いつかの優しい夏

鳥尾巻

いつかの優しい夏

 夏は優しくなくなった。親たちが語るノスタルジックな夏は童話の中の出来事のようだ。あの子の肩越しに見えた青い空と入道雲、照りつける日差しも今よりはずっと柔らかだっただろう。蝉の声は遠く、友達と行ったプールの帰りに食べる安いアイスも、気怠さの残る体に染み入ったはずだ。


 高校の校舎裏のゴミ捨て場には、微かな腐臭と埃っぽい臭いが入り混じっている。じりじり焦げつく罰ゲームみたいな日差しの中で、私はありもしないノスタルジーに浸り、わずかばかりの現実逃避をしていた。この暑さでは蝉も鳴かない。だというのに私の目の前に立つ男、梶山かじやま太郎は耳がキンとなる勢いで元気な声を発した。

風見かざみ先輩、好きです! 俺と付き合ってください!」

「やだ」

 いや、ゴミ捨て場ってなに。告白するにしたってもう少し雰囲気のある場所と時間を選ばない? でも雰囲気があったらOKするかと言ったらそれも微妙。容姿や性格が好みであるかの前に、このタロはデリカシーが無さすぎる。言動が躾のなってない犬みたいだから勝手にタロって呼んでるけど、それすらも喜んで受け入れるんだから始末が悪い。

 ゴミ捨て場の前だから、当然ゴミを捨てに来る生徒が大勢通って、女子はクスクス笑っているし、ひやかす男子もいる。なのにタロときたらそんなことはお構いなしに私に話しかけてくる。

「なんでですか!」

「声でかいって」

「……小さい声で言えばいいですか?」

「そういうことじゃねえ」

 なに、このコントみたいなやり取り。ほら、横を通った女子二人がまた笑ってる。私は呆れるやら気まずいやらで前髪をクシャクシャと掴んで俯いた。頭のてっぺんが焦げそうだしおでこは汗まみれだし、早く帰りたい。口調もぞんざいになるというものよ。

 バスケ部のタロと帰宅部の私とは接点などほぼ無かった。友達の菅原すがわら美知留みちるが彼氏の練習を見に行くのに付き合わされた時、やたら懐かれたのが始まりだ。私の姿を見かけるたび嬉しそうに駆け寄ってきて、告白ももう何度目か分からない。

 日頃から運動してるだけあって、筋肉質だし腕も長いし手も大きい。こうして目の前に立っているだけで威圧感がある。髪型は少しモサいけど、犬のようにつぶらな瞳は可愛いと言えなくもない。

「じゃあ、どうすればOKしてくれるんですか」

「しないし」

「そういうクールなところも好きです!」

「きみは暑苦しい。てか暑い。帰る」

「あ、すみません」

 私は今気づいたように辺りを見回すタロに背を向けて歩き出した。ほんとね、この炎天下に好きなはずの私を立たせておく無神経さと押せばいいと思ってる脳筋さに腹が立つわけよ。


れいちゃん、もう付き合ってあげたらいいじゃない」

 美知留はそう言って笑う。学校帰りに雑貨店に寄りたいという彼女と一緒に、お店の中に入った。冷やりとした冷房の風が肌を撫で汗が乾いていく。ふう、と腹の底から漏れた息は涼しさにほっとしたのか、はたまたさっきのアレを思い出してうんざりしたのか。

 私はサマークリアランスと書いてあるコーナーで、棚に並んだカラフルな雑貨を手持無沙汰に眺めていた。綺麗な雑貨が好きな美知留は、その中身に見合う小柄で可愛らしい女の子だ。一年の時に同じクラスになって、なんとなく仲良くなったけど、背ばかり伸びて貧相で不愛想な私とは大違い。

 私は男の子みたいってよく言われるし、美知留にとっては本物がいない間の安心安全疑似彼氏?

