言う舌が動かない

篠ノサウロ

言う舌が動かない

 日常の世界には、二つの波がある。光と、音だ。人の肉体が作り出す波はその片方だけ、音だ。


 ならば、その発生器官が機能不全に陥った者は、何が出来るのだろうか。どんな悪夢となるのか。


 吃音という物がある。どもり、とも呼ばれるものだ。精神医学的障害の一つ、ということらしい。僕が、物心ついた時から背負わされた重荷の名前だ。


 「いってきます」と言うことすら、許されない時もあった。殴られても反論の声が出せない時期ときもあった。そんな人生。


 たったそれだけ、それだけのこと。もっと苦しんでる人もいる。そんなことは知ってるけど、そんなこと言うやつが一番嫌いだ。今、僕が苦しいって言ってるんだよ。


 小学生のときは、あんまり思い出せないし、思い出したくもない。辛い思い出と一言で済ますのは、安直で無機質で楽だから、そうすることにする。そんな環境から抜け出すために、中学受験をして、少し離れた学校に進学した。


 そんなことももう一月前。僕はこの一ヶ月間で、十分理解した。この世界に僕の居場所は無い。


 ビリビリになった中間試験の答案用紙が、ぼんやりと視界に映る。9と7の赤い数字は、辛うじて見つけることができる。廊下からは、バラバラの楽器の音が聞こえる。沈みかけの太陽の光が、遥か後方に見えた。


 淡々と、淡々と、セロハンテープで欠片を繋いでゆく。されたことは置いといて、意外とこの作業は好きだった。失われた過去を、見た目だけでも治せるような気がして。


 一枚、一枚、欠片を貼っていく。その手が二つから、四つになった瞬間、声が聞こえてきて、僕は手元から目線を上げた。


「やあ!」

「ーー、……」


 あなたは誰ですか?と言おうとしたが、出てこない。吃音もあるが、純粋に驚いて声が出なかった


「ん?何か言いたいことでもあるかい?」

「ーーぁあッ、あなたは誰ですか」

「私?あぁ、吹奏楽部部長の横山美佳。えっと、新入生歓迎会で聞いたことあるかもしれないけど、覚えてない?」


 そう名乗った上級生の美人な先輩は、初対面とは思えない親密さで、話しかけてきた。正面の椅子に座っていて、後光が差しているように見えるのが、妙に腹立たしかった。


「いィ、いや、カッ関わることはないと思っていたので」

「えー、悲しいなぁ。演奏聴いても何も思わなかった?」

「は、はい、すみません」


 なんだか、不思議な空気を纏った人だ。全く違うタイプなのに、親近感に似た安心感が湧く。それがむしろ気味が悪い。


「そ、その……」

「んー、どうしたの?」

「も、もも目的は何ですか?」

「君さぁ、女の子が目の前に座ってて言うことがそれ?悲しいなぁ」


 まったく悲しくなさそうな顔で笑いながら、先輩はそう言った。


「んー、一言で言うと勧誘だね」

「か、勧誘ですか、ぼ、僕が……?」

「そうそう、ちょっと体験入部の時期からは遅れちゃったけどね、あぁ、今からでも遅くないと思ってね」

「な、なぜ直接……」

「音楽経験者でしょ君、光輝く才能を感じるもん」

「僕のサイノウ、ですか」


 確かに、ピアノ教室の先生にも才能があるとは言われたけれど、小学校卒業のタイミングで辞めた。新たな自分に生まれ変わろう、と考えたからだった。無駄だったけど。


「そんなこと、いっぃい言われても困ります。ぼ、僕は一人がぃ一番楽なので」

「そう?んー、楽かどうかじゃなくて楽しいかどうかで判断してほしいなぁ」

「あ、あと、っそそ、そもそもなんでピアノのことを知ってるんですか」

「あー、当たった。マジか、完全に勘だったのに」


 なんだろ、この人、話してて何処か違和感がある。初対面とは思えない馴れ馴れしさからかな?いや、それ以外にも……


「……だから何だって言うんですか。んも、もう人とは関わりたくないんです」

「ふーん、それなのに私と話してくれるなんて優しいんだね、それとも、寂しいんじゃないかい?あんまりこうして、話しかけられることもないだろう?」


 カチンときた。何が寂しいだ。人と話さないのは、僕にとって普通で、楽で、むしろありがたいことだ。寂しいわけがない。そんな僕の苛立ちに気づかず、畳み掛けるよう精神の深層に土足で入り込んでくる先輩。


「うん、君の気持ちは分かるよ、その吃音のお陰で誰と話しても楽しくなかったみたいな顔をしてるもの」

「黙ってください!」

「え?」

「あっぅあ貴女は健常者の癖に!」


 ……しまった。僕の浅ましさに絶望した。吃音者かどうかで線引きをして、集団から排斥する。それはこれまで僕が受けてきた仕打ちだった。それを、寄り添おうとしてくれた人に、僕自身でしてしまった。


 顔を見れない。直視できないのは、後ろめたさか、或いは自分の罪すら直視できないからか。結局、うつむくしかなかった。訪れた静寂に、チャイムの音が差し込んできた。


「僕の何が分かるって言うんだ、僕の何に共感できるって言うんだ、そんな無責任な『優しさ』はただの傲慢で自己満足だ。貴女は自分のことを優しいとか勘違いしているかも知れないが、それは僕のためなんかじゃない。何も知らない部外者は黙って去る、それこそが最大限の優しさ、ですよ」


