第八話「広がる熱、欲望」




 しかし直後、立花たちばなくんが一歩後退っていることに気がついた。心なしか顔も引き攣っている気がする。


 私はゾッとした。こんな大声で返事をして、異性にがっついてる女子だと思われてしまうのではないか。立花たちばなくんに嫌われたくない一心で手を振る。


「あっ、ごごごごめん! 予想してなくて嬉しかったっていうか、つい……」

「う、ううん、気にしてないよ」

「そっか……」


 自身に対して、何正直に言ってるんだバカ、と叱責しながらも胸を撫で下ろす。私は立花たちばなくんの顔を伺うが、その真意を読み取ることはできなかった。というか――


 私はキッ、と側で聞き耳を立てていた二人の友人に視線を送った。すると友人二人もアイコンタクトを返してくる。


『なるほど、意中の相手は立花たちばなくんだったんだ』と、恵梨えりが。

『分かりやすく慌てちゃってて、可愛いね由里香ゆりか』と、綾乃あやのが言う。


 ちなみに実際に言われているわけではない。全て由里香ゆりかの想像だ。その目線から何かしらバカにされている気がして、そこまで脳内補完ができた。これに対して由里香ゆりかも目線で返す。


『今良いところだから邪魔しないで!』


 眉に力を込めできる限りの意思を込める。それを続けていると、何とか察してくれたのかバカ二人は去ってくれた。立花たちばなくんはその様子をぽけー、と見守ってくれている。こほん、と咳払いを一つ。


「それで、どの授業の話?」


 自分の机を両手をつき、前屈みの姿勢で問いかけた。


「あ、ああ……そうだね。えっと、数学の授業で……」


 立花たちばなくんは自分の席に戻るとノートを開き、あるページの一部分を見せてくれる。私は彼の机の正面に行くと、視線を下ろして指を指した。


「ここかな? それともこっち?」


 ノートの上で指を動かす。しかし、その動作の最中、私の指が立花たちばなくんの指にかすかに触れた。本当に一瞬のこと、それなのに――


「あ……」


 ――脳が沸騰する。


 私は息を呑んだ。指先が触れただけで、こんなにも心臓が激しく跳ねるなんて。まるで触れた部分から全身に熱が広がっていくような感覚に、一瞬で頭が真っ白になる。


 立花たちばなくんも驚いたのか、彼の指がピクリと動いたのが分かった。しかし、すぐに指を引っ込めるわけでもなく、私の視線と交差するように彼の目が動く。私たちの間に流れる時間が、急に重くなったように感じた。


「…………っ?」


 言葉を発しようとするものの、うまく声が出ない。こんな状況でどうすればいいのか、まるで分からなかった。ただただ、立花たちばなくんはこちらを見つめ続けている。前髪で隠れていても分かる。彼は、こんな私をハッキリと、観察するように見ていた。


「ここの部分がちょっと」


 数秒の間だった。全身に汗が滲む。けれど、立花たちばなくんに変に思われたくない。その覚悟が通じたのか、決して表情だけは崩さなかった。


「あ、あー、分かりにくいよね」


 自分の声が震えないようにと、必死に平静を装いながら答える。心臓がまだ激しく鳴り響いているのに、なんとかして顔には出さないように努めた。立花たちばなくんの視線が自分に向けられているのが、どうしようもなく意識される。


「うん、ここの解釈が難しくて……」


 立花たちばなくんは、特に変わった様子もなく説明を始める。だが、私の脳裏にはさっきの一瞬が焼き付いて離れない。触れた指先が、まだじんわりと温かいまま。どうしても彼の指に意識が向いてしまい、再び触れてしまわないように、慎重に距離を取る。


「えっと、だからここの式が……」


 頭の中で言葉を整理しようとするが、心ここにあらず。立花たちばなくんの言葉を理解しようと努力するものの、どこか上の空だ。彼が話している内容は、耳に入ってきているはずなのに、まるで別の言語を聞いているかのように感じられる。


「……どうかな?」


 突然の彼の問いかけに、ハッとして顔を上げた。立花たちばなくんの優しい眼差しが、自分の顔をじっと見つめていた。まるで私の心の中を覗き込んでいるかのような、そんな気がした。


「あ、あー、うん! それで考え方は合ってるよ!」


 焦ったように言葉を返すと、彼は少しだけ微笑んだ。その笑顔にまた、心臓がキュンと鳴る。立花たちばなくんにバレてしまわないよう、精一杯の冷静さを保つ努力を続けながら、頭の中はぐるぐると回り続ける。


 ――私はいったい、どうしたらいいんだろう?


 それからもこの会話はしばらく続いた。少しだけ時間が経って先ほど感じた熱も幾分かはマシになっていた。そんな矢先にだった。


「ねえ」


 立花たちばなくんが身を乗り出してくる。


「ぁ…………」


 声を出す暇もなかった。彼はその手を伸ばし、私の手に被せるよう軽く触れてきた。


 ――その瞬間、世界が色を失ったように感じた。


 立花たちばなくんの手が私の手に触れたその瞬間、全てが停止した。指先から伝わる彼の温もりが、まるで電流のように私の体中を駆け巡り、心臓が壊れんばかりに激しく跳ね上がった。


「……っ!」


 言葉が出ない。心臓の鼓動が耳の中でドクドクと響き渡り、まるでそれが全てを支配しているかのようだった。


 ただ、彼の手が私の手に触れているという事実だけが、私の全意識を占めていた。どうしようもなく、彼の指先に感じる温もりが、私を混乱させ続けている。


 立花たちばなくんの手の感触が、まるで私を包み込むかのように、優しく、しかし確実に存在感を示していた。息をするのも苦しくなるほど、彼の手の温もりが、私を溶かしていく。


 ――でも、ここで表情を崩すわけにはいかない。


 内心で自分に言い聞かせる。立花たちばなくんに弱さを見せることなんてできない。彼にバレてしまわないよう、必死に冷静さを保とうと努力した。


「……うん、何?」


 何とかして震えないようにと、息を整えながら言葉を返す。自分の声がどれだけ正常に聞こえたかはわからない。けれど、立花たちばなくんは気づいていないように見えた。


 彼の優しい微笑みに、私の心臓は再び激しく鼓動する。けれど、私は頑張って表情を崩さず、彼が手をそっと自分から離した。その瞬間、心の中で大きく安堵の息をついた。


「いや、何でもない。……ありがとう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る