【学園百合小説】月華の檻 ―四重奏が奏でる革命への夜想曲―

藍埜佑(あいのたすく)

第1章:月光の瞳

 月光女学院の寮の一室で、月影つきかげ蒼羽あおばは鏡の前に立ち、自らの姿を注意深く観察していた。


 淡い紫色の制服ワンピースは、彼女の細く繊細な体つきを優雅に包み込んでいる。長い黒髪は、まるで夜空のように輝きを放っていた。蒼羽は、慎重にマスカラを塗り、まつげに深みを与えた。その仕上げに、ほんのりとしたピンク色のリップグロスを唇に塗る。


 彼女の化粧は、月華律の規定内で最大限の美しさを引き出すよう、細心の注意を払って施されていた。


 蒼羽は深呼吸をし、自分の姿に満足げな微笑みを浮かべた。


「完璧……」


 彼女の囁きは、静かな部屋に吸い込まれていった。


 蒼羽の瞳は、通常は深い紺碧色をしているが、感情が高ぶると月光のように輝き始める不思議な特徴を持っていた。しかし、そんな特別な瞳も、月華律では何の価値も持たなかった。


 月華律――それは月光女学院に導入された、生徒の能力や成績を数値化し、その価値を判断するシステムだった。このシステムは、学院の全ての側面に浸透し、生徒たちの日常生活のあらゆる場面で影響を及ぼしていた。


 月華律の核心は、100点満点の「月華スコア」にあった。このスコアは、学業成績、課外活動、行動評価、そして特殊能力の四つの要素から算出される。


 学業成績は、通常の試験結果だけでなく、日々の授業態度や提出物の質まで細かく評価される。50点満点で、全体スコアの半分を占める重要な要素だ。


 課外活動は、部活動やボランティア活動、学校行事への貢献度などが評価される。20点満点で、リーダーシップや協調性が高く評価される。


 行動評価は、校則の遵守状況や日常のマナー、他の生徒との関わり方などが点数化される。これも20点満点だ。


 特殊能力は、各生徒が持つユニークな才能や特技を評価する項目で、10点満点となっている。ここでは、数学や音楽、スポーツなどの卓越した才能が高く評価される。


 これらの要素を総合して算出される月華スコアは、学院内での生徒の立場を決定づける絶対的な指標となっていた。


 蒼羽はこのシステムの中で、特に数学の分野で卓越した才能を発揮し、常にトップクラスの評価を受けていた。彼女の最新の月華スコアは98.7点。学業成績で49.5点、課外活動で19点、行動評価で20点満点、そして特殊能力で10点満点という驚異的な成績を収めていた。


 月華スコアは、単なる数字以上の意味を持っていた。それは食堂での席順や寮の部屋の割り当て、さらには進路指導にまで影響を及ぼす。高スコアの生徒は、より良い環境と機会を与えられ、低スコアの生徒は様々な面で不利な立場に置かれることになる。


 このシステムは、生徒たちにスマートウォッチ型のデバイスを常時装着させることで管理されていた。このデバイスは、生徒の行動を24時間監視し、リアルタイムでデータを収集。そのデータは、学院の中央システムで解析され、月華スコアに反映される。


 蒼羽は、このシステムを完璧に使いこなしていた。彼女のスマートウォッチには、常に高得点が表示され、それは彼女の誇りであり、自信の源となっていた。


「98.7点……今日も上位0.1%ね」


 蒼羽は満足げに頷き、自らの月華スコアを確認するのが日課となっていた。


 しかし、このシステムには批判の声もあった。数値化できない才能や、人間性の評価が難しいという指摘だ。特に、優莉奈のような芸術的才能や、ことはのような不思議な能力は、月華律では適切に評価されにくかった。


 それでも蒼羽は、長らくこのシステムを信奉してきた。月華律こそが、彼女に価値を与え、存在意義を証明してくれるものだと信じていたからだ。


 廊下を歩きながら、蒼羽は他の生徒たちの様子を観察した。

 皆、制服は完璧に着こなされ、髪型も乱れひとつない。しかし、その表情は硬く、笑顔を見せる者はほとんどいなかった。


 蒼羽は、ふと立ち止まった。

 なぜか、胸に小さな違和感が広がる。


(これはなに? 目に見えない……予感? いいえ……)


