第1章:記憶喪失の少女

Episode2:「あら、お名前が判明。まずは良かったじゃない」


「まずはようこそ、魔術師労働基準監督署へ。アナタ、ジャスミンティーってお好きかしら」

柔らかなアルトの声が心地良い。

お世辞にも広いとはいえないオフィス。入口付近には応接机を挟んで一対のソファがあり、そこには“先客”がいた。

陽のあたるふかふかのソファに毛玉のように丸くなり、そこだけ時間が止まったかのようにノンビリと昼寝をしているミルクティー色の猫。


その対面のソファに、リゼットはまるで大切なものを置くようにそっと少女を座らせた。

「ジャスミンティー……?」

まだまだクラリとする頭でゆるゆると考える。

「あら、ジャスミンティーも記憶にないかしら?まあいいわ。それにしても、記憶喪失の女の子が空から落ちてくるなんて。なんだか不思議ねぇ」

オフィスの奥の戸棚をパタリと開けながらリゼットが声をかけてきた。


少女は混乱している。自分のことが思い出せない。

当たり前のように知っているはずの自分の名前は?

自分はどういう人間で、今までどこで何をしていた?

考えても考えても、頭の中はモヤモヤと真っ白。深い霧の中をあてもなく歩いているみたいで、何も分からない。


自分が身にまとっているのはどんよりと重たい印象の、少しくたびれた真っ黒い生地のワンピース。持ち物は何もない。

黒いワンピースにはポケットが付いていて、探ってみたら何か入っていた。慌てて取り出してみる。

「ハンカチだ……」

色あせて端が少しほつれた、ちょっと古いハンカチ。ベージュ地のシンプルなハンカチの端に、ひらがなで小さく名前が記してあった。


「と、トーコ、ホウライ?」

せかけた記名だが、確かに「トーコ・ホウライ」と書かれている。これは自分の名前?

ポケットにグリグリと手を突っ込んでさらに探してみるが、ほかには何も入っていないようだった。


「あら、お名前が判明。まずは良かったじゃない」

リゼットが彼女の手元を覗き込んで微笑む。

それから、少女の目の前にコトリと音を立ててグラスを置き、テーブルをへだてたもう1つのソファにドカッと座った。

先客の猫はその振動で目を覚まし、イヤそうな表情でリゼットを見上げながらグイと伸びをする。

「お名前はトーコ・ホーライさんね。ああ、申し遅れまして。アタシはリゼット・ファウベル。ここの署長よ」

トーコと呼ばれてみると、たしかに自分はそういう名前だった気もするような、そうでもないような。呼ばれてみて、あまり違和感はないように思えたけれど……。


「署長、さん?……あ、なんか私すごく喉が渇いていて…ありがとう。いただきます」

急に喉の渇きを覚えて、出された冷たいジャスミンティーをぐいと飲み干す。

「……おいしい!」

思わず顔がほころぶ。鼻先に、ふわりとほのかに良い香り。スッキリとした味わいの上品なお茶だった。

「なんだかオシャレな味のお茶ですね。私、これ好きです」

「そう?良かった」

思った通りに感想を述べたら、なんだかおかしな表現になってしまったけれど、リゼットは優しげに微笑んでくれた。


(あれ……?)

その優しい笑顔と綺麗な金の長い髪にうっすらと見覚えがあるような気がしてしまったのは、なぜだろう?

「あの、署長さんと私って、以前にどこかでお会いしたこととか……」

「………ないと思うけど」

リゼットは首をかしげ、記憶を辿りながら答えた。

「そうですよね……」

(言っておいてなんだけど、私もそう思う)

記憶がないからなんとも言い切れないけれど。この人とは今日初めて出逢ったと思う。でもそれならこの不思議な既視きし感は一体……?