 美知留の彼氏はタロと同じ部の三年生。全然顔を思い出せないけど、小柄な彼女と並ぶと電柱みたいだなと思ったことは覚えている。

 ふわふわの長い髪にパステルカラーのバレッタを当てながらニコニコしている美知留を見下ろしていたら、甘ったるくてなんだか胸焼けがしてきた。

「話聞いてた? そういうんじゃないし」

「え~? そぉ? でもあれだけ好き好き言われたらほだされたりしない? あ、これかわいー」

「切り替え早すぎんか」

「え、こっちもかわいー!」

「美知留さん、話聞こか?」 

「聞いてるよぉ」

「どうせ罰ゲームかなんかだよ。気分悪い」 

「疑り深いなあ。玲ちゃん背も高いしかっこいいんだから自信持てばいいのに。まあ、いいか。それよりこれ見て」

 美知留が私に見せてきたのは、スノードームだった。スノードームと言っても、丸じゃなくて四角。カラーフレームの内側に透明の樹脂で出来た容器が収まっている。水の中にはネイルに使うみたいなグリッターやラメが沢山入っていて、振るとキラキラした粉が舞い降りてくる仕組みだ。

「ねえ、これ外れるんだよ。振ると中のキラキラが花火みたい! 写真入れたらエフェクトみたいになる! 彼氏の写真入れよ~」

 美知留はラメにも負けないキラキラの目で、外側のフレームを外して樹脂を光に透かしている。

「はいはい、キレイキレイ」

「ね、ね、お揃いで買おうよ。すっごい安い」

 言われて箱の裏の値札を見れば80%OFFと書いてある。でもいくら安くても欲しくないものは買いたくない。

「やだ」

「じゃあ、私がプレゼントしてあげる。もうすぐ誕生日でしょ」

「雑だね」

 なぜ私の周りにはこういう雑な人間が多いのか。美知留は軽い足取りでレジに商品を持って行き、ご丁寧にラッピングまでしてもらっていた。私はプレゼントを選ぶ権利も与えられず、半ば強制的にそれを受け取らざるを得なくなった。

 美知留は買い物袋を下げて話し続けている。買ったばかりのピンクのリボン風バレッタをつけてご機嫌だ。

「それでねえ、夏休みに花火大会があるから一緒に行こうよ」

「彼氏は?」

「部活の合宿で来られないんだって」

「ふーん。人混み好きじゃないんだよね」

「もう、玲ちゃん枯れてる! もっとアオハルっぽいことしようよー」

「えー、めんどくさ」

「いいじゃない、行こ」 

 結局私は粘る美知留に負けて、一緒に花火大会に行く約束をして別れた。

 電車に揺られながら、美知留に貰った水色のスノードームを振ってみる。光に透けて踊る安っぽい偽物花火と、嘘か本当か分からない告白と、作りものめいたアオハルに気分がどんどん沈んでいく。飾る写真だってない。

 綺麗なものや可愛いもの、素敵なものに心惹かれないわけじゃない。美知留の言うことも分かる。現状に不満はないのに一人で勝手に鬱々してることも分かっている。美知留のように今を楽しめばいい。頭で理解していても、心は浮き立たない。

 スノードームを鞄に戻し、ふと見上げた窓に映る自分の顔は、外の青空を透かして少し青ざめていた。


 次の日、移動教室で二階の廊下を歩いていたら、隣を歩いていた美知留に腕をつつかれた。

「ねえ、太郎くんが手振ってるよ」

 指さす方向をちらりと見れば、向かいの校舎のベランダで、両手を広げたタロが体全部を使う勢いで手を振っている。周りにいるクラスメイトらしき男子が、タロを小突いて笑っているのも見える。

「なにあれ」

「一生懸命だねえ」

「はずかし……、なんか悪目立ちしてる」

「年下の男の子って可愛いよね」

「先輩と付き合ってるくせに」

「そうだけどさあ。好きになった人が年上だっただけでしょ。ああいうのもいいなって思う。ほら、手振り返してあげなよ」

「嫌だって。遅れるからさっさと行くよ」

 私はあえて彼から顔を逸らし、美知留の腕をぐいぐい引っ張って、熱くなる頬を誤魔化した。美知留は後ろを振り返って肩を揺らしている。

「まだ手振ってる。ちょっと真面目に考えてあげたら?」

「うー」

 好きって言われたから好きになるのってなんか違う気がする。おまけにあれだけしつこく派手にアピールされると逆に引いてしまう。バスケの練習中に女の子に騒がれているのも見たからモテないわけでもなさそうだ。なんで私にかまうのか。

