第2章:秘密の逢瀬

 放課後の図書室は、静寂に包まれていた。月影蒼羽は、いつもの席に座り、数学の参考書を開いていた。彼女の長い黒髪は、艶やかに肩に落ちており、その髪の香りは、ほのかなラベンダーの香りを漂わせていた。


 蒼羽は、集中力を高めるためにリップクリームを塗り直した。ローズの香りがする無色のリップクリームは、彼女の唇に自然な艶を与えていた。しかし、彼女の心は落ち着かなかった。数日前の屋上での出来事が、頭から離れないのだ。


 そのとき、図書室のドアが静かに開いた。

 蒼羽は顔を上げ、息を呑んだ。


 天音優莉奈が、優雅な足取りで入ってきたのだ。

 優莉奈の金髪は、夕日に照らされて輝いていた。彼女の制服は、月華律の規定内でありながら、どこか個性的だった。スカートの裾には、かすかに刺繍が施されており、それが彼女の動きに合わせて揺れていた。


「あら、蒼羽さん。こんなところで会えるなんて」


 優莉奈の声は、まるで小鳥のさえずりのように軽やかだった。蒼羽は思わず頬を赤らめた。


「優莉奈さん……こんにちは」


 蒼羽は、自分の声が少し震えているのを感じた。優莉奈は蒼羽の隣に座り、彼女の開いている参考書を覗き込んだ。


「数学の勉強? さすが蒼羽さんね」


「ええ、まあ……月華律のためにも、しっかり勉強しないと」


 蒼羽は言いながら、どこか後ろめたさを感じた。優莉奈の存在が、彼女の中で月華律の価値観を揺るがしていることに気づいていたからだ。


「ねえ、蒼羽さん。月華律のことをどう思う?」


 優莉奈の突然の問いに、蒼羽は戸惑った。


「どうって……それは、私たちの価値を正確に測るためのシステムでしょう?」


「本当にそう思う? 私の歌は、月華律では評価されないわ。でも、あなたは私の歌を聴いて心を動かされたじゃない」


 優莉奈の言葉に、蒼羽は言葉を失った。

 確かに、優莉奈の歌は数値化できないものだった。

 しかし、それは間違いなく価値のあるものだった。


「私……わからなくなってきたわ」


 蒼羽の言葉は、彼女の心の中で渦巻く混乱を表していた。

 これまで絶対的な信頼を置いていた月華律に対する疑念が、優莉奈との出会いによって芽生え始めていた。蒼羽の心の中では、長年培ってきた価値観と、新たに芽生えた感情が激しくぶつかり合っていた。


 自分の言葉に驚きながらも、蒼羽は奇妙な解放感を感じていた。

 今まで疑うことのなかった制度に対して、初めて「わからない」と口にしたのだ。

 その正直な告白は、彼女の中に小さな亀裂を生んだ。

 それは恐ろしくもあり、同時に新鮮でもあった。


 優莉奈は蒼羽の葛藤を理解するかのように、優しく微笑んだ。

 その笑顔は、蒼羽の心を不思議と落ち着かせた。

 そして、優莉奈がそっと蒼羽の手を取った瞬間、蒼羽の全身に稲妻が走ったかのように感じた。


「それでいいの。考えることが大切なの」


 優莉奈の言葉は、蒼羽の心に深く沁みこんでいった。

 これまで「考える」ことを避けてきた。

 ただ与えられた基準に従うことが正しいと信じていた。

 しかし今、優莉奈の言葉によって、「考える」ことの大切さを初めて実感した。


 優莉奈の手の温もりが、蒼羽の心に染み渡っていく。その温かさは、単なる物理的な熱さではなく、心の奥底まで届く何かを持っていた。蒼羽は、自分の手が少し震えているのを感じた。それは恐れではなく、新しい感情への期待から来るものだった。


 二人は言葉もなく、ただ見つめ合った。蒼羽は優莉奈の碧眼に吸い込まれそうになった。その瞳の中に、自分の知らなかった世界が広がっているように感じた。月華律では計れない、もっと深く、もっと豊かな何かが、そこにはあるように思えた。


 蒼羽の心臓は早鐘を打っていた。それは単なる緊張ではなく、新しい可能性に対する高揚感だった。彼女の中で、何かが大きく変わろうとしていることを、蒼羽は本能的に理解していた。


 この瞬間、蒼羽は自分が人生の分岐点に立っていることを悟った。月華律という既知の道を歩み続けるか、それとも優莉奈という未知の世界へ踏み出すか。その選択が、彼女の前に広がっていた。


 蒼羽の瞳が、かすかに月光のように輝き始めた。それは、彼女の心の中で生まれ始めた新たな感情の表れだった。


 優莉奈の瞳に吸い込まれそうになりながら、蒼羽は周りを確認した。

 図書室には今は誰もいない。


 次の瞬間、優莉奈が立ち上がり、蒼羽の手を引いた。


「ちょっと、来て」


 優莉奈は蒼羽を本棚の陰に引き込んだ。そこは、誰にも見られない秘密の空間だった。


「優莉奈さん……?」


 蒼羽の言葉は、優莉奈の指が唇に触れたことで遮られた。


「シーッ」


 優莉奈はゆっくりと顔を近づけてきた。

 蒼羽は息を止めた。優莉奈の唇が、そっと蒼羽の唇に触れる。


 柔らかく、甘い感触。蒼羽の心臓が激しく鼓動を打つ。優莉奈の唇は、ほのかなチェリーの香りがした。それは、彼女が使っているリップグロスの香りだった。


 キスは、ほんの数秒で終わった。しかし、蒼羽にとっては永遠のような時間だった。


「蒼羽さん……あなたの唇、とても柔らかいわ」


 優莉奈はそっと囁いた。蒼羽は、自分の頬が燃えるように熱くなっているのを感じた。


「優莉奈さん……これって……」


「愛よ、蒼羽さん。月華律では測れない、でもとても大切なもの」


 優莉奈の言葉に、蒼羽の心に大きな波が押し寄せた。

 これまで信じてきた価値観が、音を立てて崩れていくのを感じる。


「私……もう月華律だけを信じることはできないわ。だって……」


 蒼羽は、自分の気持ちを素直に告白した。

 優莉奈は嬉しそうに微笑んだ。


「それでいいの。私たちで、新しい価値を見つけていきましょう」


 優莉奈は再び蒼羽にキスをした。今度は、蒼羽も積極的に応えた。二人の唇が重なり合う中、蒼羽の瞳が月光のように輝き始めた。


 別れ際、蒼羽は優莉奈の手をしっかりと握った。


「優莉奈さん、私……あなたと一緒に、この感情の正体を探りたいわ」


 優莉奈は優しく頷いた。


「ええ、一緒に探りましょう。これが私たちの秘密の逢瀬の始まりよ」


 二人は再び軽くキスを交わし、別々の方向に去っていった。蒼羽の心には、不安と期待が入り混じっていた。しかし、一つだけ確かなことがあった。


「月華律だけじゃない。きっと、もっと大切なものがあるはず」


 蒼羽はそう呟きながら、新たな旅立ちの予感に胸を躍らせた。

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