10話 場所
拍子抜けとはこういうことを言うんだな、とセルマは思った。昨日は王城までくっついて来て近衛兵に追い払われていたターヴィが、セルマが出かけるに当たって「いってらっしゃい」と見送った。てっきり着いてきて、撒くのに時間がかかると思ったのに。
ただ、ふと考え込んだ顔で「帰りは何時くらいになるの?」と尋ねられた。セルマは「夕食には戻る」と答えた。
アワーバの街を適当にぶらぶらとした。ターヴィと違って、セルマの容姿は一般に知られていないので誰かに見咎められることもない。もうこの街に戻ることはないと決めた。なので、二度目のお別れだ。しっかりとこの、美しい街並みを目に焼き付けておこうと思った。
何度か通ったことのある定食屋で昼をとる。女性給仕がセルマを覚えていたらしく「おひさしぶりですねえ」と笑った。
こんなときに、笑い返せればいいのにと思う。この給仕が記憶しているセルマも、無表情のままいつか消えて行くんだろう。
辻馬車を拾い「王城正門へ」と告げる。時間に余裕を持って行動しなければ、王城内の移動で約束に遅れてしまうかもしれない。アネルマが指定したのはただ王城で、どの場所かは言及されなかったのだ。きっと門衛にでも言付けがあるだろう。
たっぷりと三十分は馬車に揺られた。王城正門前には、入場のため馬車の待機列ができていた。それに並ばせることはせず、多めに支払いをしてセルマは降車した。
「セルマ・コティペルトだ。ニスカヴァーラ伯爵家から、なにか言付けはないだろうか」
「は、お待ちしておりました」
脇戸が開かれ通される。中に居た兵士の案内に従って歩いた。しかし。
「――ずいぶんと奥へ行くな」
馬車に揺られたよりも長く歩いている。城内に入り、中庭を通り、また別の棟へ入ってまた庭。こんなことでは王の私的な庭にまで入り込んでしまいそうだと思った。案内の兵士はセルマの呼びかけに答えず、よってセルマはもう一度声をかけ「本当にこちらでいいのか」と尋ねた。
「――返答はなしか。では悪意を持ってあたしを連れ回していると考えていいか?」
この度も男はなにも言わなかった。セルマはため息をついてから「では、王の侍従殿に上申してこよう。貴君の顔と階級は覚えた」と述べた。すると慌てて「申し訳ありません」と言う。セルマは気にせずその場を離れ、もと来た路を戻った。追いすがるように「すみません、ご案内いたします」と何度も言われたが、一顧だにせず本棟へ向かう。文官が通りがかったので声をかけて状況を説明した。すぐに小姓が呼びつけられ、セルマをひとつの部屋へ連れて行った。兵士がどうなったのかは知らない。
その場でも優に一時間は待たされた。茶で腹が膨れてしまった。約束の時間を大幅に超過してから、幾人かの侍女を従えてニスカヴァーラ伯爵令嬢、アネルマがやって来た。
「ごめんなさいね、いろいろ忙しくて。お待たせしてしまいました」
「なに、あなたの信奉者の兵士と散歩をしていたから、いい運動になったよ」
「まあ、そうでしたの。ようございましたわ」
悪びれもせずにアネルマは言った。セルマは来たことを後悔した。
「さっさとここを出たいんだ。話は要件のみで頼む」
「あらあ、悲しいわあ。やっとセルマさんと二人っきりで、楽しくお話しできると思いましたのに」
扇で口元を隠して眉根を寄せる。目元だけ悲しげに見せたところで、その口元は歪んでいるんだろう。
けれどアネルマの方も長話をするつもりはないらしく、すぐに本題を口にした。
「あなたは、ターヴィ様の恋人なのですか?」
「いや」
「まあ、よかった!」
花が咲いたような笑顔だ。美しい女性だと、同性のセルマでさえ思う。その隣りにターヴィが座っていることを想像して、絵面だけなら完璧に似合いだな、と思った。
「――では。確認いたします。あなた、ターヴィ様を愛していらっしゃるのかしら?」
アネルマはセルマを検分する目で尋ねた。セルマには、その言葉の意味がわからなかった。なので本心から「そういう、よくわからんことはどうでもいいし、わずらわしい。あいつは、浄化旅行の連れで、仲間だ。それ以外ではない」と言った。
わからない。セルマには、それ以外の関係性がわからない。
