ふわふわを貴方に

水の泡

朝起きたら、私はぬいぐるみだった。目線は低くて、腕はふわふわしているのだ。私を叩き起こしたときとは一転、ベッドの上で呆然と座り込んでいた弟はポツリと、

「姉ちゃん、甲斐犬だねえ」

 と言った。そうか、私は甲斐犬のぬいぐるみなのか。私達兄弟は前々から、犬を飼うなら甲斐犬が良いとよく話していた。テレビで見た甲斐犬は格好良さと可愛さが両立した素敵な日本犬だった。それ以来家族ぐるみで推している。

 それにしたって、光り輝くSJK、その夏休みラストスパートだというのに、口の聞けるぬいぐるみなんてずいぶん奇妙な存在になってしまったな。まあ割り切って楽しむしかない。考えようによっては、私は面倒な役割から解放されたといえる。年少さんより小さなぬいぐるみに「お姉ちゃん」を押し付ける奴はいないはずだ。最高だ。ねえねにも声かけてくる、と1階のリビングに降りて行く弟にも、リビングで朝食を取っているだろう妹にも悪いが、悠々と過ごさせてもらおうじゃないか。そう思うと、瞼が落ちてきた。


 そこはぼんやりとした空間だった。私は甲斐犬のぬいぐるみの姿で、動く事も喋る事もできないで、妹の手に握られている。ついこないだ中学校に入学したはずの妹は、歩くのもたどたどしい幼児の姿をしていた。これが現実ではないことは確かだった。妹は不思議な空間でぬいぐるみと共にすくすくと成長していった。母さんに叱られた時、父さんが居なくて寂しい時、甲斐犬のぬいぐるみの姿をした私はいつも妹のそばにいて、落ちてくる涙を静かに吸い取り、妹を癒した。

 こうだったら良かったのに。ふとした時に頭をよぎる思考が、今日は頭の中を占領してやまない。

 ある時ふと、自分が弟妹にしている事が、物語の中でヒロインを虐げる毒親と何も変わらないのではないかという疑惑に思い当たってしまった。わたしきょうだいがほしい、なんて無邪気に両親にねだった幼い私、なんて愚かだったんだ。自分の面倒さえ見切れないのに、他人の面倒を見るなんてとんだ思い上がりだ。愚かな考えだ。私は絶対に親にはならない。弟妹への償いだと思うからだ。だけど現実問題、今の私は歳の離れた姉として弟妹と接している訳で、夏休みなんか両親よりも長い時間を過ごして、とんでもない影響を2人に及ぼしてしまっている。それが本当にしんどい。世間一般の毒親と違って、ちゃんと出来ないならなんで産んだんだ、なんて言葉が全く通用しないのだから弟妹も最悪だろう。

 この不思議な空間の、ただ格好良くて可愛いくてふわふわしているだけの私は、弟妹を決して傷つけない。この世界の妹は、現実の私のもとで育った現実の妹より、ずっと幸せに見えた。

 そんな感情の渦の中に私がいる間も妹は成長し、ピカピカのランドセルを背負ってはしゃいでいた。と思うと、今度はジャングルジムに元気に登っている。そして、両親が目を話した隙に、落ちた。

 母が振り返ったがもう遅かった。当然、ぬいぐるみに出来ることなど無かった。その瞬間、ぬいぐるみの私が奪われたものの大きさがびゅんと私の前を通り過ぎて行った。私が、あの子の姉の私が、あの子のそばに居たらこんな事にはならなかった!駄目だ。これじゃやっぱり駄目なんだ。私はどうしようもないお姉ちゃんなのに、どうしようもなくお姉ちゃんなのだ。奪わないで欲しい、私の声を、腕を、姉としての全てを。何もできなくても価値がある、絶対に誰の事も傷つけない存在になれたのに、私は格好良くも可愛くも無い存在に戻る事を望んでいる。これからもきっと間違えて、私なんていなければこの子達はって思うはずなのに、どうしても、姉で居させてほしいって思ってしまうのだ。

 私は、目を覚ました。目線はいつも通りで、日に焼けて虫刺されの痕がある、よく知る私の腕だった。妹は私の右腕を握って、弟は腹の上に乗っかって、どうやら寝ているようだ。寝室は暗い。窓の外は赤く染まっていて、カラスの鳴き声が聞こえた。ごめんね、と言う声は誰の脳も通らずに消えた。


 びっくりする話だけれど、普通に夏休みは明けた。行ってきます、と家を出る。電車の中には、たくさんの人がいる。この人達も誰かの親だったり兄だったり妹だったりするんだな。

 あんな事が起きたって、何も変われないのかもしれない。喉元過ぎれば熱さを忘れてしまう愚者だ。私はこれからも、疲れたら妹に辛く当たって、弟に辛く当たる妹を見て碌でもない見本をしている事実に吐きそうになるんだろう。でも、この子達の姉という立場を奪われなくて良かったと、あの日人のあたたかみと重みを感じながら思ったのだ。手の中で、ホーム画面の2人はにこにこと笑っている。

 

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