情から一転して、曇った少女の表情に少年は思わず言葉を絞りだした。


「幾時って…陽の光ってお前あの公園にどれくらいいたんだよ…」

「ふむ、三つの陽が昇るまでだな」

「三日も…」



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