12話 ネバーエンディング

 睡眠を取ったためか、あれだけ強い酒だったのにすっきりとした気分だった。外の空気を肺いっぱいに吸い込んで吐いてから、セルマは空を見上げた。この前と同じく綺麗な星空だった。

 屋敷の裏手に回って、裏門の外につないだ馬のところへ行く。すでにセルマの少ない荷物は載せてあった。あとは、乗って、走るだけ。……それだけだ。


 浄化の旅では、瘴気があまりに強くて最深部までは馬を連れて行けなかった。よって途中からはそれぞれが自ら荷を負ってひたすら歩いた。野営のための道具や食料、それに瘴気対策の香木などをまとめると、子どもの背丈くらいの荷物になる。だが、ただひとりで旅をするなら、何も必要ない。

 少しの逡巡の後に、セルマは馬にまたがった。


 首都アワーバを出て、中央街道を南へ、南へ。馬の限界まで走ると、夜が明けていた。中継地点の街でその馬を手放し、乗り合い馬車へ。特急料金を出したので、途中で馬の入れ替えがある馬車だ。以前この経路を通ったときよりも早く港まで行ける。そして、今度こそ、この国を出るのだ。


 幼少期を過ごした大陸と荒野を思い出した。向かうのはその土地だ。良い思い出などひとつもなくて、ただその地が今はどうなっているのかを見たいだけだった。留まる気持ちもない。けれど、もしかしたらこれこそが『帰る』ということなのだろうかとふと思った。しかしセルマにはよくわからなかった。


 ひとつだけ、後悔する気持ちがある。ちゃんと、ターヴィに別れを告げなかった。――告げられなかった。


 そんな気持ちになったのも初めてだ。恐らく、彼の述べる感情が理解できないなりに、ターヴィに感謝していたのだろうとセルマは思った。それが悪い意味ではないことはわかっていたし、何にせよ、彼は真剣だったのだ。真剣な気持ちを向けてくれたのだ。そのことの感謝を、告げることをしなかった。

 なにか、手紙みたいのを出せばいいだろうか。書いたことがないのでどうすればいいのかセルマにはわからない。


 二日かかる道のりを一日で越えて、交易都市キンシャードへセルマは舞い戻った。

 先日と同じように街全体が陽気な空気に包まれている。真っ直ぐに乗船手続き事務所へ向かう。途中で、留置所で世話になった青年警らと出くわした。あちらはセルマに気づくと直立で「おはようございます!」と言って深々と頭を下げた。

 頼んでみようか、とセルマは思った。


「なあ、頼まれ事を受けてくれないか」

「はい! なんなりとお申し付けください!」

「なにか、書き物はないかな」


 手帳と万年筆を渡された。なんと書けばいいのかわからなかった。なので警ら青年へ「世話になった人へのあいさつって、どう書くんだ?」と尋ねた。すると青年は直立のまま「は! 『日頃はお力添え、またご高配を賜り……』」と唸りながら考えてくれたが、セルマには全く理解できない言葉ばかりだったので却下した。

 少しの間考える。ひと言『ありがとう』と書いた。そして。


『おまえのこと、嫌いじゃなかったよ』


 セルマの名を刻み、警ら青年へ手帳を返す。


「それ、ターヴィに届けてくれないか」

「えっ」


 青年はセルマをじっと見た後、どこか遠くを見て目を泳がせた。郵便の出し方もよく知らないので、送料としてとりあえず紙幣を一枚押し付ける。何度か押し問答し、青年の「本当に要らないので」という真顔を見て、渡すことを諦めた。

 そして、乗船手続きへ。


 前回と同じように列に並ぶ。それでも人数は、少し落ち着いたのではないかと思う。それほど待たずに事務所内へ招かれて、この度は別室に行くこともなく乗船証を発券してもらえた。

 海を渡ってこちらの大陸へ来たのは、もう十年以上も前だった。『セルマ・コティペルト』と名が記された紙を見て、胸の中に疼くような何かがある。自分には、わからないことがたくさんあるな、とセルマは思った。実際に今感じている気持ちさえ、満足に言葉として表せない。

 今日出港の船に乗せてもらえた。部屋が埋まっているので、甲板に貼られた天幕にて寝起きをするとのことだが、それで十分だった。船室なんていうお上品なものは自分には合っていないとセルマは思う。これまでだってそうだった。これからだってそうして生きる。

 ターヴィはどうしているかな、と思う。もしかしたら首都アワーバでは、勇者ターヴィとニスカヴァーラ伯爵家アネルマ嬢の婚約について、号外新聞が出ているかもしれない。これで良かったのだろうか、と後ろめたく思う反面、これが最善だったのだ、と考える心もセルマにはあった。

 そして、自分を納得させた。なぜなら、セルマには、ターヴィの言葉に答える言葉がなかったから。


 早々に船に乗り込んで、中をいろいろ見学した。甲板に寝泊まりする人間には、緊急時に船員の手伝いを頼まれることがあるという。それについても学んだ。昼を回るころには多くの乗船客が乗り込んできて、船上がとても賑やかになる。

 船上では、海風を感じ取れた。地上で感じる風とは強さの質が違う。この後、丸一カ月は付き合うその空気を、セルマは胸いっぱいに吸い込んだ。


(――さよなら、シャルベスリア。それに、ターヴィ)


