地上はこんなにも、

琴之波 ハイト

第1話 銀河色の狐

 異世界転生、なんて最近流行りの設定を、ポップな文字で謳う書店の一枠で立ち止まる。たまたま足が止まったから、それとはなしに一冊を手に取った。本をあまり読まない自分からしてみれば、最近流行りも一昔前も大して変わりはなく、どこかフィルター越しに騒ぎ立てる鈍い喧騒の様なものだった。手に取った表紙には貴族令嬢の格好をした女性と、その女性の耳元に唇を寄せる美丈夫のイラストが描かれている。溺愛もの、と言うらしかった。裏返しにあらすじを読もうとして、ぶぶっと指先がシュリンク包装を舐る。その独特の感覚に、なんだか懐かしいなとまた意味もなく表紙側を上へ向けた。今ではすっかり読まなくなったが、これでも子供の頃は読書が嫌いではなかった。読書感想文以外でも、好んで図書館に行き細かい文字を追っていた事もある。その時は異世界転生なんてジャンルは無かったが、御伽噺や歴史小説を読んだ時にはその時代に生きている自分を想像したりもした。妄想の中に生きる自分は万能で、帝だったり城主だったり、頂点に君臨して全ての事象を監督していた。

「今じゃ、すっかり現実主義者だ」

 あの頃のワクワクを、社会に出た後は記憶から掘り起こすこともない。考えれば、もう高校の赤本から本には触れなくなっていったのかもしれなかった。いつ読まなくなったのかも、思い出せない。誰か大勢を従える事が夢だったのに、社会の一部として誰か大勢のうちの一人になり従っている事に安堵を覚えていた。回りくどい考え事ばかりで、ぼーっと表紙の綺麗な桃色のドレスのフリルを見詰めてしまえば、その上に鎮座する美丈夫と目が合った気がした。瞬きをしてまた視線を落とせば、相も変わらず長い睫毛を伏せて貴族令嬢を見遣る美丈夫が映っている。動いたような気配は、見たところない。

「……?気のせいか」

 いつまでもスーツ姿のくたびれた男がライトノベルを手に取っているのも変な気がして、ひとまず置いて視線を窓の外へ向けた。日差しが差し込む穏やかな景色に、ガラス越しの木陰がさらさらと幻聴を届けている。家族仲は良好。至って特記すべきこともなく、弟とも月に二回程度飲みへ行くほど仲が良い。会社ではそれなりに交友関係もあり、上司からの印象も悪くない。簡潔に伝えるならば、平凡。今日だって、真面目だけが取り得だと溜めに溜めすぎた有給を、午後だけでもと消化している最中だ。この物語の様に転生を望む人間はきっと、この世界を嫌い闇を抱えてしまった人物だろうから。そう考えるならば、今の自分は当てはまらない。とはいえ、転生が可能ならそれはそれで興味は湧くわけで。無くしたと思っていた少年心が、首を擡げる気配に唾をのみ込んだ。出入口へ向けていた爪先を、またあの転生ものが陳列されている棚に向ける。同じ表紙を手に取って、美丈夫の顔をじっと見つめた。

