ビビアーナ三世は燃え尽きたい
くーくー
第1話
消えてしまいたいのだと彼女は言った。
一塵の灰も残さず燃え尽きたいのだと。
つい昨日木枯らしが吹き冬の始まりを告げたばかりだと言うのに、その日はとてつもなく暑かった。いや、異常気象も異常気象、暑いを通り越してもはや熱いと言った方が正しいのだと思えるくらいに。
小春日和なんてそんな生易しいものじゃない、真夏のような、蜃気楼を見そうなくらい茹だるように焦げそうなくらい熱い、熱い、その日。
少年は静かに燃える人影を見た。
陽炎のようにゆらゆら揺れる白く白くどこまでも白くしかして透き通るほどに透明にも見えるその炎に見とれ、じっと佇む。それは少年の心を侵食するように穏やかにゆっくりと近づいて離れを繰り返す。
あの炎に包まれたい、この身をゆだねたいとさえ思えるほどに、魅入られてしまう。
あぁなんと清廉で無垢でけれど壮絶な…いや、しかし、あの芯にあるのは、あれは人ではないのか!
何で自分はただじっとここに立っているのだ。
目の前でぱちんと手を叩かれたような気分になって、少年はハッとした。
【兎に角、あー兎に角ってなんだ うさぎに角なんてありえねぇだろ、角の生えたうさぎなんて想像も…って目の前のアレのがありえねぇだろ、何で俺ってばこんな時にめっちゃどうでもいいことばっか頭に浮かんじまうんだよ、あぁ。なんだ、なんだ、何だっけ。そうだ、アレ、目の前のアレをどうにかして止めなくっちゃなんねぇ、あーでも燃えてるな 火傷 ってそれどころじゃねぇだろって…止める、でも止めるってどうやって!?あんな轟轟燃えてるところから助け出したとして、それって助かるのか?今更なんじゃね?そもそもあれって、本当に人間なのか?マネキンとか、でかめの人形とか、そうなんだったら意味なくね、火傷するだけ損じゃね?俺が火傷して転げまわってたら、後ろからスマホ片手に動画撮ってる連中がぞろぞろ出てきて「引っかかった!クソバカが」とかゲラゲラ笑われるんじゃね。どうしよ、どうすっかな、やっぱ、帰ろうかな…】
少年の頭の中は、ぐるぐるとめぐる考えですっかり混乱状態に陥っていた。
【あー、こんな慌ててヒーローじみたことをやろうだなんて、やっぱこんなん俺のキャラじゃねぇ、アレはマネキンだ、マネキン、帰ってカップ焼きそばでも食おう、昼飯まだだったし、あーでもあっちいな、夏の冷やし中華の麺まだ棚に残ってんかな…】
ぼうっとする頭で自分なりの一応の結論を出し、くるりと踵を返してすぐ近くの家へと引き返そうとした少年、その目の端に白い炎の中心の人影の右手が力なくだらりと下がるのが見えた。
【あぁ、やっぱりアレって人形じゃねぇんだ…】
少年はあきらめたようにほおっと吐息を漏らし、それからそ知らぬふりをしてこの場から立ち去ろうとした自分を戒めるためか、はたまたこれから自分のしようとする行動のために気合を入れようとでもしたのか、両手でぴしゃりと自らの頬を叩き、ぐらぐらと前後に揺れて公園のフェンスに背中を押し付けて勢いをつけると、ごくりと生唾を飲み込んで燃え盛る炎の中へ一直線に飛び込んだ。
いざという状況になっても、一つも迷いがなかったと言えば嘘になるだろう。
けれど、体がそんな思いをよそに勝手に動いてしまったのだ。
【あー、南無三、これって俺も一緒に燃えちまうパターンだよな、明日の新聞には俺のことどうな風に載るんだろう、勇気ある少年人命救助で力尽きる…か?それとも、救助を呼ばずに飛び込んでしまった無謀な少年か…うー、そういえば俺何で飛び込んじまったんだ。こういう時はまずは水だろ、水、あーでももう時すでに遅しだな、俺の体も燃え、ってえっ、なんか全然熱くねぇ、つーかむしろ…】
少年の体は、確かにあの白い炎に包まれていた。
しかし、熱いどころかその炎はむしろ凛凛たるほどに冷えているのだ。
これは真夏、いや、魔夏の幻なのか。
はたまたブロッケンの妖怪か、いや、霧などどこにもない。
そして、いつの間にかその炎の芯となっていた人影は、少年の右腕にしっかと掴まれていた。
「何故止めたのだ、我は燃え尽きたかったのに…」
あどけない顔に似合わぬ少ししゃがれた声を出したその人影は、そのまま少年の胸の中にふらふらと倒れこみ、そのまま意識を失ってしまった。