 しかし、すぐにその感情を押し殺した。

 月華律に従う限り、そんな感情は不要なはずだ。


 授業が終わり、夕暮れが近づいてきた頃、蒼羽は寮に戻る途中で足を止めた。寮の屋上から、かすかに歌声が聞こえてきたのだ。


「誰かしら……?」


 蒼羽は好奇心に駆られ、屋上への階段を上り始めた。

 歌声は次第に大きくなり、その美しさに蒼羽は息を呑んだ。


 屋上のドアを開けると、そこには一人の少女が立っていた。夕陽に照らされた彼女の姿は、まるで絵画のように美しかった。長い金髪が風にたなびき、碧眼が夕陽の光を受けて輝いていた。


 少女は歌い続けていた。その歌声は、蒼羽の心に直接響いてくるようだった。蒼羽は、思わず足を踏み出した。


「……!」


 物音に気づいた少女が振り返る。二人の視線が交差した瞬間、蒼羽の心臓が大きく跳ねた。


「あ、ごめんなさい。邪魔するつもりはなくて……」


 蒼羽は慌てて言葉を紡ぐ。

 少女は優しく微笑んだ。


「大丈夫よ。私、天音あまね優莉奈ゆりなっていうの。あなたは?」


「月影蒼羽です。その、歌、とても素敵でした」


 優莉奈の笑顔に、蒼羽は思わず見とれてしまった。

 彼女の唇は、柔らかなピーチピンクのリップスティックで彩られ、頬には自然な血色感を与えるチークが控えめに施されていた。そのメイクは月華律の規定内でありながら、優莉奈の魅力を最大限に引き出していた。


「ありがとう。蒼羽さんも歌うの?」


「いいえ、私は音楽は苦手で……数学は得意なのですけれど」


 蒼羽は少し俯いた。

 優莉奈は、優しく蒼羽の肩に手を置いた。


「数学も素敵よ。でも、歌を聴いてくれてありがとう。私の歌、月華律では評価されないから」


 蒼羽は驚いて顔を上げた。

 優莉奈の瞳には、どこか寂しげな色が浮かんでいた。


「でも、あなたの歌は人の心を動かす力がある。それって、すごいことじゃない?」


 蒼羽は思わずそう言った。言ってしまった。

 優莉奈の目が大きく見開かれ、その後、優しい笑みが広がった。


「蒼羽さん……ありがとう」


 優莉奈が蒼羽に向かって一歩踏み出した瞬間、時間が止まったかのように感じられた。夕陽に照らされた屋上で、二人の間の距離がゆっくりと縮まっていく。蒼羽の心臓は、まるで胸から飛び出しそうなほど激しく鼓動を打ち始めた。


 優莉奈の香りが、微かな風に乗って蒼羽の鼻腔をくすぐる。ジャスミンの清々しさとバニラの甘美さが絶妙に調和した香りは、蒼羽の感覚を研ぎ澄まさせた。その香りは、優莉奈の存在そのものを表しているかのようだった――純粋で、甘美で、そして少し神秘的な。


 蒼羽は、自分の呼吸が浅くなっていくのを感じた。優莉奈の顔が、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。蒼羽は優莉奈の瞳に吸い込まれそうになった。その碧眼には、夕陽が映り込み、まるで宝石のように輝いていた。


 突然、蒼羽は緊張からか、自分の唇が乾いているのを意識した。思わず舌先で唇を湿らせる。その瞬間、優莉奈の視線が蒼羽の唇に注がれた。蒼羽は頬が熱くなるのを感じた。


 二人の唇の距離は、もはや数センチしかない。蒼羽は優莉奈の吐息を感じることができた。それは暖かく、甘い香りがした。蒼羽の全身が小さく震えた。これから起こることへの期待と不安が、彼女の中で渦巻いている。


 優莉奈の長いまつげが、ゆっくりと閉じられていく。蒼羽も思わず目を閉じかけた。唇と唇の距離は、もう1センチもないだろう。蒼羽は、自分の心臓の鼓動が耳の中で鳴り響いているのを感じた。


 そして、まさにその時――


「誰かいるのか?」


 突然、見回りの先生の声が響いた。

 二人は慌てて離れる。蒼羽の頬は真っ赤に染まっていた。


「また、会えるかな?」優莉奈が囁いた。


「ええ、きっと」蒼羽は小さく頷いた。


 二人は急いで別々の方向に走り去った。蒼羽は自分の部屋に戻ると、ドアに寄りかかってゆっくりと床に座り込んだ。


 激しく鼓動する心臓を押さえながら、蒼羽は呟いた。


「これは……なに? ……月華律では説明できない……感情……予感……?」


 蒼羽の瞳が、月光のように輝き始めた。

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