 「何か起こるなら今起こってくれ……」

 恥ずかしさに耐えられなくなって逃げだしてしまう前に、この微かな希望を打ち砕いてくれと意図せず目頭に力が入る。今思えば、昔からそんな気質が強い人間だった様に感じられた。ありえないと頭では否定しつつ、ほんの少しの希望を感じて手を伸ばしてしまう。それで毎回「まただめだった」と頭を抱えるのに、見て見ぬふりをした時にはいつも、言い表せない後悔や不安感が後ろ髪を引いた。まぁそれもここ最近は、目を瞑れないのならいっそ滑稽でも、希望を見つめていた方が気持ちは楽だと割り切れる様になってきている。しない後悔よりする後悔、ネットで聞きかじったそんな言葉が、今では自分の指針になっていた。だからこんな風に、小さな書店の片隅で表紙を見つめるだけの変人がうまれてしまっているのだろうけれど。通学路でたまたま立ち寄ったのか、スカート丈を短く調節した女子高校生の数人がひそひそと何かを囁きあっている声が耳に届く。そうしてから漸く、逸らさず見ていた長い睫毛から視線を外した。ここらが潮時だろう。実際、思うとおりに行動した後は気分が晴れていて、その後なんだかんだと引きずったことは全くない。今回も、そうに違いないから。シュリンク包装の手触りを最後に、陳列棚へ本を戻す。視線だけを先に出入口へ向けていた所為で、色鮮やかな表紙に蠢くなにかを視認することが遅れてしまった。明らかに紙の手触りではない何かが、手首をつかんで本と自分とを繋ぎとめている。怖気が立つような冷たさで咄嗟に本まで視線を戻せば、まるで銀河を濃縮して形を成したみたいに細かい光の散りばめられた腕が、手首をぐるりと一周鷲掴み佇んでいた。

「は」

 掴まれた右腕が吸い込まれて、本屋の穏やかなオルゴールと橙色の照明が残像に変わる。突然重心を崩された体が持ち直そうとして、前へ押し進めていた右足を後ろについた。ステンレスの在庫収納棚に踵をぶつけて、がぁんと耳障りな音を立てる。陳列棚に尻もちをつくはずの体が水面に打ち付けられ、そのあまりに強い衝撃で背中からびりびりと痛みを放った。呼吸を奪われて、余分に息を吸い込む準備さえさせてもらえなかった肺が、引付を起こした時の様にひどく痙攣した。しゃくりあげて、溺死を覚悟すればふいに呼吸ができることに気が付く。何かに、包まれている。固く瞑っていた両目を開ければ、目の前には広大に広がる銀河があった。無重力に立っている為か覚束ない足元で、見たこともない神秘的な色彩をした金魚が通り抜ける。ありもしない水面に波紋がたって、まるで自分は忍者にでもなって水上に立っているのだろうかと錯覚した。銀河に触れる足を見ればスーツ姿のまま、靴と靴下だけ取り去られている。健康そうな血色のいい肌色をスーツのパンツ裾から覗かせて、ふわふわと浮遊していた。

「なに、ここ」

 金魚が忙しなく行き交うその無重力を、あてもなく歩く。宇宙服も着ていないのに不思議と呼吸はできる。想像しているような無重力の不便さはなく、アスファルトを踏み締めている時と変わらない足底の感覚。視界いっぱいに広がる星々には、けれど見知った姿はどこにもなかった。知っているようで知らない、そんな妙な違和感に顔を顰める。星座に精通しているとまでは言わずとも、義務教育で習う範囲のある程度の知識はあると思っていたのに。

「意外と忘れてるもんなのかもな」

 訳のわからない銀河に一人きり、考えることなんてなくてただひたすら星を眺めた。これが異世界転生ものなら、もっとちゃんと説明をしてくれよと読者だって思うだろう。間違いなくこの物語は『駄作』だと言える代物が、今目の前には広がっていた。しかし、どうなんだろうか。最近の小説は、意外とこういう展開は普通だったりするのかもしれない。

「あらすじ、読んでおくべきだったな……」

「何を先ほどからぶつぶつと喋っているんだい?」

 己の無力を嘆きながら果て無く続く上空を見上げれば、その間に割り込むように銀河色の相貌が映る。狐を彷彿とさせるつり上がった目元に、狡猾さが見え隠れする細い瞳孔がぎょろりと動いていた。本当に鼻先が触れる距離で、その銀河製の狐は肩に両手足をのせてこちらを覗き込んでいる。微かに触れているような軽やかな体重に、科学的な存在証明を否定されているようで心臓がどくどくと早く脈打った。後ろから覗き込まれる形でその鋭い眼光に見据えられてしまえば、蛙ではないが竦んでしまったって仕方がないだろう。