 それでも、いつもと違って僕の口は止まってくれなかった。敬語すらままならない音声が声帯から発せられているのがわかった。気まずい、なんてもんじゃない。


 椅子を引く。ガガガと鳴る音、吹奏楽部は全体練習に入ったようで、美しいハーモニーが鼓膜を揺らしてきた。もう紙切れなんてどうでもいいから、早くこの場から離れたい。両足に力を、肺と舌にもっと力を込めて、逃げ出そうとした。


「……ーっす、すみませんでした、さよなら」

「ま、待ってくれ!」


 腕をガシッと捕まれた。かなり強くて、非力な僕は転びかけた。


「んnn、何ですか、いいから離してください」

「……そう、君の言ったことは殆ど正しい。確かに、今君に私がしたことはただの自己満足、ひいては入部の勧誘のためだ。そう、そのために私は、君に無責任に優しさを押し付けた、そんなイヤな先輩だ」

「わかってるなら離して……」

「で、でもね、これだけは分かってほしい」


 そう言って、すっと息を吸う先輩。握った手が、微かに震えている。


「な、なな何も知らない部外者ではないんだ」

「……あっ」


 ようやく気がついた、違和感の正体に。そして、当事者でありながら気がつけなかったのが恥ずかしい。


「いやぁ、これ難しいねぇ」「あー、本当だ」「そう、君の言ったことは……」


 これらのセリフは、全部吃音を誤魔化すため、必ず先輩は、感嘆詞などの短い単語を置いてから、発音している。


「……嘘、じゃないですよね」

「そう、私も吃音者。だから、結構部外者って呼ばれたのは効いたね、ちょっとしんどい」

「……ごめんなさい」

「ふふ、いーのいーの、分からないように喋ってるのはこっちだし」


 その笑顔は、一際輝いているように見えた。僕には不思議でたまらなかった。この人は、確かに僕と似てるのに、何が違うんだろうか。


「えっとね、私も今の君と同じような目にあったこともある。だから、君の気持ちも分かるって、言いたくなっちゃうんだよね。まぁ、君にとってはいい迷惑だと思うけど」

「……す、すみません」

「うん、安易な共感が一番傷つけるって、知ってた筈なんだけどね」

「ところで、その、なっ、なな何で、貴女はそんなに楽しそうに、きっ吃音のことを話せるんですか?」


 参考になるかはわからないけどね、と前置きして、先輩は理由を話してくれた。


「あー、周りの環境に恵まれたのはあるかな、吃音のある自分そのものを肯定してくれた人がいたんだ。勿論、そうじゃない人に傷つけられた時もあったけどね」

「き、吃音の肯定?」


 僕にとって、吃音は人生を狂わせた忌まわしき呪いだ。肯定できるわけがない。


「さも、夢物語のように聞こえるかい?」

「は、はい」

「でもね、今の私の話し方みたいに、向き合い方は絶対ある。それにはまず、吃音を好きになることかなぁ」

「……僕には、え、縁の無い話のような気がします」


 吃音は本当に個人差が大きい。僕はこの方法を試してもダメだった。というか有効な方法は何一つ見つからない。そんなことを呟いたのだかそうでないのだかは知らないが、それなりに衝撃的なことを先輩は言ってきた。


「ううん、そんなことはない。だって、さっきは吃音出て無かったじゃん」

「……はい?」

「へー、意外と気がつかないものなんだ」

「えっと、いぃ、いつですか?」

「うーんとね、君が怒ってた時」

「そ、そうでしたっけ?」

「気がつかなかったんだ、新たな発見だね。自己認識、自己肯定の第一歩だ」


 うん、どうやら僕は感情が爆発すると吃音が出なくなるらしい。それは、なんだか恥ずかしいけど、どこか嬉しさもある。


「な、な何か、改善のきっかけになったような気がします。ききっ、今日はありがとうございました」

「そう、それはよかった。ところで吹奏楽部ならそういうきっかけが……」

「はいはい、わかりましたから。け、検討はしときますね」

「マジで!?」


 露骨にテンションが上がる姿は、失礼だがおもしろかった。


「あ、あくまでも検討ですから。とっ、というかもう門限なのでそれじゃあ……」

「あっ、もうそんな時間か。でも、これだけは覚えておいて、『音楽に言葉は要らない』ってね」


 キラーンと頭上で星が舞って、決めポーズをきめる先輩を尻目に、切れ端をくしゃくしゃにして鞄に突っ込んで職員室へ向かった。途中で、無視しないでよーと抗議の声が聞こえた気がするが、今もなお練習中の管楽器の音色と聞き間違えたのだろう。


 先生から入部届けを受け取ってクリアファイルに入れ、下駄箱を抜けると、もう三日月が沈もうとしていた。段々と満たされてゆく月に想いをはせて、いつもより上を向いて歩き出した。


 帰宅後、入部届けに自分の名前を書いた。デスクライトが白い紙に反射してちょっと眩しいのが、何やら神々しく見えて、やっぱりちょっと腹立たしかった。

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