 美知留に言われたことが気になって、なんとなくその日は上の空だった。先輩と放課後デートするという美知留と教室で別れたら、帰宅部の私は一人で帰るだけだ。

 他に特別仲良くしてる子もいないし、兄弟もいないから家に帰っても共働きの両親が帰ってくるまで一人で夕飯を作って食べながらテレビを見る。宿題をやるのはただの義務感だし、打ち込める趣味もない。習い事をさせてもらっても長続きしない。ゲームもSNSもすぐに飽きるし、人の生活にもそんなに興味が湧かない。

 タロが言うようにクールなんじゃなくて関心が薄いだけだ。ほんとになんでこんな私にかまうのか。

 汗をかいたから帰ってすぐシャワーを浴びていたら、お湯に混じって赤い筋が流れていく。このところの気分の落ち込みは女子特有の体調の変化もあったのかもしれない。

 もう全部ホルモンのせいだ。自分では制御できないこの体も、全然思い通りにならない現実も。そもそも思い通りにしたい夢も希望もない。やる気のある子は一年のうちから進路を決めて頑張っているのに、私には未だに将来の薄っすらした展望すら見えてこない。

 このまま肌を打つ温いお湯の中に、自分の体ごと溶けてしまったら楽になれるような気がして、排水口に吸い込まれる赤い渦を見つめ続ける。

 本当は告白されたことも嫌ではないけれど、あの真夏の太陽みたいに真っ直ぐな瞳が強すぎて、その輝きに私自身が拒絶されているような気持ちになる。嫌なのは不満以外は何も持っていない天邪鬼な自分で、隠して見えないふりをしても、それはずっと心の奥底にある。

 我ながら情緒不安定にもほどがある。何をする気も起きなくて、髪も乾かさず床に横たわっていると、いつの間にか日が翳り、部屋の中も薄ぼんやりした輪郭になっている。だるいしお腹も痛い。クーラーで冷えた床の感触に体を預けてただ時間が過ぎるのを待つ。このまま寝ちゃおうかな。

 うとうとしていたら、玄関のドアが開く音がして母が帰ってきた。

「ただいま……、やだ、何してるの。死体かと思った」

「お腹いたい」

「そんな所に寝てるからよ」

「生理だから」

「なおさらそんなとこダメでしょ。せめてソファに寝なさい」

 母はテキパキと買物袋の中身を冷蔵庫に移し、私のいるリビングへやってきた。のそのそとソファに移動する私に、タオルケットを掛けてくれる。

「ねえ、お母さん」

「なあに」

 忙しいであろう母も、私が沈んでいるのに気づいたのか、さっきより心持ち優しい声で返事をしてくれた。

「みんなどうやって将来を決めるんだろうね」

「そうねえ」

「私、やりたいこととか全然ないの。友達は彼氏作ったり部活楽しそうにしてるのに。もう高二なのにヤバいよね」

「ヤバいことはないと思うけど。玲は子供の頃、何になりたかったって覚えてる?」

「なんだっけ」

「ほら、覚えてないでしょ。幼稚園の頃はお花屋さんだったかな? そういうのって周りが言ってるから釣られることもあるよね」

「たしかに」

 多分今もそうだ。周りが楽しそうにしてるから、自分もそうしなくちゃって焦りのようなものを感じ続けている。

「十代で考えたことがずっと続くとは限らないよ。変わらない人はいないの。まだ時間はあるからゆっくり考えたらいいじゃない。高校生になったからって急に大人になろうとしなくていいと思う。玲は昔から慎重だけど、決断したら早いからね」

 生乾きの髪を母の手がゆっくり撫でる。父も母も私には甘いのだ。このぬるま湯のような優しさの中にずっと浸っていられたら、と思う反面、しっかりしなくちゃという思いも湧いてくる。

「うん。ありがとう」

「夏休みはバイトでもしたら? おばあちゃんちに行っててもいいし」

「うん。そうするかも」

「かもって」

 母の穏やかな笑い声が私をひどく安心させる。私はこうして守られてきたんだ。さっきまでの憂鬱な気分が少し和らいで、ゲンキンなことにお腹も空いてくる。

「じゃあ、まず夕飯のお手伝いします」

 寝転んだまま答える私の頭を、母はもう一度優しく撫でてくれた。


 私の情緒がどうであろうと日々は過ぎる。夏休みに入ってから喫茶店のバイトを始めた。カフェなんてお洒落な感じじゃなくて、近所の人が集まる昔ながらの喫茶店だ。顔馴染みが多いし、おばあちゃんや美知留が遊びに来てくれるから思ったよりも気楽だ。あとは美知留と遊びに行ったり、図書館で宿題をして過ごした。