「……」

「おや、もっと驚くものかと思っていたけれど」

 あまりの驚きで声が出ないだけです、とは言えなかった。それほどその存在には圧があり、有無を言わせぬような絶対的な強者の風格があった。幽霊や怪奇現象に出会った時に感じる得体のしれない恐怖感とは違って、この恐怖にはちゃんとした理由がつけられる。畏怖、それか崇拝。まるでそうすることが自然でもあるかのように、当たり前に膝をついてしまう存在だった。声変わりのしていない少年に似た声にまで、普段なら含まれない筈の威圧感を伴って耳に届く。

「ど、どなたでしょう」

「これから君に体を明け渡す、その張本人とでも名乗っておこうか」

 聞き慣れない言葉の羅列に、理解するまでに多くの時間を要してしまった。体を、明け渡す?

「僕の名前はクロイ。管理番号は666、通称悪魔の子、だよ」

 管理番号、悪魔の子。これから転生する世界はどうやら、一筋縄ではいかなそうだ。上を見上げ続けたせいで首の筋肉が突っ張って、じんと痛む。配慮なんて言葉をまるで知らないようで、相も変わらずその少年は頭上から語り掛け続けた。そろそろ上向きの眼球まで痛くなり始めたので、諦めて下を向き金魚を見つめることにする。そこで初めて気が付いたのか、小さな風を起こしながらその少年は肩から目の前の無重力に降り立った。容姿は、狐。上背の低い子狐が、背景色と混ざり合いながら辛うじて狐の輪郭を保っていた。

「クロイ……。その、読み方は違うけど、俺の名前は黒衣こくいっていうんだ」

 読み方を変えればクロイだな、なんてはにかめば心なしかその少年が驚いたような気配がした。背景に溶け込んでしまって詳しい表情までは見えなかったけれど、ぴたりと呼吸までも止めたような体の輪郭がそう思わせている。何か話すきっかけや理由があれば、なんて社会人うん年目で上辺を取り繕う事に慣れ切った頭はそう考えた。今はまだ全く状況も理解できていないけれど、だからこそ攻撃意思のない彼に敵意を向ける理由もないだろう。これからの世界への手がかりが、この子狐だけなら尚更。

「こくい、か。ふふ、ありがとう、気を遣わせてしまったね。それじゃあ、君のこれからについて、ざっくりと説明させてもらうよ」

 こちらの意思を読み取ったのか子狐は、狡猾だと思っていたその鋭い瞳孔に聡明さを滲ませて笑んだ。それだけでその少年の優しさが感じられる気になって、知らず力の入っていた肩が脱力する。脊髄反射とでも言いたいのだろうか、理解の範囲を超えたものの前ではやはり人間は防御に走るらしい。ひとり安堵していれば、ゆらゆらと輪郭をぼやけさせた狐、もといクロイは、そんな曖昧な自分の境界線を見て眉根を寄せた。嫌そうに首を振って、「時間が無いな」とこちらには困った様に笑う。

「神の仰ることに、抗うな」

「!?」

 繰り返しになるが、自分は最近流行りの転生もののテンプレートをよく知らない。だが少なくとも、こんな始まり方では無いだろうという事だけはわかる。世界を救うだとか、勇者になるだとか、はたまた賢者として旅に出るだとか。狼狽えてふらつく足元で、何も知らない金魚の尾ひれが小さな波を立てていた。

「僕たちは管理されている。それは神がお定めになった事で、僕たちは抗ってはいけない」

 たち、そんな言葉に突っかかりを覚える。静かに、己に言い聞かせてでもいるような幼い声がこだました。不満を感じている風でもなく、ただ静かに告げる表情には諦めが滲んでいる。

「抗うこと無く、皆を救ってみせてくれ」

 僕ができなかった、そんな理想の救済を。重荷すぎる言葉を最後に、目の前の少年が内側から紺色の宇宙を沸騰させて狐の輪郭を壊していく。ぼこぼこと体が泡立つ見たこともない光景が、脳裏にまで焼き付いた。

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