5.


 玄関の扉の金具がカチャッと音を立てた。

 同時に家に流れ込んできた朝の冷たさに臆することなく僕は外へ出る。


 また、一日が始まる。


 朝日が昇ってきたばかりの世界はまだ薄暗かった。アスファルトを踏み締め、僕は学校へと向かう。

 街は徐々に動き出していた。街の至る所から聞こえる人の声や物音。それが僕の足音と重なる。


 あれから何日か過ぎた。


 今でも僕は、他の人の目を見るたびに青みがかった彼女の瞳を思い浮かべてしまう。諦めはついたはずだったけど、未だにどこか囚われてもいた。


 あれからも僕は何回か、明日の自分に借金をして、夜が深くなった頃公園に向かった。

 だけどそこには、あの日から一つも変わらない景色があるだけで。

 決してあの人が姿を現すことはなかった。それもそうだって、その時はそう思った。



 でも、しばらくしてから僕はふとあの日の事を思い出した。

 それは小学校の一年生だったか二年生だったか、そのくらいのある夏の日の事。その日、僕は母と一緒に夏祭りに行った。


 夜にチカチカ光るチョウチンアンコウみたいな屋台の明かりと、とんでもない長さの人混みに、小さな僕は異世界に来た気分だった。

 周りは大人という名の背の高い障害物ばかり。僕はとにかく母の手を掴むので必死だった。


 だけど前に前に進んでいくと、段々人の流れは速く大きくなっていって。ついには手が離れてしまう。

 押し流された母を見て僕は一生懸命他人の隙間から見えたその背中を追った。


 楽しそうな中学生グループの笑い声、祭りの音楽、人混みの中から聞こえる母の声。

 追っている内にそれらが重なり合ってゲシュタルト崩壊していく。狂ったオチのない絵本を読んでいるような感覚。


 僕はその日迷子になった。


 僕が次に意識を取り戻した時には、母が僕の顔を心配そうに覗き込んでいて。

 結局その日、僕は何事もなかったかのようにわたあめを握ってそのまま家に帰った。


 あれはその次の日の事だ。その朝、目覚めると僕の身体から影がなくなっていた。

 多分、僕はそこで影を落としてしまったんだ。彼女を迷子にさせてしまったんだ。


 昼と夜の関係と同じように、僕らと影は一心同体で。そこに物体が存在していれば影がついてくる。僕らの存在はそれでより確かなものになっていく。

 そして存在が確かなものになっていく、それはきっと大人になることと同意義なんだと思う。

 

 単に彼女は僕のイマジナリーフレンドだった、なんてわけじゃなかった。


『大切なことはね、いつだって影の上に君がいるってただそれだけだから』


 確かに、そうかもしれない。




 ――朝日が、ようやく出てきた。

 建物に無機質な光が跳ね返って、正面から僕を強く照らす。


 この頃、徐々に暖かくもなってきた。もう春は近いのかもしれない。少しあの雪の日が懐かしく感じる。

 風が、鞄についた金色のキーホルダーを揺らした。今日は背中を押すその風を僕らは追うようにして走り出す。

 

 僕の背には、長い影が伸びていた。

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ロスト ガール 柑月渚乃 @_nano_

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