20. チェスと理想論

「正論と理想論は似ているが、両者には決定的な違いがある。……それは『実現性』の有無だ」

「実現性……。確かに、正論っぽい事を言っていても、そこに実現性が無ければ正論とは言えませんね」

「そう、どんなに正論を振りかざそうとも、そこに実現性が無ければ妄言と変わらない。そして厄介な事に、理想論には視野を狭くし思考を鈍らせる効果があってね、理想論を唱えている本人は実現性の有無を判断出来なくなっている場合が多い」


 そこまで言うと、オリビアは先程まで私たちが興じていたチェス盤に駒を並べだした。


「ちなみに理想論を感覚的に知るにはチェスが最適だ。……さて、玲子。この盤面に見覚えはあるかな?」

「……最後のチェス勝負の盤面ですね」

「流石玲子、素晴らしい記憶力だ。そう、これは今日玲子を負かした6局の内の最後の勝負で見た盤面だね」

「そこまで詳しく説明しなくて結構です」


 私を揶揄っているのだろうと分かってはいるが、やはり勝負に負けた事を言われると少しイラっとしてしまう。

 オリビアは私のチェスを子供らしくないと言うが、私は結構負けず嫌いなのだ。


「この盤面、恐らく玲子はこういう駒の動かし方を想定していたんじゃないかい?」


 そう言ってオリビアはコツコツと駒を動かしていく。……それは確かに、私が想定していた展開だった。


「人は自分に都合の良いように考える生き物だ。『きっと相手はこう動かすだろう』『きっと相手はここに気付いていない』『この盤面なら相手も手筋通りに動かして来るだろう』、そうして自分の頭の中で都合の良い展開を想定し、勝ち筋を作ろうとする」


 オリビアは話しながらも駒を動かし続ける。

 既にその盤面は私が考えていた盤面の更に先へと進んでおり、けれどその駒の動かし方は多分私ならそう動かしていただろうなと納得出来る物だった。つまり、オリビアは私の思考を完全にトレースしてみせているのだ。

 そして最後にコツンと音を立てて駒を置く……チェックメイトだ。

 

「知識や経験則による自信、それに固定観念などが強くなると、自分の考えた勝ち筋を絶対の正解だと勘違いしだす。だが、盤面から読み取れる本質を無視して考えた勝ち筋なんて、実際に駒を動かしてみると想定通りの展開にならないものなのさ。そして、この自分に都合よく考えた勝ち筋こそが理想論だ」


 駒を動かすまでは『オリビアならきっとこう動かしてくるだろう』と思ってその後の展開について考えて、それ以外の手をあまり考えていなかった。

 けれど盤面が進みだすと、私が想定していた展開と実際の展開には差異があったのだ。


 この差異は何故起きるのか。

 知識不足、経験不足、思い込み、盤面は見ていたが相手という存在を見ていなかった、自分の都合の良いように考えて盤面をよく見ていなかった。

 実に様々な要因が考えられるが、それらの要因に気が付くのは実際に駒を動かしてみた後だ。

 

「理想論も同じなのさ。問題の本質やその背景などの情報が不足している状況で『こうすれば良い』『こうするべきだ』と結論を出してしまうと、そこに実現性は生まれずただの妄言になってしまう。勿論、理想論を組み立てる事自体は悪い事ではない。……けれどね、実現性の無い理想論を前提に判断するのは悪だ」

「それなら、さっきの盤面では私はどうすれば良かったんでしょうか。理想論……自分で考えられる限りの勝ち筋を探る事自体は悪くは無かったんですよね?」

「見落としが無いか情報を精査する事、一つの考えに固執せず色んな可能性を模索する事、あとは日頃の積み重ねかな。知識や経験はそれに固執すれば視野を狭めるけれど、知識経験が不足していても視野は広がらないからね」


 私はチェス盤を見ながら、オリビアに何時か勝つためにどうするべきかを考える。

 色んな手筋を覚える、実践経験を積み上げる、思い込みに気を付ける、盤面からしっかりと情報を収集して見落としを減らす。

 それらを考えながら、何とも長い道のりになりそうだと溜め息を吐いた。


「玲子の場合、相手の思考や感情を読み取る事に意識を向けた方が効率的に強くなれるだろうね。……相手の言動や仕草から、思考や感情を読み取るのは得意だろう?」

「……」


 オリビアのその意味深な言葉に、私は何も答えなかった。

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