 今日は休憩時間に差し入れをするという美知留に付き合ってバスケ部の練習を見に来た。タロは相変わらず、私の顔を見ると一目散に駆けてくる。ほんとに犬みたい。

「先輩、喫茶店でバイト始めたってほんとですか?」

「うん。そうだけど」

 なんで知ってるんだ。情報源は美知留か、と振り返ると、彼女は私のことなど忘れたように彼氏と楽しそうに話している。裏切者め。

「先輩のエプロン姿見たいなあ。俺行ってもいいですか?」

「ダメ」

「あ、今の『ダメ』って言い方なんかいい。めっちゃいい」

 何を言っても全肯定なの? ちょっと気持ち悪い、と思ったのが顔に出ていたのか、タロは取り繕うように頭をわしわし掻いて、白い歯を全開にする。

「気を許してもらってる感じがする」

「……」

 あまりのポジティブさに返す言葉が出てこない。なんて言おうか考えていたら、コートの方からタロを呼ぶ先輩の声が聞こえた。

「呼ばれてるよ」

「もう行きますね」

「はいはい。がんばって」

「はい! 頑張ります!」

 元気だなあ。走って戻ったタロは、先輩に羽交い絞めにされて笑っている。首だけこちらに向けて懲りずに手を振るタロに、私は控えめに手を振り返してみた。


 花火大会当日、夕方に美知留と駅で待ち合わせた。白地に薄紅色の撫子の花をあしらった浴衣が、色の白い美知留によく似合っている。ゆるく編んでアップにした髪にも、撫子の花の簪が挿してある。私はといえば、白いTシャツにハイウエストのジーンズとサンダル、というシンプルな格好だ。

 電車が会場付近の駅に到着すると、美知留はキョロキョロと辺りを見回し始めた。開催時間は七時からだけど、早めに行かないと混んでしまう。既に浴衣姿の人たちで駅はごった返している。

「座って見れるといいね」

「うん」

「なに? 他に誰か来るの?」

「うーん……」

 珍しく歯切れの悪い彼女の様子に、ふと不安を覚える。不意にパッと顔を輝かせた美知留の視線の先を辿れば、雑踏の中から背の高いシルエットが二つ近づいてくるのが見えた。誰、と聞くまでもなく、二人組は人混みを掻き分けて私たちの方へ真っ直ぐに歩いてくる。

「風見せんぱーい!」

「え、ちょ、バスケ部って合宿じゃないの?」

「ごめん。言うの忘れてた。今日で終わりだから、みんなで花火行こうって」

 焦って美知留を振り返ったら、ちっとも悪いと思ってない顔で手を合わせている。その傍らには、美知留の電柱彼氏がちゃっかり浴衣姿で立っていた。忘れてたんじゃなくて、あえて言わなかったのは明白だ。

「美知留ぅ」

「ごめーん、二人で回ってねえ」

 彼氏と腕を組んだ美知留は人混みに押し出されるように、雑踏の中に消えて行った。なんてやつだ。急に二人きりにされて、どうしていいか分からず俯く私をタロが元気に促す。

「道が混むから早く行きましょう」

「私に帰る選択肢はないの?」

「せっかくだから花火見て行きましょうって。俺、この辺地元だから穴場知ってるんですよ」

 後で覚えてろ、と心の中で美知留を罵っていたら、後ろや横から人がぶつかってくるので、仕方なく歩き出す。密着せざるを得ない混雑だけど、なるべく触らないように拳一つ分くらいは確保した。

 タロも普段着っぽい青いTシャツとハーフパンツ姿だけど、今日はモサッとした前髪を上げているし、普段見ない私服が新鮮で戸惑ってしまう。タロは斜めに掛けたボディバッグの肩紐を意味もなくいじりながら、私を見下ろした。

