第九話「幸福の時間」




「う、うん」


 私はなんとか声を絞り出し、頷いた。けれど、その言葉を口にする間にも、心臓が激しく跳ねるのを止めることができなかった。立花たちばなくんの手の感触が、まだ指先に残っている。あの瞬間の余韻が、私の心をどうしようもなく揺さぶり続けていた。


 ――一体、何が起きているの?


 私は自分の内心を整理しようとするけれど、思考はまとまらない。立花たちばなくんの視線がまだ自分に向けられているのを感じると、ますます動揺が深まっていく。


「……ふっ」


 その時、立花たちばなくんが笑うように息を吐いた。その様子は何かに安堵し、キュッと結んだ口からは何かしらの決断をしたようにも見えた。


柊木ひいらぎさんが良ければ、一緒にお昼食べながら話さない?」


「えっ……?」


 私は一瞬、耳を疑った。立花たちばなくんからの突然の提案に、驚きと戸惑いが入り混じった感情が胸の中を駆け巡る。頭が真っ白になる感覚が再び襲ってきた。お昼を一緒に……食べる? 立花たちばなくんと?


「無理だったらいいけど、この前一緒に食べたのにそれっきり何も無かったし」


 立花たちばなくんは少し照れたような笑みを浮かべながら、視線をこちらに向けている。その眼差しはまるでこちらの返事を待っているようで、私の心はますます高鳴っていく。


 どうしよう、どう返事をすればいいのか分からない。けれど、こんな機会を逃すわけにはいかない。私は精一杯の勇気を振り絞り、言葉を紡いだ。


「う、うん……! 一緒に食べよう!」


 自分の声がどこか震えているのを感じたけれど、それでもなんとか返事をすることができた。立花たちばなくんの顔に、ほっとしたような笑みが浮かぶのが見えた。


 教室で一緒にお昼ご飯を食べることになり、私は立花たちばなくんの隣の席に移動した。教室内は、他のクラスメイトたちもそれぞれお弁当を広げて談笑している。そんな中、私たち二人だけが少し緊張した雰囲気をまとっているように感じた。


「……じゃあ、いただきます」


 立花たちばなくんが先に言って、お弁当の蓋を開けた。私もそれに続いて「いただきます」と小さく声を出し、自分のお弁当を開いた。教室のざわめきの中、私たちだけが静かに食べ始めた。


 何を話せばいいのだろう?こんな機会を得られたことが夢のようで、胸が高鳴るのを抑えられない。でも、そのせいで会話がうまく続かない。


柊木ひいらぎさんのお弁当、綺麗だね」


 立花たちばなくんがそう言って私のお弁当をちらっと見た。私は少し恥ずかしくなって、顔を赤らめながら答えた。


「ありがとう。いつもは母が作ってくれるんだけど……今日は自分でも少しだけ作ったんだ」

「そうなんだ。どれが柊木ひいらぎさんが作ったの?」


そう聞かれると、私は少し考えてから、卵焼きを指差した。


「これかな。卵焼きだけど……よかったら、どうぞ」


 思い切って、彼に卵焼きを差し出してみた。立花たちばなくんは少し驚いた表情を見せた後、分かりやすく狼狽した。


「あ……ありがとう。じゃあ、いただきます」


 立花たちばなくんが私の卵焼きを一口食べると、その表情が少し柔らかくなった。


「あ、美味しい。柊木ひいらぎさん、料理上手なんだ」


 その言葉に、私は顔がさらに熱くなるのを感じた。自分の作ったものを褒められるのは、とても嬉しい。


「ありがとう……でも、まだまだ練習中なんだ」

「それでも美味しいよ。俺も今度、自分で作ってみようかな」


 そんな会話が交わされる中、少しずつ緊張が解けていくのが分かった。教室内のざわめきも、少しずつ遠く感じられる。


 こんな感じの穏やかな時間が長く続いた。


 昼休みの時間はあっという間に過ぎ、気づけば教室内のざわめきが再び増していた。立花たちばなくんとの穏やかな時間もそろそろ終わりを迎える。お弁当を食べ終えた私は、ふと教室の時計を見上げた。昼休みも終わりに近づいていることを示す針の動きに、少し名残惜しさを感じながらも、片付けを始めた。


「そろそろ時間だね」


 立花たちばなくんがそう言って、お弁当箱の蓋を閉めた。その言葉に私は小さく頷いた。


「うん、そうだね」


 私も自分のお弁当を片付け、立ち上がった。


「今日はありがとう、柊木ひいらぎさん。また一緒にお昼食べよう」


 その言葉に私は心臓が跳ねるのを感じたけれど、なんとか笑顔で返事をした。


「うん、明日も一緒に!」


 やがて、五限目の授業が始まった。しかし、先程の記憶が強すぎて記憶はほとんどない。圧倒的な幸福感によりそれ以外のことは全て吹き飛んでいた。そうして始まった次の六限目もあっという間に過ぎていった。放課後になり、隣の席を見る。