 ぼう、という汽笛が三回鳴らされた。出港だ。

 港際に人々が集まっている。船べりにはそれらの人たちとの別れを惜しむ乗船客が集まり、必死に手を振っている。セルマはたくさんのその背中を眺めていた。この人たちは、どこかへ帰るんだろうか。それとも、いつかシャルベスリアへ帰るんだろうか。


 天幕の元へ戻ろうと、振り返ったときに人へぶつかり、セルマは謝った。立ち去ろうとすると手を引かれ驚く。


「――もっと違うこと、謝ってほしいな。セルマ」


 朗らかな声が振ってきた。さらに驚き、相手の顔を見た。


「ターヴィ……」


 にこにこと、機嫌よく笑っている姿がそこにあった。一体どういうことだろうと考えるよりも、セルマは頭が真っ白になる。

 ターヴィは「――あなたにそんな顔をしてもらえるなんて、僕にも希望があるね」と言う。自分はどんな顔をしているのだろう。わからない。それよりも、尋ねなければならないことがたくさんある。


「どうして、ここに」

「あなたが屋敷を出た後に、少し距離を取ってずっと着いてきていたよ」

「なぜ、なんで」

「マティアスがね、教えてくれたんだ。あなたに渡す酒杯なら、酒の悪い影響を受けないって」

「だってマティアスは……」

「王様から遣わされた人だけど、アネルマさんに雇われているわけではないからねえ。王様の命令は僕に仕えることだったから、僕の不利益のためには動かないってさ」


 首を振ってセルマはターヴィを見た。それで、なんでこんなところにいるんだ。わからない言葉を探して、セルマは考えた。それでも、どう言えば伝わるのかがわからない。


「だって、王様は、おまえを気に入っていた」

「うん。たぶん戻ったら怒られるね」

「おまえは、アワーバの出身じゃないのか」

「そうだよ。だから、あなたがアネルマさんと話している間に、親族とかにあいさつして来た。王様へは、僕の親族に変なことしたら、もう二度とシャルベスリアの地を踏まないって手紙書いて置いてきた」


 セルマは絶句する。ということは、全部最初からバレていたのだ。セルマが悩んでいたとき、ターヴィはそれを素知らぬ顔で見ていたのだ。


「なんだよ、それ……」


 脱力して、置いてあった積み荷へ腰掛けた。何とも笑いたい気持ちになったが、笑い方がよくわからない。ターヴィはにこにこと、上機嫌で笑っていて、ひどいことをした自覚があるセルマは、それがなぜかわからなかった。


「……あのさ、手紙、ありがとう」


 少しだけ赤面しながら、ターヴィが言った。胸から取り出したのは、紙の切れ端で。


「……返せ」

「なんでさ。僕にくれたんじゃない」

「いいから。返せ」

「やだよ。せっかくセルマが書いてくれたのに『嫌いじゃない』って」


 海風と潮の香りが気持ち良かった。長い長い汽笛が、シャルベスリアへの別れを告げている。船は次第に推進力を増していく。その中でセルマは、逃げ回るターヴィを追いかけた。そして。


「――諦めないからね、僕」


 ふと振り返り、きらきらと輝く夕日色の瞳で、ターヴィは言った。


「――セルマが行きたい場所へ、僕も行く。セルマが見たい物を、僕も見る。決めたって言ったでしょう。あのね、何度だって言うよ」


 セルマはその、希望に満ちた瞳を見返した。とても綺麗だと思ったし、それはとても良いものだと感じた。


「愛してるよセルマ。あなたが意味を理解できるまで、ずっと言う。できたって言う。ずっと言う」

「……やかましい。黙ってろよ」


 セルマは踵を返して反対側の甲板へ向かった。時間差でターヴィが「……えっ⁉ もしかして、照れてる⁉」と声を上げた。セルマはもう一度「やかましい!」と言って逃げる。ターヴィが追いすがって来て、船上を何周もした。

 さすがに行き場もなく、セルマが船べりに追い詰められる。すぐ後ろまで来たターヴィは、本当に幸せそうな笑顔で、もう一度言った。


「諦めないからね、僕」


 その声には強い意志が込められていて、ああそういえば、こいつはめちゃくちゃ根性があるんだったとセルマは思い出した。どんな困難にも食らいついてくる奴で、セルマが浄化旅行の行程から離脱を促したときだって、決して弱音を吐かずに努力し、最後まで成し遂げ『勇者』になったのだ。


「ねえ、だから。……いっしょに行こう。どこへでも、あなたの望む場所へ」


 セルマにはわからないことがある。きっとそれは、普通の人たちには当然のことばかりだ。愛も恋も、歌の文句でしかないし、帰る場所というのもよくわからない。

 これまでそれを疑問に思ったことがなかった。自分の生活に必要のないものだから。それでも理解したいと思った。それは、悪いことではないんだろう、と思う。

 セルマは「勝手にしろ」と言って、海を見た。ターヴィも「もちろんするよ」と言って、セルマに並んで海を臨む。


 水平線の向こうは、光に溢れて見えなかった。二人を乗せた船は、その先を目指して進んで行く。

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やさぐれ女は救世の勇者様に愛されすぎている つこさん。 @tsuco3

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