「肌に触れられたことも?」
「ないよ。そういう関係じゃない」
「触れたことも?」
「だから、ないって」
「そうですの」
じっとりとアネルマはセルマの全身を見回した。本当に反吐が出ると思った。勝ち誇った声色で「そうでございましょうね」とアネルマは言った。
「確認しなくたって、誰もがあたしを醜女だって言うよ。要件がそれだけならあたしはもう出るよ」
「誓約をいただきたいの。ターヴィ様に近づかないと」
アネルマが扇を鳴らすと、侍女の一人が盆を持って近づいて来た。テーブルの上へ書類と筆記具が並べられる。手に取り内容を確認した。言われた通り、セルマがターヴィへ近づかないことを誓う内容だった。ご丁寧に効力の発生日時は明日の夜からになっている。計画前にセルマがいつもと違う言動を取って、ターヴィになにかを感づかれたりしないためだろう。
「――ターヴィ様はね、わたくしの運命の殿方なのよ」
アネルマがささやいた。セルマは目線上げて彼女を見た。その瞳は爛々としている。少しだけ背筋が寒くなる。意味がわからなくて、セルマはアネルマの言葉の続きを待った。
「ひと目見たときからわかったわ。あの方はわたくしと結ばれる方。あの秀麗な眉目。そして聡明さ。最初お会いしたときは、それでも線が細かったけれど。今はあんなに逞しくなられて……」
うっとりとどこかを眺めて頬を染めている。セルマもそれは認めた。ターヴィは、本当に努力して浄化旅行の行程に食らいついて来たし、弱音を聞いたこともない。セルマが嫌がるような頭を使うことは全て引き受け、その上で率先して多くの作業をこなしていた。三年で、本当に別人のように見違えた。
もう一度、書類へ目を落とす。内容は読み返したところで変わらなかった。少しの沈黙の後、セルマは署名した。
「じゃあ、さよなら」
「ああ、もうひとつ」
立ち上がったセルマは止まった。アネルマの声は艶かしかった。
「あの小屋にあったベッド。一度も使っていないのでしょう?」
「使ってないよ」
「触らないでくださいましね。わたくしとターヴィ様の思い出の品になるんですから」
思わずセルマはアネルマの顔を見た。とても美しい笑顔だったが、とても気持ち悪いと感じた。片手を振ってその場を離れた。
王城を出ると、もう空は宵闇だった。この位置からこの色を綺麗だと思うことも、今後はない。少しだけ呆けて眺め、完全に闇になったところで街路へと出た。そういえば、夕食には戻ると約束したな、と思い出す。辻馬車を拾って乗り込んだ。
「――お帰りなさい!」
門前で馬車を降り、屋敷の入り口まで歩いているときに扉が開いて、ターヴィが飛び出してそう言った。その顔は喜びに輝いていて、なんとなく、セルマは直視できなかった。
夕食の準備はできていた。それほど遅れなくてよかったと思う。今日はセルマに合わせてくれたのか、一皿ずつ運ばれてくる食事ではなく、大皿から取り分ける形式だった。食堂のテーブルも大きいものではなくて四人がけの円卓が用意されていて、すべてそこに盛り付けられている。この発案は、マティアスだろうか、ターヴィだろうか。
メイドたちも、マティアスも給仕に来なかった。そういえば、人の気配がない気もする。席に着きながら「マティアスたちはどうした?」とセルマは尋ねた。
「……ほとんど、王城に戻ってもらったんだ。屋敷を管理するだけなら、そんなに要らないし」
「まあ、そうだな」
穏やかな夜だった。これがターヴィとの最後の夕食になる。どことなく悲しい気がしたが、セルマは自分の気持ちがはっきりとはわからなかった。
大きな皿がみっつ。それにそれぞれ一品ずつ山盛りになっていて、二人で食べ切れるわけがないだろうと思った。明日の朝と、昼まで持ちそうだ。元々そんなにたくさんの種類を食べたいと思わないセルマにはちょうどよかった。
そして、小さな皿がひとつ。
「……なんだ、これ」
「どんぐりだよ。庭に木があったんだ」
フォークでひとつ突いた。刺さった。驚いて目元まで持ってきて見つめると、ターヴィが「前に、好きだって言っていたじゃない。どんぐり」と言った。
「あたしが?」