「先輩の私服可愛いですね」

「ただのTシャツでしょ」

 せっかく褒めてくれたのに、自分でも可愛くないことを言ってるなと思う。タロの視線を頭の上に感じるけど、なんとなく上を見られない。

「あー、先輩ちょっと待って」

 袖を引かれて道の横に立ち止まる。肩からずり落ちかけたTシャツの襟をタロが直してくれた。

「見えちゃいますよ」

「ありがとう。なで肩だからすぐ襟がずれるの」

「ああ、そう。そうですね。俺の位置からだと全部見えると言うか」

「……デリカシーないって言われない?」

「ごめんなさい」

 見上げる位置のタロの顔が、薄闇でも分かるくらい赤く染まっている。私は気まずい空気を振り払うように、大股で歩き出した。と言ってもタロの方が足が長いからすぐ追いつかれる。

「はぐれないように手繋ぎませんか?」

「いや」

 はぐれても一人で帰ればいいし、と言いかけて、素直に楽しもうと思っていたことを思い出した。

「じゃあ、裾に掴まって」

「裾は伸びるからこっち」

 私はタロのズボンのベルト通しに指を引っかけ、彼の後ろをついて行った。

「手強い。あわよくば手繋げると思ったのに」

「正直か」

 憎まれ口にも楽し気に目尻を下げるタロの思い通りになってる気がして少し悔しい。

 しばらく歩いて行くと、民家の間の少し開けた場所に出た。あれだけ混んでいた道から一本外れると、人通りもほとんどない。何台か車が停まっているからどうやらここは駐車場のようだ。

「ここ、俺んちの親が車停めてる場所なんです。私有地だから誰も入ってきません」

「ふーん」

タロはいそいそとボディバッグから敷物を取り出し、車の後ろの少し高くなっている土手に敷いた。

「どうぞ」

「用意がいいなあ」

 これは最初から美知留や彼らに仕組まれていたとしか思えない。呆れるけれど、なんだかおかしくなってしまう。言われるまま、昼間の熱が残るほんのり温かい地面に腰を下ろすと、いつのまに買ったのかタロがペットボトルの水を差し出してくる。

「ほんと準備いいね」

「俺、ずっと楽しみにしてましたから」

「騙されたわ」

「俺相手じゃ不満かもですけど、先輩に楽しんでほしくて」

 ほとんど顔が見えないけど、照れくさそうに笑うタロの様子はなんとなく分かる。ほんと、なんで私なのか。

 今まで避けてきたけど、ちゃんと聞いてみようかな。そう思ったタイミングで遠くに花火が上がった。弾ける光の雫が夕闇の中に溶ける。思わず見とれていたら、また頬の辺りにタロの視線を感じる。

「あのさ。花火見よ?」

「先輩見てる方が楽しいです」

「なんの為の花火?」

「花火は口実ですから」

「正直すぎん?」

「正直ついでに言うと、付き合ってほしいです」

「なんで私? タロ、モテそうなのに」

 あ、なんかこの聞き方めんどくさい。一瞬、後悔が胸をよぎって唇を噛んだけれど、タロは気付かずに真剣に考えている。時々上がる花火が彼の黒い瞳を彩って、もう一つの小さな花火のように見える。

「最初に先輩を見た時、綺麗だなと思ったんです。目を離してる隙に消えそうな感じとか、つい目で追っちゃって。あー、外見だけじゃなくて、冷たい感じなのにちゃんと相手してくれるところとか、あと……」

 普段の能天気さは鳴りを潜め、真剣に言葉を選んでいるタロの声を聞いていたら、自分で聞いたくせに胸の奥がムズムズした。

「もういい、わかった。付き合お」

「こういうのがキモくてダメなんですよね……、え? マジで?」

「うん」

 タロは口をポカンと開けて目を白黒させている。私は思わず吹き出してしまった。改めてタロに向き直って、その顔をじっと見つめる。その瞳はどこまでも真っ直ぐで、変に拗らせていたのは私だけだ。

 鼓動は近く、花火の音は遠くなる。ゴミ捨て場での告白に比べたら良い感じだよね。花火の美しさと宵闇の雰囲気に流されてもいいかと思えるくらいには私も浮かれてるのかもしれないけど。

 小さく手招きして、遠慮がちに身を屈めたタロの唇に、不意打ちで軽く口づける。柔らかくて、私よりも少し弾力のある唇。目を見開いたタロの背後に大輪の光の花が咲く。

 これが恋かどうかはまだ分からない。今は何者でもない私が厳しいと思っている夏も、いつか思い出の中で優しい夏に変わるのだろう。パチパチと遅れて聞こえる音。目を閉じた私の瞼の裏に、スノードームの花火がゆっくりと弾けた。

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