4.
目覚まし時計のあの音が頭に響く。分厚い布団をどかした。
外には仲間を呼ぶカラスの声。重い朝が、やってきた。
歩いて。電車に乗って。歩いて。
朝日を避けて学校に向かった。電車の乗り方を忘れてなくて良かった。
青信号と同時に歩き始めた人の群れを見る。何故か足が動かない。信号が点滅し始めた時ようやく足が動き始めて僕もそれを追った。心臓が跳ねるように動いている。体がむず痒くて気持ち悪い。
僕が学校に着いた時、教室には誰もいなかった。僕は昔から早かった。特に理由もないけど早めに行くのが好きだった。置いてかれるのが嫌だったのかもしれない。それは流石に考えすぎだろうか。
窓の外には門を通る数人の生徒。それを見て窓の方を向くのはやめた。そこは夜の学校とは全く違っていた。何かが自分の中から奪われていく、そんな感覚だけがした。
「あれ堀江くん、久しぶりじゃない?」
教室に電気をつけて、机に突っ伏していると背後から声が聞こえてきた。
イヤホンで無理やり塞いでいた耳を開けると廊下から楽しそうな声が沢山自然と耳に入ってくる。なんか……胸が痛くなった。
そこにいたのは渡邉さんだった。いつも僕と同じくらい早く来る人ってくらいしか知っていることはない。あとは、こんな僕に話しかけられるレベルの社交性がある人って事くらい。
「そうだね、一週間くらい?」
「元気してた??」
渡邉さんは別に意図とか何もなくそう訊いた。頭に鈍い痛みが広がる。
何故か僕は少し言葉が詰まっていた。話しかけてもらえて嬉しいはずなのに、嬉しいと思わないといけないのに、どこか息苦しい。
「ずっと横になってたから元気ではなかったけど」
早く、早く終わってくれって気持ちで僕はそう呟いた。目の前が眩しかった。目が潰れそうなほど。
それが早く終わってくれないと、胃液が僕の内臓を溶かしてしまいそうだった。
「あれ? 堀江くんってサックスやるの?」
「え」
その時、突然ぱんっと頭の中で何かが弾けた。顔を上げる。渡邉さんの顔を見る。彼女は不思議そうに僕を見ていた。
そして、そして僕は自分の机の端に置かれたものに気付く。金色の──エリに貰った御守りがそこにはあった。
「そうだね、小学校から中学までやってた」
「えっ! じゃあさじゃあさ! 今度のコンサート一曲でいいから出てもらえない? 実は今サックスの人数が足りてなくて」
──えっ。
ぐらっと視界が揺れる。
瞬間、窓から宝石のような光の粒が僕に降り注ぎ始めた。
廊下の話し声、楽しそうな声、その声を聞いて僕は無関係なはずなのになんか心が弾むようになっていた。時計の針が刻むリズムに心が躍る。
気付けば、頭の痛みは止んでいた。
「僕、二年以上吹いてないんだけど……大丈夫?」
「いいよ! いいよ! 全然いい!! というかそれはやってもいいってこと? 本当にお願いしたい!」
なんか、それは、エリと初めて会った日のようだった。ドクッドクッと心臓が正常に動き出す。
その記憶が正しいかどうか分からないが、――僕はその時初めて他人に頼られた気がした。
◇ ◇ ◇
勢いよく僕は夜に飛び出す。まだ夜は浅い。スニーカーを弾ませ僕らの集合場所へと走る。
伝えたい。今日の事。僕はただこの気持ちと感謝を全て彼女に伝えたくて走った。
階段を上り切って、止まって息を落ち着かせる。長らく運動してなかった体は心に追いついていない。
柵を越えてブランコを通り過ぎて、いつもの場所に――何故かもう彼女はいた。
「あ、遅いよ」
遅いことはないはずだ。いつもより大分早い。まだ夜が始まったばかりなのだから。
「ごめん」
僕は別に指摘することもなく彼女の横に行った。