「うん。半年くらい前かな。まだ『源泉』の前の渓流で、野営してたとき」
考えて、ああと思いつく。川を流れて来た木の実を拾った。懐かしく感じられて眺めていたら、ターヴィに声をかけられたかもしれない。なんとなくポケットに入れたが、そういえば失くしてしまった。
どうやって調理したのかわからないが、こんなに柔らかくなるものなのか、と思って口に含んだ。エグみを想像していたが、塩茹で豆のようだった。
「……わりと美味いんだな。初めて食べた」
「えっ、食べるのが好きってことじゃなかったの⁉」
「こんな風に調理できると知らなかったからな」
セルマを娘と呼んでくれた男性のことを思い出す。
もう、記憶がおぼろげで、どうしても顔が思い浮かばない。ただ、大きな手が頭を撫でてくれたこと、抱き締めてくれたことが記憶にあるだけだ。
もうひとつ刺して口へ運んだ。戻ったら、何もなかった荒野。セルマが戦場に居た約二年の間で、きっとあの集まりはゆっくりと潰えて行ったのだろう。
「……思い出があるの?」
ターヴィが静かな声で尋ねた。
「形見みたいなもんだ」
セルマも静かに答えた。
しばらくセルマが使う食器の音だけが響いた。ターヴィは、自分の取り分け皿をじっと見つめて考えに沈んでいる。つい湿っぽいことを口にしてしまった。これまで、誰にだってこんなことは言ったことがないのに。
逡巡するようにどこか部屋の隅へ視線をやってから、ターヴィはセルマを見た。
「ねえ、セルマ。たぶん、あなたが気づいていない、あなたのことを言ってもいい?」
「なんだ、それ」
鶏肉の唐揚げを刺しながらセルマは尋ねた。多く指摘されるのは無表情ということだが、それは自覚があるから違うだろう。しっかりと咀嚼するセルマを見ながら、ターヴィは言った。
「あなたはね、決して『帰る』っていう言葉を使わないんだ。どんな場合でも、どんなときでも」
セルマは止まった。そして水を口に含んで飲み込んだ。生まれて初めて指摘されたことだった。
「――たとえば、班が先行隊として道を偵察に行ったとき。ある程度調べたら、野営地へ『帰ろう』って僕は言う」
「……『戻る』でもよくないか?」
言語的なおかしさを指摘されたのかと思い、セルマは自分の理解を述べた。ターヴィはうなずいて「うん、そうだね」と言った。
「合ってる。でもね、僕たちが『源泉』に対処できて、実際に旅が終わったとき。みんなそれぞれ、街や村の名前を挙げて『帰る』って言ってた。でもあなたは言わなかったんだ」
「……なんでそんなこと知ってるんだよ」
「恋する男の観察眼、なめないでほしい」
あまりにも決然と言われたので、セルマはなんとなくうなずいてしまった。そしてうなずいてしまってから、ため息をついた。
「もう、やめろよ。そういうの」
「やめない。僕が本気だってわかってくれないじゃない」
「わかったよ。好きなんだろあたしのことが」
「わかってないよ。好きって言葉じゃ量れないくらい好きだ。――セルマ、僕はあなたの帰る場所になりたい」
妙なことを言われて、セルマは思わず眉間に力が入ったのを感じた。なんだそれは。頭のいい奴が考えることは、実に小難しい。
「場所ってなんだよ。おまえ人間だろ」
「これは比喩表現っていうんだ。あなたと同じ家に住みたい。住まなくてもいい。あなたがどこかへ出かけて、同じところへ戻ったときに『お帰りなさい』って言うのが僕でありたい」
セルマは首を捻った。ただの言葉だ。それになんの意味があるのかわからなかった。
ターヴィはじっとセルマを見ながら、さらに言った。
「……セルマが、ここじゃないどこかへ行きたいって言うなら、僕もそうする。セルマが、どこにも定住しないって言うなら、僕も着いて行く。もう、さんざん悩んだことなんだ。旅の間も、終わってからも、この数日も、ずっと」
セルマは、その強い視線を受けて、何も言えなかった。なにも。
「――ずっと。恋なんて、淡い気持ちはもうないんだ。愛しています、セルマ。あなたのことを。心から」
何も言えなかった。なにも。
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