 帰りの支度をする立花たちばなくんに一言声をかけてから私は教室を出た。「一緒に帰ろう」と誘えるだけの自信はまだなかった。


 教室を出た瞬間、緊張していた身体が一気にほぐれるのを感じた。立花たちばなくんとの時間は夢のようで、まだ現実感が湧かないまま、学校の門を通り抜ける。


 家までの道を歩いていると、空はすっかり青く澄んでおり、風も心地よい。そんな中、ふと足を止めた。いつもの道とは違う感覚が、私を包み込んでいた。けれど、その感覚に浸る間もなく、背後から勢いよく声がかけられた。


由里香ゆりか!」


 振り返ると、そこには綾乃あやの恵梨えりが立っていた。二人の顔には、何か企みを感じさせる笑みが浮かんでいる。


「げっ」


 顔が引き攣る感覚がする。完全に忘れていた。あんなことがあったらこの二人が面白がらないわけないのに。


「何があったの? さっき教室で立花たちばなくんと二人きりでお昼食べてたよね?」


 その問いかけに、私は思わず目を見開いた。二人に見られていたことに気づいていなかった。


「え、えっと、ただ一緒にお昼を食べただけで……」


 動揺して言葉を探す私に、今度は恵梨えりが間髪を入れずに迫ってきた。


「本当にそれだけ? 絶対になにかあったでしょ。顔赤くして、隠し事はなしだよ」


 二人の勢いに押され、私は後ずさる。けれど、彼女たちの視線から逃れることはできない。心の中で葛藤が渦巻く中、どうしようもなく彼女たちの追及にさらされる。


「そ、そんなことないってば! 本当に、ただ一緒にお昼を食べただけで……」


 そう言いながらも、私の言葉はどこか説得力を欠いていたのか、二人はさらに身を乗り出してきた。


「じゃあ、なんでそんなに動揺してるの?」


 恵梨えりが目を細め、私の反応を見逃すまいとする。その問いかけに、私は言葉を詰まらせた。動揺している理由を自分でも説明できないのに、どうして二人に説明できるだろう?


由里香ゆりか、正直に言いなさい。立花たちばなくんと何かあったんでしょ?」


 綾乃あやのがさらに問い詰めるように言う。二人の圧力に、私はとうとう観念したように深く息をついた。


「……何もなかったよ。でも、ただ……少し、嬉しかっただけ」

「まあ、好きな相手に誘われたら嬉しいよね」


 綾乃あやのの言葉に私はハッとした。好きな相手――その言葉が胸に響き、思わず顔を伏せてしまう。自分の気持ちを隠そうとしていたのに、こうもあっさりと見透かされてしまったことが恥ずかしくて仕方がない。


「ねえ、やっぱりそうなんだよね?」恵梨えりが軽く肩を叩いてきた。


由里香ゆりか立花たちばなくんのこと、好きなんでしょ?」


 私は必死に否定しようとしたけれど、言葉が喉に詰まって出てこない。どうしようもない沈黙が私を包み込み、顔がますます熱くなるのを感じた。


「隠さなくてもいいんだよ。由里香ゆりかがそんな風に見えるの、初めてだもん」


 綾乃あやのが優しく言う。


 その優しさに、私は心の中で何かが解けていくのを感じた。これ以上隠し通すことなんてできない、と。息を深く吸い込んで、意を決して言葉を口にした。


「……うん、そうだよ。私、立花たちばなくんのこと、好き」


 その瞬間、綾乃あやのの表情が一気に明るくなった。満面の笑みを浮かべて、私を祝福するように声を上げた。


「やっぱり! 由里香ゆりかがこんなに素直に自分の気持ちを話すなんて、なんだか新鮮だなぁ!」

「……ぐぬぬ」


 しかし、恵梨えりはそうではなかった。ムッ、としながらこちらに指をさしてくる。


「ワタシにも彼氏がほしい。由里香ゆりかはずるい」

「……立花たちばなくんとは恋人じゃないし、まだ」

「あー、まだとか言った!由里香ゆりかのくせに調子にのるな!」


 恵梨えりが地団駄を踏む。それを見て僅かに満たされてしまう自分がいた。リア充はこんな高みの見物をしていたんだ、と感心をする。


「ごめんって。とりあえず、私もう帰るね」


 小走りで自宅へ向かう。恵梨えりが「こらー!」と追いかけてくるが、それを振り切るように走った。その最中に完全に忘れていた、あることを思い出す。


 ――立花たちばなくんに触れたときのあれ、何だったんだろう。

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