「さてと、アナタはゆっくりしてて。シュレ、彼女と遊んであげなさいな」

リゼットは考え込むトーコをそのままにし、隣に座っていた猫の首を引っ掴んでテーブルにポイと乗せた。それから、オフィスの対人カウンターの上に行儀悪くドカッと腰掛け、デスクに置かれていた受話器を持ち上げ乱暴に番号をプッシュした。

数コールの沈黙。

「あーもしもし、一番西警察署で……あーネコワタリさぁん!お世話様ですぅそうですリゼットですぅ。あのね、昨日なんだけど、魔女っ子プロジェクトっていうブラック魔術企業にね、そう、そうそうそう!そこ!五月山町さつきやまちょうのあのボロ事務所の!あそこのパワハラ社長に今朝改善命令送ったらさー、報復食らっちゃった! 」

電話越しに高い声で勢いよくまくしたてるリゼット。その様子を横目で眺めていたら、トーコの膝の上にミルクティー色の猫がヒョイと腰かけた。そして、トーコの腕をトントンと軽く叩くのだ。

まるでリゼットの「遊んであげなさいな」という言葉を理解していたかのように。


「やだぁ、またかとか言わないで聞いてよ!いきなり事務所に風術ふうじゅつブッ込んできたのよ!ガラス粉々だし!酷いでしょ?ネコワタリさん、あとで現場検証来てちょうだい。えっアタシが行くの?いやよ。ネコワタリさん来てくれればいいでしょ。ガラスの状態も見てもらわなきゃ困るもの」

猫はやわらかくてあったかい。なんだか癒される。背中を撫でていたら、不思議な声がした。

「リズは、うるさいにゃもねぇぇ」

一瞬、何が起きたのか分からなかった。声がしたのは自分の膝元からだったのだ。


「え……しゃべった……」

あたたかくて柔らかいミルクティー色の猫をまじまじと見つめる。猫は「くぅ」と膝の上で伸びをしてから、くりっとした目でトーコをじっと見つめ、

「ねこは、しゃべるにょむ」

と声を発したのだ。

「猫はしゃべる……そうか……。ごめんね。私、記憶がないから知らなかったの」

脳内はまだまだ混濁こんだくしている。焦ることはない。こうやってひとつひとつ知っていくしかない。


「明日?……分かったわよ。じゃとにかく待ってるから、よろしくね!」

リゼットは受話器をガチャリと置くと、ロングスカートに隠れたスラリとした足を組み替え、すぐにまた受話器を持ち上げて乱暴に番号をプッシュする。

「……もしもーし、シトラス工務店ですか?魔労基のリゼット・ファウベルですぅ。今ってミカンいるかしら?うん、お願い。……あ、ミカンー!魔労基の窓割られたー直してー」

その瞬間、受話器から割れるようなガチャガチャとした怒鳴り声が響く。離れたソファにいるトーコにまでノイズが聞こえてきた。リゼットは思わず受話器から耳を離して首をすくめる。

「ちょ、そんなに怒鳴らないでよ、何回目ってアタシのせいじゃないわよ!割られるんだもん仕方ないじゃない!あっ!そういうこと言う!?うーん、うん、分かってるわよ、分かってるってば。分かったって、しつこいわね、分かってるって言ってんでしょ!はいはい、とにかく直しに来てよーミカンだけが頼りなのー。えっ、明日?今日は?えー!そこをなんとか!」


(表情がコロコロ変わる人だなぁ)

トーコはなんだか感心しながら、柔らかい手触りの猫をぐりぐり撫で回す。猫は爪を立てずにトーコの腕にからみついてじゃれてきた。可愛いな、と思う。


(ところで“署長”と名乗っていたけれど、あの人は一体何者なのだろう?)

ちらりとリゼットの方を見てみる。

リゼットが腰掛けているカウンターには〈魔術師労働基準監督署署長 リゼット・ファウベル〉と記されたプレートが置かれていた。

(……魔術師?労働??)

「もう、分かったわよ。うん、うん、じゃあ明日でいいから。お願いね。あ、これってついでに防弾ガラスとかにできないかしら?……うわ、高っ。じゃあいいわよ……。そんな高額請求には対応できないのよ……。うるさいわね、悪かったわね零細で。はぁい、じゃあ明日ね。急でごめん、ありがと。うん」

話はまとまったらしい。リゼットは受話器をポイと投げ捨てるように置く。

「ごめんなさいね。ちょっとしたトラブルがあって、ガラス割れちゃってねー」

西日が室内に直接サラサラと入ってくる窓枠を指差した。


そう、窓枠なのである。

本来そこにはまっているはずのガラスは見事なまでに粉砕され、床にバラバラと散らばってしまっている。


その窓枠のすぐ隣、壁に貼られたポスターにトーコの目はフッと吸い寄せられた。ポスターの中の、ファンシーなピンク色のウサギのイラストと目が合ったのだ。

「ようこそ、魔術師労働基準監督署へ!魔術師労働者の相談何でも聞きます。お気軽に!」

ウサギはそう伝えている。


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