16. 現代における最強の武器『倫理観』

「さて、玲子。そもそも、優越感とは何だと思う?」

「それはまた漠然とした問いですね。……自分の方が優れているという感情でしょうか。先ほどの炎上を起こした人は自分が正しく、人の為にやっているという意識が強くて、相手が間違っていると決めつけていましたから」


 この炎上を起こした人の文章から受け取れる感情、それには覚えがあった。……私の両親の死を中傷した者達だ。

 彼らには『自分には分かっている』という感情がありありと見え、そこには根拠の無い自信に満ちていた。

 その根拠の無い自信が攻撃しても良い理由へと変わり、その言葉がどれだけの狂気であり凶器であるかも気付かぬまま、平然と人を刺し続けていたのだ。


「そう、それも優越感を構成する要素の1つだ。自分は優れている、分かっている、見えている、正しい。そういった考えは視野を極端に狭め、別の可能性について考える事を止め、自分と違う考えと直面した際に一考する事なくノータイムで相手は間違っていると決めつける。これは以前話した『愚者』『扇動される者』の特徴だ」


 そう言うとオリビアはパソコンを操作し、炎上のターゲットとされてしまった漫画家のブログを開き、そのブログのコメント欄を表示する。

 そこには様々な誹謗中傷のコメントが書き込まれていた。


「そして優越感を構成するもう1つの重要な要素、それは『自分は一方的に殴れる』という勘違いだ。この誹謗中傷を書き込んでいる者達は自分が絶対的に正しいと思い込み、そして正しい指摘をしている自分は間違っている相手を攻撃しても良いし、間違っている相手から反撃される事はないとも勘違いしている。ある程度の匿名性のあるネット上だからこそ、反撃される事はないと高をくくっている者達も多いだろう」

「それはありますね。両親の事故の件も、誹謗中傷をしていた人達が晒されて責められる状況になると、ピタっとその事故に対する誹謗中傷の書き込みは止みましたから」

「自分に優位な環境というのは思考を鈍らせるからね。正しい立場や弱者という立場、そして匿名性などにより反撃されない立場はさぞ気持ちの良い事だろう……それが只の幻想だったとしてもね」

 

 モラルというのは薄氷の上で成り立っている物なのかもしれない。

 社会の輪の中で生き、そこからはみ出さないようにと多くの人がモラルを遵守するが、ちょっとした環境の変化でそのモラルは簡単に崩壊し、世界的に見てもモラルを遵守する国民性と言われる日本でもこの有様なのだ。

 一体どれだけの人が、環境に左右されずモラルを保つことが出来るのだろう……。


「優越感について理解を深めた所で、次はその優越感を生み出す物について話していこう」

「優越感を生み出す物ですか。……今回の場合だと『自分は正しい』という意識とかですか?」

「いや、それはどちらかと言うと結果だ。今回の件で言えばそれは……『倫理観』さ」


 オリビア曰く、倫理観とは現代社会における最強の武器だと言う。

 物の見方によってどんな事でも簡単に倫理上の攻撃ポイントへと変わり、倫理上の正しさには論理も実利も必要としない。

 それは即ち、『自由に正しいを作り上げて、自由に攻撃する事が出来る』と言う事だ。


 そして倫理上の正しさには、ある種の恰好良さがある。

 『弱者の味方』『正義』『偏見を持たない者』。これらには人を魅了する力があり、一度この力に酔いしれてしまえば人は簡単に自分の事を倫理上の強者だと勘違し、常に倫理上の強者の立場を手放さないように行動してしまう。

 そうなってしまえば思考は完全に止まってしまい、それが只の理想論や暴論だったとしても、それに自分で気付く事が出来なくなってしまうそうだ。


 そして倫理観の恐ろしい力には『指摘しづらさ』という物がある。

 今回の炎上騒ぎの様な暴論であれば、その倫理上の正しさに酔っている者の発言だけでなく、それを批判する者も多く出て来る。

 だが、内容によっては倫理的に指摘しづらい物もあり、そういう内容の物はより多くの倫理観に酔いしれ思考力が奪われる者が生まれるそうだ。


「例えばそうだね。玲子は『一人の人間が犯罪を犯したからと言って、全ての人間が犯罪予備軍な訳ではない』という意見をどう思う?」

「えっと……当然の事だと思いますけど……」

「では『出所した一人の元受刑者が再犯したからと言って、全ての元受刑者が犯罪予備軍な訳ではない』という意見は?」

「……間違ってない意見だと思います」

「ではそこに、日本の元受刑者の再犯率が約5割で、傷害致死・強盗・強姦の再犯率は約6割、殺人の再犯率は約4割という情報を加味した場合はどうだい? 玲子は1/2の確率で再犯する者達を『犯罪予備軍』とは認識しないかい?」


 私はその問いに応える事が出来なかった。

 犯罪予備軍だと言い切ってしまう事は倫理的に憚られ、そして犯罪予備軍では無いと言い切ってしまった場合『では強姦や殺人を犯した経歴がある元受刑者と二人っきりになれるかい?』と問われてしまえば、それもまた倫理と論理のせめぎ合いで応える事が出来なくなってしまうからだ。


「そう、これが倫理と論理が相いれない事の実例であり、倫理的な正しさを主張する者に物申しづらくなる実例でもある。……けれどね、倫理的強者でいる事に酔っている者は簡単に答えられてしまうんだよ、一切考える事なくね」


 倫理上の強者で居る事に酔い、そしてその立場で居る事に固執する者は、頭を働かせることなく倫理観のみを前提とした答えを出す。

 平和な時代を長く過ごした現代において、倫理観に狂った者の数はとても多く、それは倫理観を使った扇動がとても容易になったという事実でもある。


「最近の話で言えば、人里に降りた熊を殺すなという苦情が殺到している事などかな。その者達は倫理観に狂い、論理で考える事が出来なくなってしまっている例の1つだ。そういった例が現代では数多くあり、その多くの事例において自分達は安全圏に居ると勘違いしている」


 倫理観に狂った者達の行動によって環境が動いてしまった場合、それによって将来自分の身が危険に晒される事になったら、きっとその者達は自分達の事を棚に上げて誰かを責め立てるのだろうね。と言いながら、オリビアは薄ら笑いを浮かべた。

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