11話 酒杯

 私物を置いてある部屋のソファへ横になって寝た。普段から眠りが浅くて熟睡することは稀だったが、物音ひとつで起き上がるくらいに張り詰めた夜をセルマは過ごした。ターヴィから繰り返し伝えられる言葉の意味を、やはり本質のところでは理解できなくて、セルマはずっと考え続けている。好きでは量れないほどの好きを愛だとするならば、きっとセルマ自身はこれまで感じたことのない感情で、それが自分へ向けられていることに、ただ心からの戸惑いがある。

 何か少しでも取っ掛かりがあればよかったのに、とセルマは思う。理解したくないのではない。純粋にそれが何なのかを知りたいという気持ちもある。けれど、もしかしたら自分には生涯理解できない感情なのかもしれないと思う。

 確実な物など何もない世の中で、ああして断言できる強さを見て、愚かだと感じる自分がいる一方で、どこか羨ましくもある。ターヴィだけではない。アネルマも、ターヴィが自分の運命だと言って憚らない。言動がそれに依存してしまう感情など、ない方がいいに決まっている。けれど二人には、確信による強さがあった。それは、セルマには無いものだ。


 カーテンを開けたままの窓が時間の経過を教えてくれる。朝日が空を赤く染め始めた。ターヴィが言った「帰る」という言葉について思った。セルマは、どこに帰るというのだろう。


 起き上がって外に出、庭の外周を走り込んだ。体を動かしてさえいれば、小難しいことを考えずにすむから。門衛を務めている城の衛兵が、セルマへ目礼した。


 室内に戻ると、玄関ホールにターヴィが佇んでいた。その表情は静かで穏やかで、どんな気分でセルマを見ているのかわからなかった。いや、これまでだってわかっていなかった。ターヴィのことも、他の誰かのことも。


「――朝ごはん食べる? 昨日の残りだけど」


 いっそ淡々として、これまで何度も熱を込めて告白されたことが嘘のようだ。セルマは「いや、水をもらってくる。食べていてくれ」と言って風呂場へ向かった。

 背中にターヴィの視線が痛かった。


 マティアスはまだ屋敷内に居たらしい。行き会ったときに「おはようございます。湯の支度はできております」と言われた。野営時のように行水で済ませようとしていたセルマは、自分にはやっぱりこんな貴族みたいな生活はできないな、と痛感した。無駄が多過ぎると感じてしまう。

 それでもありがたく湯に浸かりながら、セルマは考えた。今日の『計画』のことを。


 宵差し頃にターヴィと酒を飲む。それはアネルマから提供されるものだ。きっとマティアスが預かっている。それには催淫剤が入っているらしいが、どういう仕組みかセルマには効かないらしい。そして先にベッドへ向かうふりをして、そのままセルマはこの屋敷を出る。ベッドには、マティアスの手引きでアネルマがいる。


 手っ取り早く既成事実を作ってしまおうというわけだ。そうすればターヴィはアネルマと結婚せざるを得ないし、なにより彼はきっと責任を取る。そういう男だと、セルマも、王リクハルドも、アネルマさえも確信している。だからこんなに単純で、朴訥な作戦を決行するのだ。

 王はセルマへの出国禁止令を解いてくれた。それがセルマへの報酬だ。そして、この国で生活するターヴィには貴族としての基盤が必要で、それはアネルマの家が保証してくれる。なにもかも、丸く収まる。けれど。

 そこにはターヴィの考えは少しも考慮されていない。


『――セルマが、ここじゃないどこかへ行きたいって言うなら、僕もそうする。セルマが、どこにも定住しないって言うなら、僕も着いて行く』


 昨日聞いてしまったその言葉が、セルマの心に重くのしかかる。


 夕方までの時間をどのように過ごしたのかをよく覚えていない。ターヴィとはいつもと変わらない会話をしたし、マティアスとも何かを話した。

 旅支度などすることもない。いつでもほとんど身ひとつで生きて来たから、私物は身に着ける被服類と肩に担ぐ袋ひとつだ。いつだって、どこにでも行ける。それが自由で、自分にはその生き方が合っていると思う。――それなのに、今はその事実が苦しいと感じるのはなぜだろう。


「――コックさんに休みを与えてしまったし。晩ごはん、どうしようか」


 ターヴィが自分の瞳と同じ色になった空を窓際で見上げつつ、つぶやいた。それはもしかしたらセルマへの問いかけではなく、ただの独り言だったのかもしれないが、セルマは罪悪感とともに「酒はないか。それでいい」と言った。

 控えていたマティアスが、冷やした酒とグラスをふたつ載せたワゴンを、そっと押して来た。


 もう、戻れない。


 セルマはターヴィよりも先に注がれた酒を口にした。一気に煽ると、強い酒精が喉を灼いた。こんなに強い物だとは聞いてない。しかし、二杯目を注ごうとするマティアスから酒瓶を取り上げて、テーブルを外れ、綺麗な床にあぐらをかいて手酌した。するとその酒杯をターヴィがセルマの手から取り上げる。


「ゆっくり飲もうよ、セルマ。まだ夕方だよ」


 言いながら、ターヴィも床に座ってその杯を干した。薄い笑顔と共に一礼し、マティアスは退出した。


 何杯かを過ごしたあたりで、きっと今頃、アネルマがやって来て部屋に潜んだだろうと思う。そういう手筈だ。それにしても強い酒だ、と思う。この後セルマは馬上の人となり、朝まで一気に南へと進む予定なのに。こんなことでは、計画がだめになってしまう。焦りの気持ちがあって、ターヴィと何を話したのかさえもわからなかった。


 ――ふと。途切れた記憶が浮かび上がって来る。それは懐かしい思い出だ。大きくて優しい手。何度もセルマの頭を撫でてくれた、優しい手。その感触を受けて、ゆるゆるとセルマは目を開けた。薄ぼんやりとしたランプの光の中に、誰かがいる。いつも、セルマを大切そうな眼差しで見つめてくれた瞳を思い出す。ああ、思い出した。おやじは、あんな顔だった。


 視界が明瞭になったとき、セルマをじっと見つめていたのはターヴィだった。驚いて身を起こす。


「……寝てたのか、あたし」

「うん。ぐっすりだったよ」

「……今、何時だ」

「二十一時」


 セルマはテーブルの上にあるランプの光を見た。そして、気取られぬように深く息をして、言った。


「あの二階のベッド、使っていいか」


 これで、終わりだ。


 立ち上がったときに体が鳴った。本当にもう一度眠ってしまいたい気分だ。ターヴィは何も言わなかった。酒杯を片付けている音を背中に部屋を出て、階段を上る。主寝室の扉を開けて真っ暗な中へ入ると、ベッドの中で誰かが動く気配があった。セルマは「――じゃあ、さよなら」と言って、バルコニーから外へ出た。

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