すると、白い炎はまるで彼女の意識と呼応するようにしゅるしゅるとその姿を消してしまった。
「えっ、えっ、えっ、これってどういう状況なんだ!?ちょっ、お前どうしたんだよ、ま、まさか死んだりしてねぇだろうな!」
慌てふためいた少年が胸にだらりともたれ掛かる少女を恐る恐るゆすってみると、ちょうどむき出しになった二の腕の辺りにふぅーんと鼻息がかかり、耳をそばだてると(くぅーすぅー)と実に平和な寝息のような音が聞こえてきた。
「うっわー、コイツ寝やがった、どうすんだよ、この状況、これじゃ俺人命救助どころか、変態みたいになっちまうじゃねぇか!どうしてくれるんだよ!おい、おい起きろ、起きろってばっ!」
ゆすってもゆすっても、少女が目を覚ます気配はない。
そうこうしているうちに、遠くから幼児とその母親たちのにぎやかな笑い声が、どんどんと少年と少女のいるこの公園へと近づいてきた。
「あーっ、もうしょうがねぇ、このままじゃ俺、変な歌買いを掛けられて通報されかねねぇよ!」
たとえ通報されたとしても少女が焼身自殺をしようとしていた。少年はそれを目撃し、身を挺して助けに入った。と警察に正直に説明すれば、本来なら表彰物で地元ニュースから取材でも来そうなものだが、その証拠である炎はすっかり消え去り、微かな燃えカスすら残っていやしない。
そして、少女と少年の顔には一つまみの煤もついておらず、勿論どこをどう見ても火傷の一つもしていないのだ。
その状況で本当のことを話しても、信じてもらえるはずもない。
目の前の現実は、棒立ちする少年と気を失っている(かのように見えるぐーぐーと寝「こけている」少女の姿だ。
それも見ようによっては何も怪しくないように見えるかもしれないが、少年は少女の素性を何も知らないのだ。
少女について何かを聞かれたら、上手くごまかせる自信がない。
何しろこの少年ときたら、重度のコミュ障なのだから。
高校に入学して半年たったが、クラスメイトと交わした言葉は「あぁ」「うん」の二言のみ。
簡単な会話すら成り立っていない。
そんな少年が警察官に詰め寄られて上手くその場を切り抜けるなんてことができようものか?否だ。
少年は意を決してふうーっと大きく息を吸い込むと胸の中の少女をフェンスを使ってえいやっと背中に乗せ換えておんぶ状態にし、その両腕を掴むと公園の裏手にある自宅へと急いだ。
少年は決して力のある方ではない。むしろひょろひょろガリガリで握力も平均レベルだ。それなのにその足はよろけもせずすいすいと家路へと進む、それは重度の緊張感と切羽詰まった状況で発揮された火事場のバカ力などではなかった。
背の上の少女が、文字通り羽根のように軽かったのだ。
赤ん坊でもないのにありえない話だが、あきらかに少女は生まれたての赤ん坊よりも軽かった。それは赤ん坊を抱いたことのない少年にもわかった。
異常気象的な暑さのせいか、いつもなら家の前に出てきてぺちゃくちゃとおしゃべりしている近所のおばちゃんたちにも遭遇せず、運よく自宅へと戻って来た少年は今のソファーの上にごろりと少女を投げだすと、自分は床に座りソファーの角に背中をもたれた。
【わっけわかんねぇことばっかだ、この熱さ、あの冷たい炎、そんでコイツの軽さ、ってかコイツ何者だ】
改めて見る少女の姿、16歳の少年よりも年下に見えるそのあどけない顔と白銀の髪、閉じられたまぶたからは同じ白銀の長々としたまつげ。
「外国人、ハーフ?とかなんかなぁ…」
まじまじと見つめていると、少女は突然ぱちりとその大きな目を開いた。
「わっ、わっ、わっ!」
驚いて腰が引けた少年に、少女はぎっと鋭く射るようなまなざしを向ける。
「そなた、何者じゃ!」
「えっ、お、俺は、近所に住んでいる通りすがりの一般人だっ、怪しいもんなんかじゃねぇ!つーかそっちこそ何モンだよ!人に名前聞くときはまず自分からだろ!何で俺が見知らぬ奴にこっちから名乗りを上げなきゃなんねーんだよっ!」
「我、我は…わ、れ、は…一体誰なのじゃ?」
さっきまでとは打って変わってぽかんと口を開いて愛らしく小首をかしげる少女に向かって、少年は思わず声を張り上げる。
「そんなん、こっちが聞きてぇよ!」
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