Episode9:「魔術師労働基準監督署へ出向願います!」

(ああ、私死ぬのか)


落ちていく感覚はとても不快だった。全身が痺れたように硬直して、どうすることもできなかった。

リゼットがぎゅっと抱きしめてくれている。その口から聞こえるのは、何かボソボソとした呪文。


(怖い)

トーコはぎゅっと目をつぶる。


その瞬間、不思議なことが起きた。

体が落下する感覚が一瞬にしてなくなったのだ。


「え?」

落下の衝撃を覚悟して目を閉じていたトーコは、その不思議な感覚を怪しみながらそっと目を開ける。

2人の体は落下姿勢のまま、水面ギリギリの位置にぴたりと止まっていた。

まるで、流れる水の上に浮いているような不思議な体勢だった。


「なによ……これ……」

リゼットが言った瞬間だった。


ザブン!!

衝撃とともに水音が響いて、体がめちゃくちゃに揺すられる。

どうやら水の上に留まっていた不思議な時間はほんの数瞬だったようだ。2人はそのまま川の中に落下した。


とはいえ、リゼットの盾術たてじゅつはギリギリのところで発動したらしい。

2人の体は大きな透明のボールのようなものに包まれている。水中に落下したものの、痛みを感じたり体が濡れたりすることもなかった。

リゼットは球体の盾術の内側でトーコを抱きかかえる。魔術を制御しながら川岸へとゆっくり歩み、岸辺で魔術を解く。

あとは、そのまま岩場にズルズルと倒れ込んだ。

額に汗を浮かべて、ゼェゼェと肩で息をする。顔色が悪い。


「あ……」

トーコはハッと我に返る。

(私……)

一瞬遅れて、体中からドッと汗が吹き出した。

「あ……署長……」

まるで糸の切れた操り人形みたいに、体を支える力が一気にストンと抜けてしまって、トーコはその場にヨタヨタとへたり込んでしまった。


「アナタねぇ……」

トーコの瞳から涙がボロボロとあふれてくるのを見て、リゼットは蒼白の頬を少しゆるめて微笑んだ。

「危ないことしたらダメじゃない……」

そう言うと、あとは苦しげに息を吐き、川べりにひっくり返って空を仰ぐ。

「ごめんなさい……」

「大丈夫よ…トーコを守れて良かった……」


しゃくり上げるトーコの泣き声と、リゼットの荒い息。あとは渓流けいりゅうのザアザアと心地よい川音。

秋晴れの空は今日も抜けるように青い。


「……トーコは、魔術が使えるの?」

岩場に転がり額いっぱいに汗を浮かべたまま、リゼットが問いかけた。

トーコは自分の身に起きたことを思い返してみる。不思議なことばかりに見舞われた。


強烈な頭痛が起きて、気付いたら森にいたこと。

橋から落ちてしまったのに、水面で体が止まったこと。


「……分からない」

かぶりを振る。

……一体自分の身に何が起こったのだろう。

「妙ね……突然こんな遠くに移動しちゃう魔術なんて、あるはずが……」

「社長いた!うらあああああああああああ!」

リゼットのつぶやきをさえぎる大声。それから、ザバッという不思議な水音が渓谷けいこくに響き渡った。


泣き顔のトーコと疲れ顔のリゼットは、思わず顔を見合わせる。

「あわああああ」

続いて、男性の情けない声が渓谷に響く。

「ああ……悪いんだけど、トーコ……彼女止めてくれるかしら……」

手近な岩にギュッと抱きついたまま、リゼットが虫の息でつぶやく。

「は、はい!」

今の声は多分ルイと例の社長だろう。トーコは慌ててシャキッと立ち上がり、まだ震えがおさまらない足に無理やりグッと力を入れながら、声のした方へと駆けていく。


「ありがと。頼りになる秘書だこと……」

背後で、思わずドキッとしてしまうような嬉しい言葉が聞こえた。


◇◇◇


渓谷に魔術の滝が出現していた。

「魚焼いてる場合かあああああああああああ!」

「ああっ!もったいないじゃないか!」

怒りに任せて腕をブンブンと振りながら、川べりの岩場に向かって水術すいじゅつを打ち込むルイの姿。

そして、スタイリッシュな銀ピカのスーツをビショビショに濡らした長身の男。その足元には、流れ落ちる大量の水で消火されてしまった焚き火の跡?なぜか生焼けの魚が串に刺さっている?

(なんだろう、このシュールな光景……)


トーコが現場にたどり着いたのと、リョーガがホウキにまたがって場違いな雰囲気でフワフワと降りてくるのがほぼ同時だった。

「お嬢さん大丈夫スかー?あっ!ルイ、だめだよぉ~」

「ルイさん!落ち着いてください!」

「だって給料も払わずにこんな所でキャンプとか、お気楽にも程がある!!」

ルイの金切り声が響く。

「確かにそうですけど落ち着いて!」

トーコが慌てて駆け寄り、ルイの肩を掴みながら叫んだ。

とはいえトーコは非力なのである。地団駄じだんだを踏んで激昂げっこうするルイを止めることなんてできない。


そのときだった。

「お?キミ!そこの可憐な女性!」

例の社長らしき男性がトーコのもとへつかつかと歩み寄り、歓喜の声で叫ぶのだ。上から下までビショ濡れの風体も気にせずに。


(……うわあ、背が高いなあ)

トーコが普段から「背が高いなあ」と感心しているリゼットの背丈よりもなお高い。

(ここまで背が高い人って珍しいんじゃないだろうか……)

トーコは小柄な方だから、目の前に立たれたら首が痛くなってしまうほど見上げなければならなかった。


「ああ、なんて美しい女性だ!まるで花畑に咲く一輪の花のようだ!」

男性が急にそんなことを言うから、トーコはぽかんと呆気にとられてしまった。

(それは……普通の花畑の花では?)

キザ男は両手をバッ、とオーバーに広げる。スーツにたっぷり染み込んだ水がこっちにまで飛び散ってくるので、正直やめてほしい。

「これは神の思し召しに違いない!キミ、魔術は使えるかい?よかったらうちの事務所で」

「こンのクッソ社長無視すんな!給料払え!」

ルイの甲高い声とともに、さらなる水術がザアッと音を立てて降ってきた。

「きゃあ!」

トーコも魔術の余波を食らってしまう。髪や衣服がかなり濡れてしまった。

(うーん、全く痛くはないんだけど、この魔術ちょっと寒い……)


「あ、あのですね、ヤマオカさん?」

「おお!可憐な花のようなキミ、僕の名を知っているのか!感激だなあ!」

トーコの手を無遠慮に握りしめ、感激の面持ちで語りかけるフィリップ・ヤマオカ氏。水はなお、じゃぶじゃぶと滝のように降り注いでいる。

めちゃくちゃだ。どうやらマトモに話ができる状態ではなさそうだけど……。

(でも、署長が私に仕事を任せてくれたんだからちゃんと役に立たなきゃ!)


「社長さん、従業員の皆さんへの賃金未払いの件でお話があります!」

流れ落ちるザブザブという水音にかき消されないよう、声を張り上げた。

「お金なら払っているよ!大丈夫さ!」

「賃金未払いの相談がございましたので」

「払えるときに払っているよ?」

「魔術師労働基準監督署へ出向願います!」

それを聞いてぽかんとした表情になるフィリップ・ヤマオカ氏。

「労基?キミ何を?キミは一体何者だい?」

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