最初の日のように彼女はそこから遠くを見つめている。長い髪がはらはらと揺れた。
「あのさ──」
「あのさ……」
言葉が、被った。それに対し彼女は別に何も面白いこともないのに、すごい楽しそうに笑う。僕もそれにつられて笑ってしまった。
「なんか似てるよね。私達って」
「似てないよ」
似てるはずないよ。だって、君は僕の憧れだったから。薄く青みがかった目も、笑い方も柔らかい声も、何もかも全て。
彼女は僕の救世主だったから。
「いいよ、先。僕のは大したことないから」
そう言った。そう、そう言ったその瞬間、何でか彼女は真剣な顔をした。
「……明日からね、私もうここに来れなくなるの」
──えっ。
彼女はそう淡々と言った。
心臓が止まった。世界が止まった。
「え、それは、何で?」
「ごめん、理由は言えない」
なんとも言えない絶妙な、その表情。心臓が僕の首を締めるように締め付けられる。
あまりにも急すぎる。そんな素振りは昨日までなかったじゃないか。そんな、なんで……。
「じゃあ、どこに行くの」
「さあね。そんな行ってほしくない?」
彼女はいじらしく僕を見る。一瞬、声が喉につっかえる。
「――ああ。ずっと、ここに居てほしいよ」
僕は僕の中身を喉の奥から吐き出すようにそう言葉を発した。
「君ってそんな素直な人だった?」
そう言いながら純粋で透き通った笑みを彼女は浮かべる。その言葉に、僕は何も言えなかった。
「でもね、行かなくちゃならないのには変わりないから」
僕の視界に映る彼女の目は、もう覚悟で満ちていて。変えることはできないのだと、そう訴えてかけてくるようだった。小さな無力感が徐々に体を蝕み始めた。
「どうしても?」
「うん。どうしても」
はっきりと彼女は言葉を紡ぐ。
「……そっか」
それ以上彼女を引き留める言葉は続かなかった。
意味がないとは分かっても、とにかく言い続ければ、言い続けなければならないと、そう思っていたのに。彼女の確固とした態度に僕は、僕は。
「……君は一体何者だったんだ?」
僕は最後に、覚悟を決めてもう一度そう問いかける。
「何者、ね」
「最後くらい教えてくれてもいいんじゃない?」
「んー確かにね。強いて言うなら
──また勿体ぶる。
「……でもさ、言わなくても君ももう分かってるんじゃない? 私が何者なのかって」
「…………」
頭の中で線香花火が燃えて燃えて。……頼りなく落ちる。
一瞬、思考が止まった。今までの出来事がパラパラ漫画のように順に頭へ流れ込んでくる。
見知らぬ幼馴染、甘い夢、夜の小学校、妄想癖、冬の線香花火、彼女を通り抜ける風、影が、ない。
そして、そして最初心の奥底で辿り着いていた可能性に再度ぶつかる。
つまらない答えだとして奥に仕舞い込んでいた一つの可能性。現実にある謎の答えは大抵つまらない。
――ああ、そうか。僕はやっぱり、妄想癖がひどい。
イマジナリーフレンド。どこかでその名前を聞いたことがある。
「……ねぇ、怜くん」
「ん?」
「大切なことはね、いつだって影の上に君がいるってただそれだけだから」
「それってどういう――」
「じゃあ、もう行くね」
僕に何も言わせないように彼女は言葉を被せた。
「……また、明日」
「ううん。じゃあね」
彼女は、去っていく。公園を去っていく。それ以上は何も言わずに。
僕は、分かっている。ちゃんと分かってるんだ。元から存在しないものを追ったって意味ないことくらい。
夜風が冷たい。乾いた風が辛い。彼女は消えた。
それが仮に全て僕の妄想だとしても、本当に柔らかで優しい光だった。
彼女は明け方の月のような人だった。
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